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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】里山に来た「エネルギー革命」

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【色平哲郎氏のご紹介】


里山に来た「エネルギー革命」
(月刊MOKU2000年3月)

 この数年、村のおじいさん、おばあさんたちに接していて驚いたのは、診療や往診のときに見せてくれる目と、彼らのフィールドである田んぼや畑で出会ったときの目が違うことだ。“仕事場”での彼らの目は、常に光っている。いや、光らせている。その光る目の先は……雑草。

 田んぼでも畑でも、雑草を見つけるとスッと抜く。かいがいしく世話をする。それは、雑草が種を飛ばし、自分の土地だけでなく隣の田や畑に広がることを恐れるからだ。「ものぐさ」は農業を破壊し、村の団結を壊すものとして後ろ指を指される。共同体の不文律が、そこにある。

 
 同じように、山にもこまめに手を入れる。下枝を落とす、不要な枯れ葉は取り除く。そうしなければ、村人が生きていける山ではなくなってしまうからだ。

 
 京都での大学時代、農学部が管理する芦生演習林を春夏秋冬に及んで歩いた。由良川の源流にあたるこの別天地は、先達・宮本常一の事跡を思い起こし、また「地域というものは外からの援助では決してよくならない。そこに実際に住んで日々の暮らしを送っている者自らがつくっていかなければ決してよくならないんじゃ」と語った宮本の言葉を、わが身に投げかけた場所でもあった。ここを歩くうち、林には二種類あることに気がついた。一つは奥山と呼ばれる、人の手の入っていない大径木の森。もう一つは里山と呼ばれる、人の手を入れた二次林。

  一般に山は、まったくの自然状態のまま放置されると、更地に始まり更新が行われ、一年性の草が生え、多年性の草木の次に陽樹が出てくる。陽樹は、日の当たるところでしか育たない、比較的成長の速いコナラ、ミズナラ、クヌギ、そしてアカマツ、クロマツなどのマツ類である。やがて、その陽樹の下の日の当たらないところでも成長できるモミ、ブナなどの陰樹が育ち、陽樹を追い越していく。すると、もう陽樹は育たない。山は陰樹に覆われ、人の手を入れるのが困難な原生林、極相林になっていく。

 里山とは、人が生活の糧をいただく陽樹の森のことである。人が伐ったりして、その後に自然に生えてきた二次林である。アニメーション作家・宮崎駿が描くような、子どもたちが駆け回るドングリのある森、あの世界。人と動物の交流の場でもあった。

 鳥やケモノは人の住むこちら側には出てこない。人間も、その奥の深い森には入っていかない。奥の深い山は、木地師、マタギ、たたら師といった山のプロたちのフィールド。

 村人たちは、この里山で木を伐り、炭を焼き、しいたけを育て、ワラビやフキを集め、松茸を採り、下草や柴を刈った。伐った木で家を建て、余分な枝木は自家用の燃料としてボヤ炭、バラ炭にして冬に備え、その灰は肥料として畑に入れた。落ち葉や枯れ枝を拾い集めて林床を貧栄養にすることで、松茸が出てくることが期待できた。ヤブのない林床にしておくことで積もった雪の上にケモノの足跡を残し、獲物を捕獲することができた。山の恵みをいただき、馬の飼い葉まで得るというように、里山での営みすべてが生活と直結していた。

 こうした里山を維持するために、村人は山に手を入れた。放置しておけば、山はすぐにでも自らの進むべき道を歩み始め、陽樹から陰樹の原生林へと姿を変えてしまうからだ。そうなっては、生きていけない。陽樹、すなわち落葉広葉樹だからこそ切り株から「ひこばえ」が生えることを、それが二十年もすれば成長した木として貴重な薪炭の貯蔵庫となることを、そして、このトータルリサイクル・ゼロエミッションによってこそ村は生き続けることができることを、山に生かされた時代の人々は知恵として受け継いでいた。

  人の手を入れることで、里山は里山であり続けていた。

 里山であり続けることで、煮炊きの燃料を求めて遠くへ遠くへと薪を取りに歩いて出かける必要もなくて済んでいた。

 生きるために、村人は田畑や山に常に目を光らせていたのだ。

 ところが、四十年ほど前、エネルギー革命がやってきた。ちょうど高度経済成長が始まる時期。石油や電気、ガスが暮らしの中に根付き始めた。車に乗り、バスが通い、家々に電化製品が普及し、ガスで煮炊きする生活が浸透する一方で、竈や薪や炭は時代の片隅においやられていった。古来、変わることのなかった日本人の生活スタイルが、このエネルギー革命一つで大転換した。

 エネルギー革命は、山も変えた。薪や炭の需要が激減して、ドングリの森が、植林された経済林としてのカラマツ林になった。カラマツには虫がつかず、虫を追う鳥がいない。小鳥を追う小動物もいない。「沈黙の森」になり、生態系も変化した。

 人の手の入らなくなった「さびしい森」を越えてシカやイノシシが里へ出てくるようになった。食料のないカラマツ林を抜けて里に出て「害獣」と呼ばれるようになった。

 山を生きる場所と考えなくなった村の若者は都会へ出ていった。代々伝えられてきた知恵と技を受け継ぐ者はいなくなった。里山や入会地を保有保全することの価値が薄れていった。だれも価値を見出さない山や樹木は、宅地化など大規模な開発の流れに押し切られていくしかなかった。

  落葉広葉樹からひこばえが出るぎりぎりの時間は四十年と言われる。いま、エネルギー革命から四十年。

 「コナラはミズナラに比べて水気が少ないから、いい炭になった」 と言う村の古老に、 「いま伐ったら、ひこばえは出るかな?」と聞くと、
 「どうかな……」
 「最近、手入れてない?」
 「炭を焼く人もいないね」と答えた。

 「木を伐って山を残す」という知恵も技も、コナラやミズナラと一緒に四十年の歴史の中で消えかかっている現実。「環境保護」を唱える現代人に「伐って残す」という考え方があろうか。

 尊敬する記録映像作家の姫田忠義氏は民俗学者・宮本常一の高弟である。その姫田氏が高知県の山村・椿山で三十年前に行われていた焼畑と現在の椿山の様子を撮った映像が、一月下旬、テレビで放映された。小さな山村が生きるための道だった焼畑も、すでに途絶えて久しく、いまでは植林されたスギの経済林に変わっていた。村人も十数人しかいない。

 かつてこの村で暮らし、町に嫁いでいった女性が、一人山に残った母親のもとへ孫を連れてお盆に戻ってきていた。父や母が登って焼畑をした山を見つめ、涙した。その涙は、日本人に共通の「原風景」「文化」を霞ませる。

 人が里山を育てながら、実は、人は里山に育てられていた。

 手入れの行き届いた黒々とした畑が、僕の家の前に広がる。その手前に、ほんの猫の額分だけ緑色の一角が見える。きょう診療所で点滴を打った隣の地主さんが貸してくれた、わが家の畑だ。

 しかし、負け惜しみに言わせてもらえれば、野菜と雑草の同居する「ものぐさ」の小さな畑からも、じゃがいもだってパクチ(タイの香草)だって、できてくる。それだけでも僕たち家族にとってはうれしいのに、このパクチを村に嫁いでいるタイ人の女性に届けると、まるでエビで鯛を釣るみたいに(?)、おいしいタイのスープに姿を変えて戻ってくる。だから、僕は子どもが間違ってパクチをスッと抜かないように目を光らせる。

 辛いスープをいただきながら、土地の実りの豊かさも一緒に噛みしめる。

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