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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】肉なしカレーとお産

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【色平哲郎氏のご紹介】


肉なしカレーとお産 (月刊MOKU2000年2月)

 山道を上っていくと、ほどなく群馬県に入る。少し南へ行けば埼玉県、ひと山越えた南側は山梨との県境になる。
 僕は初代の診療所長として二年前に、ここ南相木村へ家族で赴任した。北の御座山、南の天狗ぐ山の四季の装いも、見慣れたものになった。
 山の幸を近所の人から頂くことがある。一昨年秋の四十本の松茸は、私たち夫婦と三人の子どもでは食べきれなかった。シカの肉は、狩猟許可の診断書を発行した僕への土産というよりも、山で暮らす男としての腕前の披露の意味が多分に込められていたよう
な気がする。
 南相木村の十の集落は、峰雄山の山間に点在する。村を流れる相木川は千曲川に合流し、その後信濃川となって長い旅の末に日本海へ注ぐ。
 昔は林業と養蚕で生計を立てている家がほとんどだったが、いまでは町まで舗装された道路が通り、佐久や小諸まで勤めに出る人も少なくない。また、そういう町場で商売を始めて成功している人もいる。隣の南牧村の野辺山高原は、高原野菜の産地として知られるようになった。「億」を超える年収の農家もある。山の村にも「お金を介した関係」が確実に浸透している。
 最寄りの駅はJR小海線の小海駅だが、それでも十三キロほど下らなければならない。昔は、といってもそれほど遠くない過去なのだが、南相木村診療所が常勤化される以前、村人たちは小海の診療所や病院まで足を運んでいた。
 人口千三百人の山の村は、六十五歳以上のいわゆる高齢者が四百四十人と三三パーセントを越し、全国平均の一六パーセントと比べても、その高齢化がわかる。また、戦争が終わったときは二千七百人から住んでいたと聞くから、その過疎化もわかる。当然、僕の目の前に座られる患者さんも、お年寄りの方が多い。
 診療所にはお年寄りの相手が上手な看護婦さんがいてくれるので、いろいろ助けてもらっている。僕と同い年の三十九歳のその看護婦さんは、隣の村で育ち、隣村の男性と結婚し、この村で働いている。
 その彼女は小学校四年まで山の分校に通っていた。二十数年前に廃校になったが、三十年前は、分教場に彼女たちの元気な喚声があふれていた。
 当時すでに学校給食が行われていて、ふだん家庭では口にできないカレーライスやスパゲティも食べることができた。自分のうちの台所を仕切っているおばあちゃんやおかあさんは、そんな食べ物はつくらなかったから、子どもたちは給食を楽しみにしていた。戦後、味覚が変わり始めたころの話である。
 そんな時代だったから、給食代はお金で払う必要はなかった。野菜を三キロ、現物納入すれば、それがそのままおかずになった。「お金を介さない関係」が生きていたのである。
 しかし、ふだん、カレーの中に肉はなかった。牛や馬はそこら中にいたが、家畜は食料ではなく、運搬用であり、農作業の貴重な労働力であった。
 そのため、分校の子どもたちは雪の積もった山の尾根を駆け上り、兎を追った。「ここから先は追ってはいけない」と先生が指示したところまで追うと、上から鉄砲を抱えた大人たちが「パンパン」と撃つ。兎に当たれば「肉入りカレー」、外れれば「肉なし
カレー」だったと彼女は笑った。
 東京と新潟で少年時代を過ごした僕も、給食で食べたカレーやスパゲティを家でもつくってほしいとねだった記憶がある。しかし、“兎追いしあの山”も“小鮒釣りしかの川”も急速に僕の目の前から消えていく、ちょうどそんな時代だった。
 だが彼女にとっては、あの「ふるさと」の歌詞と同じ風景が、自分の生活そのものだったのだ。
 八十六歳のおじいさんが語ってくれた話。
 彼が子どものころ、母親が六人目の子を産んだ。ところが、お産のすぐあと、お腹が痛くなってきた。産婆さんも手に負えないという。すぐに医者に診てもらわなければいけないのだが、村には電話も車もなかった。小海の町まで行けば医者がいるが、急いでも片道二時間はかかる。村の若者に走っていってもらうことにした。
 しかし、お願いするには、なにかしなければいけない。そこで、どうしたか。若者に御飯をたらふく食べさせた。お金をあげる習慣はなかった。
 ご馳走してもらった若者は走って下っていった。しかし、なかなか戻ってこない。母親は苦しんでいる。やっと戻ってきたのは六時間後、それも医者と一緒に車に乗って。このとき村人たちは初めて自動車というものを見た。
 戻ってきた若者が言うには、最初に行った馴染みの医者が不在だったため、川向こうの、ふだん付き合いのない医者を呼んできたとのことだった。馴染みの医者であればすぐに診費を払う必要はなく、節季払いでよい。その医者は診療後に「はい、四十円になります」と言った。みんな、「往診代二十五円」と「車代十五円」との金額に圧倒された。
 現金で払うべきものと、現金を必要としないものとが、当時の村の生活にはあった。村の中では、人と人との間にも、共同作業など「お金を介さない関係」が成立する時代だった。医者を呼びにいってくれた若者に対するように。しかし、医者には、それは通用しなかった。現金化できるものは蚕と子馬だけで、野菜は野菜の価値でしかなかった。村人にとって、医者を呼ぶことは、ぎりぎりの暮らしの中で大きな負担だった。「医者どろぼう」という言葉が生きていた、そんな時代だった。」
 分校の友達と雪山に兎を追った少女は、こんな村の生活からは抜け出したいとずっと思っていたので、中学を卒業すると佐久病院の看護学校に入った。「町場はすごい」が、初めて親元を離れて目にした佐久平の印象。看護学校の同級生と話をしていても、田舎者というより外れ者の気がした」。逆に、定年間近のベテラン看護婦たちとは、育った環境が似ていたらしく、話が合った。「町場の四十年前の世界に、自分は暮らしていたんだ」と思ったという。
 その彼女も、自分が子どものころそうやって大人たちから教えてもらったように、いまは自分の子どもと山へ入り、「あそこに岩茸があるんだよ」と伝えている。どんな意味があるのかもわからずに教えられたことが、いま彼女には、とても大切なものになっている。
 一方、「四十円」を体験したおじいさんが子どものころ、村の古老は、「お金がないから貧乏だなんて、いったい、だれが決めたんだろうね」と言っていたそうだ。それはムラがクニという巨大な力に飲み込まれていく昭和農村恐慌前夜の時代だった。そして十二歳だった長男は、図らずも母親と弟の死によって、初めて医者や車などというものに接することになっただけでなく、「どうしても、お金がなければ……」と考えざるをえなくなった。
 都会に育った人間は、何につけても「いくらだろうな?」と、ついつい考えてしまう。しかし、そうなる以前、人間関係の中で「自分がやれることは、できるだけやってあげよう」とした関係、「お金を介さない関係」が少し前の日本にも確かにあったのだ。

 いま、車はどの家にもあるが、兎を追う子どもの姿は見かけない。

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