1960年代後半から1970年代にかけては、アメリカとソビエト連邦を中心とする東西対立とともに先進工業国(北側)と開発途上国(南側)のあいだの南北問題が顕在化した時期でもあった。開発支援や保健医療に関して、この時期に画期的な試みが世界各地で実践されていた。ひとつは、Schumacher が1965年に設立したIntermediate TechnologyDevelopment Group (ITDG)である。適正技術の重要性と理論化を行い、1973年に出版された「Small is beautiful」は途上国の開発にかかわる援助関係者に大きなインパクトを与えた。大規模な灌漑施設や土木工事ではなく、農村が育んできた伝統的な技術の合理性と持続可能性に注目した。また、1960年代後半の中国文化大革命に伴う「はだしの医者」運動も(その実体が明らかにされた現在では種々の批判があるが)、当時は農村部の保健医療改善に携わる世界中の関係者に大きな衝撃を生んだ。また、メキシコ西でのフィールド活動を行っていた Werner の名作「Donde No Hay Doctor (Where there is no doctor)」が1977年に発行された。当初はスペイン語で書かれ、その後多くの言語に翻訳され、途上国のフィールドにおける保健医療の実践的指針としてその後長く活用されることになった。
このような時代背景のもと、各国で別々の目標を立てるのではなく、先進工業国と開発途上国を包含し、世界共通のゴールとして「2000年までにすべての人々に健康を!(Health for All by the Year 2000)が設定された。そして、その目標を達成するための戦略として取り上げられた理念が、プライマリヘルスケア(Primary Health Care: PHC)であった。
「今まで、この村では、小さい赤ちゃんがいっぱい死んでいった。だれも、好きでボランティアをする人はいないよ。だけど、子どもたちが健康で、コミュニティの人が安心して暮らせるようにするためには、行政が何かしてくれるのを待つのではなく、コミュニティの人間ががんばらなきゃいけないんじゃないか。」その根底にあるのは、自分たちも決して経済的に豊かだとはいえないけれど、コミュニティのために自分たちにできることから始めていこうという、PHCで高らかに謳われた自助自立(self-relaiance and self-determination) の精神だった。