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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュのNHK【堀 文子】『こころの時代』を見るー日本が危険な瀬戸際に。何をするか、わかりませんよ。国家が野心を持つと。国家権力に反抗するには、相当な勇気と智慧

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孫崎享のつぶやき】
NHK【堀 文子】『こころの時代』を見るー日本が危険な瀬戸際に。何をするか、わかりませんよ。国家が野心を持つと。国家権力に反抗するには、相当な勇気と智慧
2015-12-15 07:528




堀文子氏は凄い発言をした。それをNHKが報じた。多分こんなことは起こらないであろう。
 是非、多くの人に読んで欲しい。
出典:http://miyukikko.cocolog-nifty.com/bl…/2015/…/nhke-1064.html
【放映日】2015年10月11日(日)
【タイトル】堀 文子『シリーズ、私の戦後70年・今、あの日々を思う』
【話し手】日本画家・堀 文子
【聞き手】ディレクター・浅井 靖子
【語り手】広瀬 修子
今年の春、兵庫県立美術館にて
堀 文子【一所不住・旅】展が開かれ、5万人を超える人が訪れた。
その案内には、「画業八十年、 堀文子の挑戦は終わらない」とある。
日本画家・堀 文子は、今年97歳を迎えた。
案内の看板絵は、この画家の代名詞的な、お馴染みのミジンコ。
画家は、住まいを変えながら、世界を旅しながら、その時々の自分に安住せず、絶えず新たな美を追求してきた。
今回の展示会では、130点の絵が時代を追って紹介されている。
1992年の『終わり』という作品の映像に被ったナレーション。
「大地を見つめる貌は敗北ではなく、その痩せた姿にも、解脱の風格があった。
その貌一杯の種は、次の命を宿し、充実していた」
絵は、枯れ果てたひまわり畑の風景でした。
最新作は、2014年『冬枯れの萩の姿』
95歳の画家が、自宅の枯れた萩の姿に、命の痕跡を見出した作品。

**********************************

以下、インタビューに応え、画家が話す中で、印象に残った言葉 ――
(「一所不住」のモットーについて)
私は感覚、眼の職人だから、慣れてくる物を見なくなる。
だから、なるべく知らない方が良い。家も変えた方が良い。
狐でも、野生動物は、巣を知られると危険だから、絶えず巣を変えます。
庭の自然も自力で生きている。
どんな雑草でも、自分の力で死ぬまで生きている。
それを見ることが、今の私の刺激です。
自然は誰の力も借りず、自分の出番を間違えずに、ちゃんと、咲きます。
夜中に、色んな夢を見ます。
今までの100年近い人生の中で、一番多く出てくるのが、幼い日の夢です。
ですから、いかに子どもが、この世に初めて生まれて出て、この世を見て驚いた時の印象が強かったかがわかります。
ですから、私のような物作りの職人は、子どもに帰ることが修行だと思います。
何の概念もなしに、この世を見たのですから、その時の印象の強さが、今死にかかっている、私の夢枕に立ちますね。不思議ですねぇ……
(堀さんが生まれたのは、1918年、第一次世界大戦が終結した年でした。
東京生まれ。三女。母は、当時珍しい高等女学校を学んだ人で、父は、中央大学で西洋史を教える歴史学者。子どもには、黙って本物を見せるという人でした)
私、小さい時、自分が何処にいるのかというのが、気になったんです。
麹町、東京、神戸なんて言われると、何だかわからなくなってくる。
ある時、おじがドイツに行くことになり、ドイツという国もあるらしいと、段々と空間が広がっていった驚きは、刻銘に覚えていますね。
あぁやってわかっていくんですね。
猫の子が自分の居場所を覚えていくように、ぐるぐる回って見ているのと同じで。
日本というのがあるということを、そこで知るわけです。
変な子でした。
父が庭風に庭を造るのが嫌でしたので、自然と同じようにしていましたから、鬱蒼としていました。草花を植えると叱られる。昔の庭園は花なんか植えない。花の咲かない木を植えていました。
(大正から昭和へ。堀さんは日本を揺るがした数々のできごとを体験しています。
変わっていく日本の姿を見つめていました。
関東大震災は、平川町の自宅で体験しています)
満5歳の時、関東大震災が起こったのです。
大混乱の中、母親の元に行くと、母親は虚ろな目をして、私の方を見ない。
いつもの母親のように頼もしくなかった。その時、只事ではないとわかったし、誰にも頼れないともわかったのを覚えています。
今でも鮮明に、夢にも現われてきますが、木に、お腹の大きな蟷螂が、ゆっくりと上がって行くのを、眼に焼き付いています。
人間はこんなに狼狽えているのに、何て蟷螂は偉いんだろう。
強い印象が忘れられないです。
父は歴史学者でしたから、インテリの際たる人。あれほどインテリの厳しい姿勢をする人は見たことがない。
その人が、「日本は危ない」と、私たちを躾けていた。
陸軍は世界のことを知らないから、調子に乗っていて、今に何をするかわからない。非常に危険だ、日本の未来は、と。学校で教える歴史は、皆間違ったことを教えている、と。
父の躾通りにしていると、価値観が、3,4つに分かれる。歴史の本も書き換えられていきましたから。
例えば、南朝・北朝と言って、北朝が悪くて、南朝が良いとかね。そうじゃなくて、後醍醐天皇も悪くて、バカだったと言うんです。
楠正成らに、どのくらい困ったか、この本を見てみろと、『群書類従』を出すわけ。
ですから、私は天性の矛盾の中から生まれている。その通りに、国家が、だんだん戦争に傾いていきました。
中国は大使館ではなく、公使館。中国の人を馬鹿にして、“チャンコロ”と呼んで、酷いことをしていました。
私は一心に、日本の罪を背負った気になっていた子どもでした。
関東大震災の時なんか、朝鮮人が井戸に毒を投げたとか言って、町内の人が、朝鮮人を見つけ次第殺したりしていた。酷いことをしたんです、日本人は。
ですから、国際紛争なんて、そういうとこから起きていくのですね。
(1931年、女学校入学した時、満州事変起きる)
私を育てたのは乱世だと思っています。物を見る眼がちゃんとし、一つの世論に動かされない人間になった。世論に逆らうというのは不可能に近いです、興奮状態になると。
世の中で好きなものは、スポーツとふしだらな男女のスキャンダル。今の日本と、似ているじゃないですか、熱狂的でしょ、スポーツに。オリンピックなんて言うと、何十兆円も掛けて、平気だなんて。
2.26事件も経験している。これは只事ではない。歴史の変わり目になる大事件だから、この眼で確かめなければと。
そういう癖あります。銃剣を突きつけられたら、わなわな震え、人間は何の抵抗もできないということを、あの時覚えましたね。こんな子どもに、銃剣で「何処に行く!」と言われたら、答えられない。武器には抵抗できない。
(2か月後、女子美術専門学校に入学。当時西洋の絵は、印刷物でしか眼にすることができなかった。
本物を直に見て学びたい。それが日本画を選んだ理由でした)
軍が学校を支配していくんですが、女子美も最後には支配されました。
教頭が、一人ひとり呼んで「あなたは、何のために、誰のために、描くのか?」と訊く。「私のために、描く」と言うと、「それは危険思想だ、天皇のために描くと言え!」と。
(堀さんが、絵の道を選ばれたのは? と言う質問に)
私は戦争に関係したくなかったので、美に近づいたんです。美だけは利用の仕様がない。衣食住に、何の役にも立たない。役に立たないものだから、選んだ。何をやっても、戦争に利用される、あの時代は。人殺しの片棒を担がなければならない。ですけど、美だけは人殺しに関係ないから。美なんて役に立たないんだから。役に立たないものは、蛇蝎のように嫌われ、誰も世話してくれない。
(1940年、女子美術専門学校を卒業した堀さんは、家を出て、経済的に自立する道を探します。しかし、当時は未曽有の就職難。美術学校を出た人は、教師になる以外働き口はありませんでした。
“年若い人に指図する仕事は、自分を堕落させる”と考え、東京帝国大学農学部で作物の記録係の職を見つけました)
その前、芋虫の絵を描かされました。世の中で嫌いなのが、芋虫と毛虫。芋虫は標本にならない。柔らかいから。乾かないから。しかし、これに耐えられないなら、碌な人間にならないだろう、と、
泣きながらやりました。女は大学に入れなかったんです。私は科学をやりたかったのですが。だから、一番不利な絵描きになった。麦とか、作物の絵を描くことが、自然を見る眼を養う基礎になりました。種から、どういうことになって、生命が生まれるのか、克明に見たことが良かった。
(落下傘工場で働く女たちを描いた、戦時中の絵を渡されて)
あら、いやだ。どこから探してきたの。こんなの描いているんですね。題材として、面白いでしょう、働いている女だし。
絵:『落下傘を造る少女』(1943年/国民総力決戦美術展)絵:『落下傘工場』(1943年/新美術人協会展)絵:『落下傘工場』(1944年/陸軍美術展)
男はみんな軍に使われました。私だって、あんまり抵抗していたら、絵の具だって買えなかった。紙も。画家と言う範疇から剥奪されちゃう。軍に少しは協力したことにしなければならないから、選んだのが落下傘工場。題材は戦場でなく、女工さんの群像を描けるのが、面白かった。落下傘を造っているのだから、あまり罪深くないし。飛行機や弾丸なんか造っている工場には行かないですよ。私は戦争反対者ですから、危なかったですから。密告者がいるなって感じました。用がない奴がいるの、ニヤニヤしたのが。隣組なんて密告集団ですよ。
(今の日本も、当時と同様に)非常に危険な状態にありますが、今なら、国民が競って反対すればいいんだから。女とマスコミが、しっかりすれば良いんですが、今、両方が危なくなっている。女が綺麗になりたい、美味しいものを食べたい、若返りたいとか、子ども声を張り上げて、アナウンサーまで、ヒーヒー声をして、成熟した大人の声じゃない。敬語はなくなるし、
日本が危険な瀬戸際にいるように見えます。国家権力に反抗するには、相当な勇気と智慧がいります。下手をすると牢獄に繋がれる。何をするか、わかりませんよ。国家が野心を持つと。それでも、軍に捕まらない智慧だけは働かせました。山の中で過ごすのが大好きでした。母が信州の人でしたから、山に居たんですね、先祖から何百年間。DNAが私の中に繋がっている。関東には山がありませんが、私の初期の絵には、全部山が描かれています。そうすると、落ち着くんですね。人間は、先祖からのDNAの中に、好きな風景が残っている。
(堀さん27歳の時、敗戦。自宅は空襲で全滅。兄は戦死。弟も学徒出陣後、病死。男手を失った堀さん一家を、堀さんが本の装丁や挿絵の仕事で支える。特に、子どものための絵本に力を注ぐ。その一方、公募展にも出品)
絵:『廃墟』(1948年)
(かぶせて、堀さんの言葉を、語り手の声で)
泥水を掻き回し、その混沌の中から顔を出すようにして、
いつも私の絵は生まれた。人は必ず、その絵の説明や意図を訊きたがる。こうなってしまった、と答えるしかない。もう死ななくて良い日がきたという、あの喜びはないですね。侵略なんですから。平和な人類を殺して歩いた。戦争が終わってみると、みんな反対したって言うんですよ、その時黙った癖に。私は絵が売れるとは思っていなかったから、印刷物がここまで発達した時代に、大衆と結びつくのは印刷物だと思って、色んな雑誌にカットなど描いていた。大衆の中で生きるには印刷物しかない。絵を売るなんて、有名な絵描きの弟子ではない私なんか、画商が相手にしない。そんなもの描いていても仕様がない。金持ちの慰めものになるだけ。金持ちだって、本当は私の絵が好きじゃなく、お蔵にしまってしまう。大衆と結びつかなく、堕落するしかない。だから、私は印刷物で生きるしかないと、稼ぎまくった。
(子ども向けの絵本だって)子どもに阿るようなことはしない。子どもを堕落させるようなことはしません。子どものには、最高のものを見せなくてはいけません。
一心不乱に描きました。最高の美を見せなければ駄目になるんです、その子は。朝鮮の人達に酷いことをしたので、大変申し訳なく思って、戦後、その人たちと親友になって、描かせてもらいました。
(1961年、43歳の時、初めて海外へ3年間の旅。エジプトから、ギリシア、イタリア、フランス、アメリカ、メキシコなど、文明の跡を辿りながら、その土地と人間を見つめる日々を過ごしました)
絵:『仮面と老婆』(1966年)
(かぶせて、堀さんの言葉を、語り手の声で)
昔の絵はもう描けない。私はいつも、己と一騎打ちをしています。
(1987年、高度成長期の東京を離れ、神奈川県大磯の山麓で暮らし始める)
絵:『浅間厳冬』(1987年)
(かぶせて、堀さんの言葉を、語り手の声で)
山に住み、草木と呼吸合わせながら日々を送っていると、万物流転の定めが素直に我が身に染みるのである。
(1987年、68歳。バブルに狂奔する日本を脱出。単身イタリア、トスカーナへ)
絵:『トスカーナの田園』(1987年)
収穫量など頓着なしに、赤い罌粟を好きなだけ咲かせている村人の心の豊かさ。風景は思想だという思いが、体の底から突き上げてくる、あの日の衝撃。
(戦後70年夏、大磯の自宅で、大きな選択を迫られた日本を見つめていました)
物事が崩れ始めると、ガラガラと崩れちゃいます。ですから、崩れる前に、騒がないといけない。日本、何するかわからないです。今、戦争の記憶を忘れてしまって、今の政府が、もう一度、勢いのある日本を取り戻したくなっている気がして。非常に危険だと思っています。どんなに軽蔑されても、人の命で、戦ってはいけません。

コメント(5)

「物事が崩れ始めると、ガラガラと崩れちゃいます。ですから、崩れる前に、騒がないといけない。日本、何するかわからないです。今、戦争の記憶を忘れてしまって、今の政府が、もう一度、勢いのある日本を取り戻したくなっている気がして。非常に危険だと思っています。どんなに軽蔑されても、人の命で、戦ってはいけません。」

この、堀文子さんの、最後の引用が、印象的ですね。

日本はまさしく、この状態、今年の漢字は「安」でなく「騒」です。
>>[1]

堀さんへの言説、共感を覚えます。
私も安倍安保の「安」でほはなく、「騒」のほうが近いと思います。
「物事が崩れ始めると、ガラガラと崩れちゃいます。ですから、崩れる前に、騒がないといけない。日本、何するかわからないです。今、戦争の記憶を忘れてしまって、今の政府が、もう一度、勢いのある日本を取り戻したくなっている気がして。非常に危険だと思っています。どんなに軽蔑されても、人の命で、戦ってはいけません」。

こんなことが言える「日本人」が少なくなりました。

今、安倍政権を止めないと、「日本を取り戻すために」、中国を相手に戦争をしようとします。
アメリカは止めるでしょう。すると、今度は、「反米」になります。
そして、「鬼畜 米中!」と叫ぶのです。

そうなったら止められません。
「今、ですね」。
>>[4]

そう、今、ですよね。同感です!!

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