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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュのナショナリズムに傾く20代の人へ。是非、学んでほしい事・戦後のドイツの生き方

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ナショナリズムに傾く20代の人へ。是非、学んでほしい事・戦後のドイツの生き方
2014-02-16 07:52
孫崎享のつぶやき

 出典『日本の国境問題』


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 日本は第二次大戦、ドイツと共に戦い、共に敗戦国となった。終戦後はソ連が両国の共通の脅威であった。
私が外務省で国際局長時代、ドイツから連邦議会外交委員会一行が来日した。ドイツ大使が意見交換をするために日本側の何人かを昼食会に招待した。ここでドイツ議会外交委員長は次のように助言をした。
「戦後、我々はフランスとの確執を克服した。独仏には昔から領土問題がある。二回の戦争を戦った。相手の国が如何に非人道的なことを行ったかを指摘しあえばお互いに山のようにある。しかし、我々は二度の戦争を繰り返し、このような犠牲を出す愚行を止める決意をした。憎しみあいを続ける代わりに、協力をしあうことの方が両国民に利益をもたらすことを示した。そして、これまで戦争の原因にもなった石炭・鉄鋼を共同管理するために、1950年欧州石炭鉄鋼共同体を作った。それが欧州連合に発展した。今や誰も独仏が戦争することはないと思っている。
しかし、もし、第二次大戦後も相手国が如何に自分達の国を痛みつけたか、自分達の本来の権利が今踏みにじられているかを主張しあっていたら、仏独関係は最も緊張ある関係になっていただろう。」
この考え方はドイツの一貫した政策である。ドイツの首相、外務大臣を歴任したシュミットも同様な考えを明確にしている。
 「我々が隣国の利益を損なわず、彼等の主な利益を満たすように努力し、配慮する度合いに応じて、欧州の変化のプロセスはドイツにとって有利に展開するだろう」(シュミット著『ドイツと隣人たち下』
確かに、第二次大戦後、ドイツは領土問題でフランスに対し譲歩した。譲りすぎでないかと思う位譲っている。それは敗戦国の宿命でもある。
アルザス・ロレーヌ地方の扱いがその一つである。
第二次大戦後、このアルザス・ロレーヌ地方で二つの出来事が起こっている。一つはアルザス・ロレーヌ地方でフランス化政策が強引に推進された。今一つはこの地域をEUの都市とする試みである。欧州連合は欧州議会本部を、この地の中心都市ストラスブールに置いた。今ストラスブールを中心としたドイツ、フランス領にまたがるこの地域に「ヨーロ地域(Eurodistrict)」と呼ばれる行政地域が設定され、両地域の協力と統合が推進されている。かつての争いの地が今や協力の象徴的存在になろうとしている。
第二次大戦後、日本とドイツに対する扱いは圧倒的にドイツに厳しかった。ソ連はポーランドの東部地域を自国領とした。その分、ポーランドの領土が西にずらされ、ドイツとの国境がオーデル・ナイセ線となる。オーデル・ナイセ線より東側に住んでいたドイツ人は追放された。ドイツからポーランドに与えられた土地は112,000 km²である。日本で言えば九州(44,466 km²)、四国(18,300 km²)、中国(31、917 km²)を合わせたより大きい地域である。港カリニングラードはソ連に割譲された。
ポツダム合意ではソ連がソ連支配地からの賠償の権利と、西側支配地域からの10%の工業能力が賠償として与えられた。さらにドイツ海軍や商船は三ヶ国に分割し与えられた。
こうしたドイツ領に対する厳しい一環がアルザス・ロレーヌ地方のフランスへの分割である。市村 卓彦著『アルザス文化史』は1954年時点での言語の使用者を次のように記している。
              アルザス語     フランス語
   オー・ラン県     43万6千人   3万2500人
   バ・ラン県      66万人     3万2400万人
言語で判るように、この地域の住民はドイツ系であった。
アルザス・ロレーヌ地方は九州の7割位の土地である。戦後九州位の土地が中国か韓国に割譲され、そこにいた住民は中国国籍か韓国国籍にさせられ、これまでの日本語から中国語か韓国語を強制的に話させられるようなものだ。
更に1940年春フランスがドイツに敗れると、この地はドイツ敗北までドイツの支配となる。当然ナチとの協力者が出る。戦後アルザス地方で戦争犯罪人として約2万人が訴追され、刑事で5千人、民事で6千人が有罪となる(上述『アルザス文化史』)。戦後ドイツは連合国側に分割統治された。1949年第一回連邦議会が開催されるまで、「ナチス支配後あったのは国家的真空であった」(アデナウアー著『アデナウアー回顧録』状態である。テオ・ゾンマー著『1945年のドイツ』は次のように書いている。
「 ドイツを取り巻く戦後の状況を垣間見ただけでドイツ人の気持ちは突き落とされ、力は失われていった。ドイツという国がなくなっていたのである。ドイツが倒壊した中で国家を作る三つの要素が消滅していった。国際的にも国内法的にも明確に定義されることの出来る国家権力がなく、領土もなく、そして国民もいなかった。
  1945年には如何なる疑念も存在していなかった。ドイツ人は自国の中で如何なる権利を主張することができなかった。占領国は法律を独自で制定する権力も有していた。」
 「ドイツを統治するためのあらゆる権力、つまりドイツ国防省や政府、行政府の権限、各州の市町村の権限は連合国という管財人に移行した」
アルザス・ロレーヌ地方がフランスの領土になり、ドイツ系が苛酷な運命をたどっていたとしてもドイツとしてなす術がなかった。交渉する本体、ドイツ国はなかったのである。
こうした中、ドイツはどう生きたか。臥薪嘗胆、捲土重来、次の時を待ったか。
1949年から61年ドイツ首相の任にあったアデナウアーは次のように述べている(『アデナウアー回顧録』)
「新しいドイツ人は断固たるヨーロッパ人たるべきである。そうすることによってのみ、ドイツは世界に平和を保障される」
ドイツは奪われたものを奪いかえす道を選択しなかった。むしろ奪われたものを欧州全体のものとする制度を求めた。これにフランス側も呼応する。国際社会も呼応する。長年独仏間の戦争の火種であったルール地方の石炭はフランスが管理するのではない。この資源は、仏、ベルギー、ルクセンブルグの炭鉱と一緒になって、欧州石炭鉄鋼連盟の管理となった。アルザス・ロレーヌの中心地ストラスブールは欧州議会本部を持つことによって、欧州の都市としての道を歩み、繁栄を始めた。


第2次大戦後、多くの領土を喪失したドイツは歴史の中で新しい生き方を見いだした。独仏間の過去の歴史は臥薪嘗胆、捲土重来の繰り返しであった。奪われた土地は力で持って取り返す。絶え間ない戦争があった。しかし第二次大戦後のドイツは新しい道を探り出した。敗戦の結果、奪われることとなった運命は受け入れる。同時に、相手国、さらにはその他の国をも含むEUという組織の中核となる道を選択し、今日ドイツはEU内で最も影響力のある国家となっている。ドイツは国家目的を変更した。「自国領土の維持を最重要視する」という古典的生き方から、「自己の影響力を如何に拡大するか」に切り替えた。その影響力は自己の領土を越えたものである。今日世界各地の行政機構の中で最も重要なのは金融である。欧州には欧州中央銀行がある。この銀行はユーロ圏16か国の金融政策を担う。従って欧州中央銀行は世界でも重要な中央銀行の一つである。この欧州中央銀行は(1)本店はドイツのフランクフルトにある、(2)その組織はドイツ連邦銀行の組織に近い、(3)その政策は通貨の安定を主たる目的としており、ドイツの金融政策に近いという特色を持つ。これをみても、ドイツが欧州中央銀行に特別の影響力を持っていることがわかる。ドイツは大量の領土の喪失ということで「名」を捨てた。しかし、独の領域を越え、欧州全域の金融政策の指導的立場を取るという「実」を得た。別の表現をすれば、独は敗戦で名を捨てざるをえなかった。その環境の中で積極的に名を捨てる姿勢を貫き、他方で実を取る戦略を打ち立てた。その戦略をドイツ首相アデナウアーが打ち立てた。シュミット首相(74年– 82年)は独社会民主党を基盤とし、アデナウアーはキリスト教民主同盟 (CDU)を基盤とし、両者の政党基盤は異なる。しかし、「失ったもの(領土)は求めない、その代わり欧州の一員となりその指導的立場を勝ち取る」という国家目標は同じである。


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