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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの北方領土を論ずる時、歴史的経緯をまず知るべし(1)

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北方領土を論ずる時、歴史的経緯をまず知るべし(1)
・サンフランシスコ講和条約:吉田放棄発言



2014-02-09 08:132
孫崎享のつぶやき


日本はサンフランシスコ講和条約で独立した。
 その時には様々な約束をした。
 しかし、不思議に、この約束をほとんどの日本人は知らない。
 国際法的には、領土問題は如何なる約束があるかが最も重要である。
 次は私の『日本の国境問題』からの抜粋である。

 ******************************
:サンフランシスコ講和条約での扱い
―吉田首相、千島放棄に合意。千島に択捉、国後が入っていることを明言―
サンフランシスコ講和条約(一九五一年九月八日署名)において、第二章(c)は「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する」とした。
その直前九月七日吉田首相は「千島南部の択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシアも何らの異議を挟まなかったのであります」と述べている。
 この吉田首相の演説は二つの意味で重要である。
一つは「「千島南部の択捉、国後両島が日本領である」という「択捉、国後固有の領土論」は国際的支持を得られず、日本は千島列島全体の放棄を受諾せざるを得なかったことである。
今一つは択捉、国後を千島南部と位置付け、放棄した千島に入れていることである。昭和26年10月19日、西村条約局長は衆議院での国会答弁において、「条約にある千島の範囲については北千島、南千島両方を含むと考えております。しかし歴史的に北千島と南千島はまったく立場が違う」と答えている。更に昭和26年10月26日 衆議院本会議において(サンフランシスコ)平和条約の承認を求める際、日米安全保障条約特別委員長田中萬逸氏は「遺憾ながら條約第二條によつて明らかに千島、樺太の主権を放棄した以上、これらに対しては何らの権限もなくなるわけであつて、国際司法裁判所に提起する道は存しておらない。またクリル・アイランドの範囲は、いわゆる北千島、南千島を含むものである」と説明している。

国際的にみても、フランス政府はサンフランシスコ条約の千島の扱いについての日本側照会に対して「サンフランシスコ会議議事録は千島の範囲に関し言及している。特に日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する」と述べている。(松本俊一著『モスクワにかける虹―日ソ国交回復秘録』)
こうして日本はサンフランシスコ条約においても択捉、国後を主張しうる立場にない。
しかし、ここに仕掛けが潜んでいる。米英は北方領土問題を残すことによって日ソ関係の進展を阻もうとしている。

 丹波実元駐ロシア大使は『日露外交秘話』(中央公論新社、二〇〇四年)で、次の記載をしている。
「五一年対日平和条約において日本に千島列島を放棄させるが、この放棄させる千島列島の範囲を曖昧にしておけば、この範囲をめぐって日本とソ連は永遠に争うことになろう』という趣旨の(在京英国大使館発)英国本国宛ての極秘意見具申電報がある。」
 米国自身にも同様の考えがあった。 ジョージ・ケナンと言えば、二〇世紀の世界の外交官の中で最も著名な人物であろう。ソ連封じ込め政策の構築者でもあるケナンは、国務省政策企画部を拠点に冷戦後の米国政策形成の中心的役割を果たした。これを前提としてシャラーの記述(『日米関係は何だったのか』(草思社、二〇〇四年)を見ていただきたい。
「千島列島に対するソ連の主張に意義を唱えることによって、米国政府は日本とソ連の対立をかきたてようとした。実際、すでに一九四七年にケナンとそのスタッフは領土問題を呼び起こすことの利点について論議している。うまくいけば、北方領土についての争いが何年間も日ソ関係を険悪なものにするかもしれないと彼等は考えた。」
 シャラーはこれを裏付けるものとして一九四七年九月四日の国務省政策企画部会合記録を脚注で指摘している。
こうした米国の空気を反映し、日本政府はサンフランシスコ講和条約で放棄した千島の中には国後・択捉島は含まれないと発言し始める。但しその論拠だけは1955年、56年当時は混乱している。一つの説明は「そもそも連合国は領土的拡大を求めるものではない」という主張である。この点には欧州ではドイツがその領土を大幅に失い、ソ連やフランスが領土を拡大して終結しているという事実がある。反論として弱い。今一つは「サンフランシスコ条約にいう千島列島の中に国後、択捉は含まれていない」という主張である。サンフランシスコ条約当時日本は明確に「国後、択捉は南千島である」という表現を用いている。これを変更するのであるから大変な無理がある。先ず国際的に通用しない。しかし、日本国内で北方領土要求の機運を作ればそれでよい。各々の代表的見解は次のとおりである。

(1)1956年2月11日後々「政府の統一見解」と呼ばれる森下政務次官の国会答弁が行われる。
「南千島すなわち国後、択捉の両島は常に日本の領土であったものです。サンフランシスコ条約にいう千島列島の中にも両島は含まれていないというのが政府の見解であります。太平洋憲章、カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言はすべて過去に暴力により略取した領土を返還させるという趣旨であり、連合国が自国の領土的拡大を求めるものでないことを信じて疑わない(注:ドイツの扱いを見ればこの論は全くあてはまらない)。日本の固有の領土たる南千島をソ連が自国領だと主張することは、日本国民の一人として納得し得ないところであります」
(2)「国後、択捉は南千島ではない」という見解の代表的なものは、中川融条約局長が昭和30年12月09日衆議院外務委員会で行った答弁である。
「サンフランシスコ条約には島の名前は書いてないのでありまして、伝統的な日露間の協定に基くクーリール・アイランズには南千島は入っていない、こういう解釈をただいまとっておるわけでございます」
 一見なんでもない答弁である。しかし、ここに官僚としての精一杯の抵抗がある。同時に限界でもある。中川元局長は「こういう解釈をただいまとっておるわけでございます」と言っている。「ただいまとっている」である。言外に「この解釈が正しいものかは別」と暗示している。

 『中川元駐国連大使に聞く』(鹿島研究所)がある。ここで中川元大使は次のように述べている。
「(下田条約局長が)クリル(千島)の中には北方領土は入らなかったという答弁をして(いました)。もっとも国後、択捉が(千島に)入らないというのはわかりませんけどね。日本では(国後、択捉を)南千島と言っていましたからね。南千島は千島でないということはちょっといいにくいですね」
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