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性倒錯講義【異端抄】コミュの再開第一回講義テキスト【人間・壊れた猿、その変態性と退廃性の起源】

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皆様、Guten Abend.


管理人、及び【異端抄】の後方支援担当Diedirchです。
この度、異端抄の本講師となる【坂田 登】先生の許可を受け、
講義で使用したテキストの掲載を承諾頂きました。


週に1度のペースでテキストの投稿を行ないますので、
参加頂けなかった方々も、この機会に、【性倒錯=Fetish】とは
何か?の学術的見地からの学習に役立てて見て下さい。


Diedrich/泥土律毘

コメント(5)

●人間・・・神の似像か猿の似像か

 西洋思想あるいは伝統的キリスト教思想の中では、
人間のみが理性を有する唯一の動物であり、
理性を有するが故に純粋理性としての神の似像(image)であるとされてきた。

しかし、最近の研究において、ヒトの遺伝子はゴリラの
それよりもチンパンジーの遺伝子に近いということも理解されている。

人間あるいはヒトというものをいったいどのようなものとして
捉えるのか、このことが人間という奇妙な動物が有するその在り方、
特に人間と言う存在者によって生きられるところの生(性および死を含めての)を
理解する上での鍵となるであろう。

人間をあくまで神の似像即ち理性的存在者として捉えようとするならば、
人間の本質とはまさに肉体的欲望とは対立するところの理性であり、
理性によって、性欲をその中心とする反理性的な肉体的欲望を支配、
コントロールすることにおいて道徳が成立することとなる。

そのような道徳を自らの意志によって守ること、
つまりは、肉体的欲望によって支配されることなく、
理性の自律によってのみ生きて行くこと、このことに肉体的欲望から
解放された真の人間的自由があると考えられてきた。

当然、そのような「自由」の中においては、性は単なる抑圧すべき
対象でしかない。(Kant)

 しかし、ヒトと類人猿との間の近親性ということに着目するならば、
いや、むしろ人間を猿の仲間として考えるならば、ある意味において人間は
ゴリラやチンパンジーよりも劣った存在ともいえる。

なぜなら、人間は類人猿の幼形成熟(neoteny)として誕生してくるものだからである。
進化の過程において(この場合の「進化」とは決してより優れたものになるということを意味しない)、
巨大な脳を獲得してしまった人間は、直立二足歩行化に伴う産道の縮小とあいまって、
子宮内では充分に成長することが出来ず、未熟な胎児のままでこの世に誕生せざるを得ない。

即ち、人間にもっとも似た存在といえば猿の胎児なのである。
人間の身長は、その全体の大きさに比較して頭部が大きく、体毛もほとんどない。

人間とはまさに猿の胎児に巨大な脳だけを乗せたような存在なのである。

人間をこのようなものとして捉えるとき、人間が持つその生および性と死の在り方の
異様さも理解されてくるであろう。

特に、人間だけが子作りをその目的としない極めて遊戯的な(変態的な)性行動を行なうこと、
また自殺さえ行なうことの意味も見えてくるであろう。

【本文】坂田 登(福井大学)
【エディター】Diedirch(En-Sof Office)
●理性という虚構、虚構としての生、セックスそして死

あらゆる動物の中で人間のみが有すると考えられてきた
「理性」の正体とはいったい何なのか。

ゴリラやチンパンジーには理性がないといえるのか。

西洋の伝統的心身二元論では理性あるいは精神と呼ばれるものは、
物質的世界および肉体を超越した存在、あるいは超越論的なものとされ、
人間はその理性を有することにおいてのみ、価値ある、
尊い存在とみなされてきた。

しかし、そのような超越論的な理性などというものは
そもそも単なる虚構ではないのか。

人間のみが理性(logos)を有することの根拠としてあげられるのが、
まず人間のみが言葉(logos)を使うということである。

しかし、ゴリラやチンパンジーは言葉を使うことは出来ないのか。
実際にある霊長類の研究者がチンパンジーに手話を教えるという
試みを行なったことがある。

その結果、そのチンパンジーは手話による多くの語彙を獲得し、
手話という言葉を用いて、独り言を言ったり、嘘をつく
能力さえも獲得したという。

このことから理解されることは、ゴリラやチンパンジーは
理性や言葉を持たないのではなく、単に、人間がたまたま
もって生まれたところの複雑な発声を行うことの出来る
声帯を持っていないが故に、その言語能力を発達させることが
出来なかっただけだということである。

特に「嘘をつく」ということ、これこそは言葉の有する
その中心的機能である。

言葉がなければ嘘をつくことなど出来ない。

言葉とは何なのか。

簡単に言えば、言葉とは本物(実体)の代わりとなる記号、
シンボルあるいはその代替物である。

例えば、「イヌ」という言葉は本物の犬の代わりをする記号、
シンボルなのである。

そして、われわれが理性によって何かを認識するというときに、
行なっている作業が本物(実体)を記号に置き換えるという作業であり、
理性によって何かを認識するということは本物(実体)を失って、
記号を獲得するとううことである。

そのような理性のはたらきによって、われわれによって生きている
世界の全体が、われわれ自身の身体をも含めて、記号に置き換えられ、
記号化されていくのである。

そして記号はもはやその指示対象としての実体からは分離され、
浮遊する記号、シンボルとなり、われわれにとっての世界および身体は
記号あるいはシンボルによって虚構されたものとなる。

そして、超越論的理性と呼ばれるものそのものも
また理性によって虚構された記号あるいはシンボルにすぎないのである。

そのような虚構の世界および身体においては、生もセックスも死も
またその実体性を離れ虚構されたものとなってゆく。

人間にとって、その生もセックスも死も、記号化されたシンボリックな
虚構としてのみ成立するのである。

人間のみが生きる意味を問い、それに悩む。

そもそも「生きる意味」などどこにも存在しない。
われわれはもはや真の意味で「生きる」ことなどできず、
「生きる」という記号の中にさらに「生きる意味」という記号を
探し求めているだけなのである。

セックスもまた、生物学的意味での生殖行為という実体からは
切り離され、極めてシンボリックな意味を獲得するようになった。

女性差別主義(sexism)社会においては男が女とセックスするということは、
その男がその女を自らの所有物として獲得するという意味を
持つものであり、婚姻制度に関するモラル、例えば
「汝、姦淫することなかれ。」という戒律は、
他人の所有物であるところの女(夫の所有物または、結婚前の娘であれば、
父親の所有物)を勝手に盗んではならないという意味のものであった。

人間のみが死を恐れ、死の恐怖から逃れようと必死でもがく。

たとえ、今ここに死が現前しなくても、人間は、古代ギリシャ人たちが
そう考えたように、「死すべき者」としての自覚を持ち、
死への不安と向き合いながらいきてゆかなければならない。

(現代社会において「死」が隠蔽され、私たちが死への不安と向き合うことを
忘れてしまっているのは実は大きな問題なのではあるが。)
しかし、他の動物たちにとって「死」は存在しない。

ただ、彼らは死の危機に直面したときにのみ、本能的にそれを
回避しようと行動をとるだけである。

彼らは「死を恐れる」ということはしない。

人間が恐れているのは、あくまで記号化されたシンボリックな「死」にで
憑りつかれて、人間は不安と恐れの中で生きていかなければならない。

それゆえ人間のみが死の恐れから逃れるために、死者の弔いなどを
必死で行なうのであり、死についての物語(神話)を語り、死と和陸しようとする。


【本文】坂田 登(福井大学)
【エディター】Diedirch(En-Sof Office)
●壊れた本能としての人間の性欲

 全ての生物には個体保存本能と種族保存本能があるといわれるのは周知の事実であるが、それらは食欲、睡眠欲、性欲といった欲望という形で発現する。

というのも、先に述べられたように、人間は子宮内で充分に成熟することができずに、幼形成熟という仕方でこの世に誕生するのであるが、生まれてからも子宮的環境の中での成長を長期にわたって続けねばならず、特に生殖能力を獲得するまでに10年以上の期間が必要となる。

しかし、性欲はすでに幼児期から発現し、その力を振るい始める。

他の動物においては性欲の発現と生殖能力の獲得とはほぼ同時期になされ、性欲のエネルギーは純粋な生殖行動によって消費される。

ところが、人間の場合そうはいかず、全ての人間は<<性的不能者>>としての葛藤の中で、その人生をスタートするのである。

また、口唇期および肛門期と呼ばれるこの時期にも、言語能力としての理性はすでに獲得されつつあり、世界と身体とは記号化されつつある。

そこで、性のエネルギーが向かうところの対象となるのは、世界あるいは身体の中に成立する、支持対象としての実体を伴わない記号であり、さらには想像力の中でそれらの記号は無限に自己増殖してゆく。

それゆえ、人間のみが記号シンボルをその欲望の対象とすることとなり、実体的な生殖行動と性欲とは分断され、人間の性欲はその対象としてのシンボルを求めて浮遊し、さまよい続けることとなる。

その彷徨の過程は一人一人においてすべて異なり、ここに人間の性というものが有する無限の多様性が成立し、一人一人の人間がそれぞれ異なったセクシュアリティを獲得することとなる。

こうして、人間の有する性欲は生殖をその唯一の目的とする生物的本能とは全くの別物に変貌する。

記号、シンボルをその対象とする人間の性欲には、それゆえ、発情期なるものが存在しない。

他の動物の場合、性欲の本来の目的である、生殖が可能な時期にしか性欲は発現しないが、人間だけは年がら年中発情し続けている奇妙な動物なのである。

【本文】坂田 登(福井大学)
【エディター】Diedirch(En-Sof Office)
●フェティシズムとしての人間の性と死(エロスとタナトス)

 まず、フェティシズムとはいったい何なのか?
この「フェティシズム」という用語は最初に宗教学の中で
使われ始めたものである。

フェティッシュとはもともと「人工のfactice」という意味であるが、
これが17世紀以後、「呪物」、「物神」といった意味で
用いられるようになり、特に原始的な宗教において崇拝の対象となる
ものを意味する用語として使われるようになった。

例えば、日本の神社においていわゆる御神体として信仰の対象と
されているもの、山、岩、古木、木で彫られた男根、鏡等などは
みなフェティッシュである。

それらのものはみな、先に述べられたような仕方で、
記号化されることによって、特別な意味と価値を持つようになった
ものである。

そして、その様なものに対する呪物崇拝、物神崇拝のことを
「フェティシズム」と呼ぶようになったのである。

さらに、経済学の領域においても「商品価値」や「貨幣価値」等を
考える上で、「フェティシズム」という語が使われるようになった。

 そして更に、心理学や精神分析の領域においても「フェティシズム」
という用語がつかわれる様になった。

それは「節片淫乱病」などと訳されることもある、性的倒錯の一種である。

性的倒錯としての「フェティシズム」とは、性的欲望が他者としての
異性あるいは同姓そのものに向かうのではなく、
その他者の身体の一部のみ、あるいはその他者から発せられるもの、
その他者に付随するもの、例えば、その他者の毛髪、目、足、しぐさ、
性質、能力、さらには糞尿、体液、体臭、肌着、靴下、靴、
ハンカチなどに向かうことを意味するのである。

これらのものもみな呪物、物神、商品、貨幣などと同様に、
記号化されることによって初めて特別の価値あるいは
意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。


 しかし、この「フェティシズム」という語を、
記号化されることによって初めて価値あるいは意味を持つように
なったものに欲望が向けられることを意味するものとして
理解するならば、既に述べられたことからも明らかなように、
「フェティシズム」とは世界と自己に対する人間の<<本源的態度>>と
いうことになるであろう。

ということは、人間が有する性の在り方の根源にも「フェティシズム」が
存在するということである。

性対象のみならず性的目的としての性行為(フロイトの『性欲論』参照)も
またすべて、記号化されることによって初めて価値あるいは意味を
もつようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては
「フェティッシュ」としてのみ存在しうるのである。

即ち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、
あらゆる行為が性行為となりうるのである。

また、先に述べたような、記号として人間にとりついて、人間を常に不安と
恐怖の中に落としいれるところの「死」もまた欲望の対象となることが
可能なのであり、人間のみが「死」を希求し、讃美し、
また本当に自殺することもできるのである。

ボードレールの詩を引き合いにだすまでもなく、人間は死をよろこぶことが
できるのである。

人間のみが自らの死に方を選択したり、死を望んだりすることができるのは、
そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。

他の動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、
そして腐敗してゆくのみである。


 このようにして性への衝動としてのエロスと死への衝動としての
タナトスは、人間が本源的に有するところの、その「フェティシズム」に
おいて成立するのである。

そのような人間のエロスの在り方が有する無限の多様性がいわゆる「変態性」
の起源となり、また、人間のみが死ぬことをよろこぶことができるということが、
その退廃性(デカダンス)の起源となっているのであろう。


【本文】坂田 登(福井大学)
【エディター】Diedirch(En-Sof Office)
【付】
 ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』より

単純な性的活動は、エロティシズムとは異なる。
前者は動物の生活の中にあるものであって、おそらく、ただ人間生活だけが、
エロティシズムという名にふさわしい<<悪魔的>>な相を規定する活動を現すのである。
<<悪魔的>>ということは、たしかにキリスト教に関係がある。
けれども、一見したところ、キリスト教がまだはるか彼方にあったときに、
最古の人類がすでにエロティシズムを知ったのだ。
先史学の資料は感銘的である。
すなわち、洞窟の壁面に描かれた最も古い時代の人間の像は、
正確に言って<<悪魔的>>なものを、なんら持っていない…。
<<悪魔的>>ということが本質的に死とエロティシズムの合致を意味するというのが
事実であるとすれば、そして、悪魔とは結局われわれの狂気にほかならないとすれば…
生まれ出るエロティシズムに結びついた、死への(畢意滑稽ではあるが、ある意味で
悲劇的な死への)顧慮、その強迫観念を感知しないでいることができるであろうか。
彼らの洞窟の内壁の上に残した自分たちの像において、この上なく頻繁に勃起状態に
ある自分たちの姿を描いた人々は、たんに彼らの存在の本質に、
このような仕方で結びついた欲望の故に動物と異なっていたのではない。
われわれが彼らについて知っていることに照らして、彼らは自分たちが
死ぬであろう事を知っていた。
…獣たちはそれを知らないのだが。

【本文】坂田 登(福井大学)
【エディター】Diedirch(En-Sof Office)

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