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山本覚馬コミュの家族

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家族 [編集]

両親は3男3女を儲けるが、1男2女を幼児期に失う。覚馬は29歳頃、会津で樋口うらと結婚、長女は夭折、次女・みねが文久2年(1862年)に誕生する。この頃に上洛。慶応元年(1865年)、妹の八重と川崎尚之助(蘭学所教授として覚馬が招聘した但馬出石藩医の子、洋学者)が結婚する。弟の三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死し、残る家族は会津戦争で鶴ヶ城に篭城するも、父・権八は城外で討死、尚之助と離別した八重は「裁縫より鉄砲」と果敢に闘うが、孤立した会津藩は降伏し、「あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れにしみ空に残す月影」と城内の壁に簪で刻書した。
覚馬は京都にて新門辰五郎の100坪の居宅を36円で買取り居住していた(当時覚馬の月給は45円)。明治3年(1870年)、三女の久栄が誕生する。翌年、母・佐久(のち同志社女学校舎監を務める)、八重、みねが上洛して同居する。うらは離縁を求めて会津に残った。その年、身辺世話に当たっていた小田時恵を妻に迎え、入籍する。八重は英語を学ぶなど先取の精神に富み、明治9年(1876年)に受洗し、新島との結婚後は洋装、洋髪、クリスチャンレデイーと呼ばれた。同じ年、佐久、みねも受洗した。明治14年(1881年)、みねが横井時雄(横井小楠の長男、同志社第3代総長)と結婚する。時雄は母方を通じて徳冨蘆花(本名健次郎)と従兄弟同士であり、小説『黒い目と茶色の目』は久栄との恋愛の葛藤を描いている。
翌年、長男・平馬を生んだみねが24歳で死去、平馬を山本家の養嗣子とする。その年、久栄と蘆花の婚約が破談となる。明治23年(1890年)、新島が大磯で他界、覚馬も2年後に自宅で死去する。明治26年(1893年)、久栄23歳で病没、佐久は明治29年(1896年)に85歳で永眠(87歳死亡説あり)、家族の中で一番長生きであった(八重は83歳で他界)。世間の浮華なことを忌み嫌い、「分限相応」が一番大切と説いた。
(ウィキペディア) 八重は86 川崎との離縁は、戦後か、死別、と思いますが、。

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