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新説・仮説、忠臣蔵コミュの本所の吉良屋敷の謎解き(1)

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 図1:元禄十一年の勅額火事以前の鍛冶橋内
    吉良上野介(きら・こうずけのすけ)の屋敷がある
    上下逆さまに「吉良/上野介」( / で改行)と書かれている
    「御府内往還沿革圖書」(ごふない・おうかん・えんかくずしょ) より

 図2:元禄十一年の勅額火事後の鍛冶橋内
    吉良屋敷は呉服橋に移り、跡には新設の中町奉行所ができた
    右を頭に「丹波/遠江守/中町/奉行」と書かれている
    「御府内往還沿革圖書」 より

 図3:遠近道印(おちこち・どういん)作「改選江戸大絵圖」元禄十五年二月刊(部分)
    中央やや下、上下逆さま「キラ / 左兵」( / で改行)の文字がみえる
    元禄十四年十二月に上野介を継いで吉良家当主になった左兵衛義周(さひょうえ・よしちか)




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 本所の吉良屋敷は、通説では「今にも崩れそうなボロ屋敷」ということでした。
 しかし、よく調べてみると館は築2年ほど、新築に近いものでした。

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 平成9年の夏のある日。
 ボクは江戸大絵図(江戸全域を一枚に描いた古地図)を広げ、JR両国駅の近所にある回向院(えこういん)を目印に、武家屋敷を探していました。


 その江戸大絵図は、新宿で飲んだ帰り、酔っ払って衝動買いした復刻版。紙ケースには 「元禄十年頃」 と書いてます。


 お目当ての武家屋敷は、忠臣蔵の題材となった元禄赤穂事件に関係する。そう、討入事件のあった本所吉良屋敷となるところです。

 元禄十四年三月の江戸城松之大廊下における刃傷事件で、浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)は即日切腹。
 同年八月、浅野内匠頭に斬りつけられた吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)は、呉服橋から本所に屋敷替えになりました。


 冒頭書いたように、吉良上野介の引越した本所の屋敷は、通説では今にも崩れそうなボロ屋敷ということでした。これは江戸学の始祖といわれる三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)も『横から見た赤穂義士』のなかに書いています。


 目印の回向院の北には隅田川に注ぐ運河、竪川(たてかわ)が流れていいます。 回向院も竪川も、元禄の大絵図に描かれているし、今でもあります。

 お目当ての吉良上野介の引越し先。一枚の古地図だけでは、ボロ屋敷か新築かの区別はつかない。そんなことくらいはわかってますが――
 回向院と竪川に架かる橋(一之橋と二之橋)、吉良邸史跡となっている松坂町公園などから見当をつけ、元禄(十年頃)の江戸大絵図でお目当ての武家屋敷を探したけれど、ない!
「御竹蔵」 と書き込まれた広大な地があるだけ。

 ボクの元禄赤穂事件の謎解きは、ここから始まりました。

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 吉良上野介の引越し先の屋敷は――
 元禄十一年九月の大火後に、幕府の竹材保管所 「御竹蔵」 の跡地にできた松平登之助信望(まつだいら・のぼりのすけ・のぶもち)の上がり屋敷(空家)でした。

 元禄十一年九月の大火は、のちに「勅額火事」(中堂火事とも)と称されたもので、京橋から神田川を越えて千住まで燃え広がり、隅田川を超えて本所まで火が回るという大火です。

 この火事に被災したのは大名や旗本の屋敷、御家人などの住居、町人の住む町屋など多数。鍛冶橋にあった吉良上野介の屋敷も焼けてしまいました。で、呉服橋に新たに屋敷を賜ったのです。
 図1と図2は、勅額火事前後の鍛冶橋内を描いたものです。


 勅額火事があった年の十一月と十二月に、神田川沿い佐久間町の北側にあった武家屋敷のいくつかが本所の御竹蔵跡地に移転します。
 将軍御小姓で五千石の旗本、松平登之助信望は、十二月に本所に屋敷を賜りました。「屋敷」といっても、「館を建てる為の土地」です。なので、館が建ったのはどんなに早くても元禄十二年の春。大火後の建築ラッシュを考えれば、元禄十二年中というくらいでしょう。

 であれば、吉良上野介が呉服橋から本所に屋敷替えになった時点では、移転先の屋敷の館は築2年以内。まだ木の香が漂うような、新築に近いものであったはずです。


 え? どうしてそんなことがわかったか、ですか。

 御竹蔵跡地に松平登之助の屋敷ができ、松平登之助が立ち退いたあとに吉良上野介が移転してきた――という経過は、「御府内往還場末其他沿革圖書」(ごふない・おうかん・ばすえそのた・えんかくずしょ) に見つけました。

 これは幕府普請方によって作成された役所内の保管資料で、何枚もの精緻な絵図と説明文によって江戸の場末などを対象に、ブロック毎、時代とともにどのように変わっていったかを記録したたもの。江戸時代はもちろんのこと、近年まで一般の人の目にふれるようなものではありませんでした。

 これについての詳細は、別のスレッドに書きます。


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 討入事件があった元禄十五年二月に出た遠近道印作「改選江戸大絵圖」(図3)を見てください。

 水色に彩色された中央の太い帯は、隅田川。

 まんなかあたりに両国橋があります(赤い細い帯)。

 両国橋の下(東側)は広場。広場を下(東方)に直進、町屋と町屋の間の参道をぬけたところに「エカウイン」の書き込みがある。これが回向院です。

 回向院の東側にあるブロックの左側に、上下逆さまに「キラ/左兵」( / で改行)の書き込みがあります。これが本所吉良屋敷があったところです。

 この「キラ左兵」は、吉良左兵衛義周(さひょうえ・よしちか)。元禄十四年十二月に、吉良上野介の後を継いだ吉良家当主。上野介の養子で実の孫です。

 同じブロックの右側(北方)には、右を頭にした横書きで「土や/チカラ」と「本多/マゴたろ」とあります。これは、土屋主税逵直(つちや・ちから・みちなお)と本多孫太郎長員(ほんだ・まごたろう・ながかず)。

「土や/チカラ」は、本来は上から書かなければならないのですが・・・。これについてもスレッドを改めて書きます。

 吉良屋敷の北隣の西側に土屋主税、東側には本多孫太郎の屋敷があったのです。

 土屋主税は三千石の旗本ですが、老中の土屋相模守政直(つちや・さがみのかみ・まさなお)の本家。

 本多孫太郎のことを旗本などといいかげんなことを書いた本が何冊もあります。旗本は御目見得(将軍と謁見できる)以上で万石未満の幕臣です。
 本多孫太郎は、家康の次男、結城秀康を祖とする越前松平家の家老で、禄高は二万石。
 家老とはいえ大名の家臣であれば何万石であろうと大名としては扱われないものですが、この越前本多家は特別。大名格として優遇されていました。
 大名格とはどんなものか。これも史料に載っていることですが、いちいち書くとややこしい。別スレッドに越前本多家が大名格として扱われていた証拠の一つを載せたいと思います。
 本所の吉良屋敷の隣にあったのは越前本多家の江戸屋敷で、孫太郎本人は越前府中に常住で、この屋敷にはいません。

「本多孫太郎は討入事件のときにはたまたま国に帰っていていなかった」などと書かれている本もありますが、これは本多家についてまったく調査しないで書いたのでしょう。
 

コメント(7)

このトピック、ひゃくさんが書かれたのですか。
びっくりしました。

先日の栄養学の講演会の二次会でひゃくさんが江戸時代にも詳しいことは聞いていましたが、こんなにすごいとは思いませんでした。
吉良邸討入りのときに隣の屋敷から塀越しにちょうちんを出したということは私も本で読んだことがありますが、土屋家と本多家もすごい家だったのですね。それと吉良上野介が引っ越す前の住人が将軍の側近だったとは。
忠臣蔵がますます面白くなってきました。
 さんだらぼっちさん、こんにちは。
 こちらのほうでもよろしく(微笑)

 ●訂正です●

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 図4:図2の部分拡大図
   南町奉行・松前伊豆守の御役屋敷

 図5:元禄十一年の勅額火事の前までの呉服橋内
    鍛冶橋内に移る前の南町奉行・松前伊豆守の御役屋敷がある  

 図6:元禄十一年の勅額火事の後の呉服橋内
    吉良上野介が本所に移る前の呉服橋内の屋敷がある

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 【訂正内容】

 ホルダーにとってあった画像と記憶だけで書いたことから、ひとつ大きな間違いがありました。

 図2の元になる原図コピーを探したところ、「中町奉行」ではなくて、「南町奉行」でした。

 元禄十五年に中町奉行ができたのは間違いないのですが、中町奉行・丹波遠江守長守の御役屋敷は別の場所で、図2の書き込みは、「町奉行/松前伊豆守/御役屋敷」(図4)。南町奉行・松前伊豆守嘉広の御役屋敷 でした。

 ちなみに、南町奉行・松前伊豆守の御役屋敷は元禄十一年(1697)の勅額火事の前までは呉服橋内にありました(図5)。彼は十六年まで南町奉行で、その後、宝永二年(1705)まで大目付となります。

 図6は、元禄十一年の勅額火事ののちの吉良上野介の呉服橋内の屋敷のあった場所で、上野介はここから本所に屋敷替になったのです。
 図5と見比べてください。
こういうことを調べるのって、本当に楽しいですよね。
昔(?)都内の色々な図書館を巡って「日本中世期の風俗」なんかを一生懸命調べたのを思い出します。
 るんるん○○やん

 ありがとうございます。

 ヘタな推理小説を読むより面白いですね。

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