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日記コワイアルコミュの蝗

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その駅では、時の経つのがやけに遅く感じられた。
時計を眺めた。
針は2時43分をさしていた。
ここに2分停車します。
そう車掌は言った。
さっき起きだして、トイレに立ったのが2時42分。
あれから10分くらいたったように思えるが、実際たったの1分しかたっていない。
そんなものだ。
アンモニア臭のするトイレから出て来ると、私は煙草に火を点けた。
寝付けなかった。
通路の簡易椅子に腰掛け(やたらクッションの固い椅子だ)煙草をふかし(煙が目にしみる)ぼんやりと車窓の外を眺め(誰もいないホームに灯りだけがついている)そして伸びをした。
窓ガラスが冷たい。
東北特有の芯に来る冷気だった。
「あの…」
背中から小さな声がした。
振り返ると、足下灯にぼんやりと照らされて、浴衣姿の人影が立っていた。
スリッパから突き出た足が白い。
なんとなくそう思った。
「煙草…1本いただけますか」

がったん、と音がして電車が再び動き出した。
少し戸惑いを覚えた。
煙草を差し出し、
「どうぞ」と言った。
「ありがとう」
隣の椅子に腰掛ける。
火を差し出すと、顔を近づけて来た。
長い髪がかすかに香った。
ジッポの灯りの中に、女の顔が浮かびあがった。
まだ若い女だ。
二十歳前後だろうか。
女はうまそうに、私のマルボロを吸った。
なんだかとても妙な気持ちがした。
あわてて浴衣の裾を直した。
女が微笑んだ。
「おいしい…」
細い指が、煙草をつまんでいる。
かすかな灯りに照らし出された顔は、化粧をしていないにもかかわらず、美しい。
バランスは完璧だ。鼻も、口も、非の打ち所がない。
その細い眉がやや下がりぎみなところなどが、私の心の中に何か、甘いものを感じさせる。
どこか狂おしいあの感じがする。
何か言わなければ、そう思った。
「一人旅ですか」
(いきなり馬鹿なことを聞いたものだ)
心のどこかで、もう一人の自分が自分を嘲笑った。
女は気にせず答えた。
「ええ…あなたは?」
「故郷に帰るところでしてね…」
「どこのご出身ですか?」
「Z・・町です」
「私もZ・・町ですのよ」
女は笑った。「奇遇…」
「そうですね」

まだ8月というのにこの寒さは何だ。
女の顔が窓の外を見ている。
黒い窓ガラスに、女の白い顔が映った。
黒い風景の中で、それだけが浮いている。
私はそれにしばし見蕩れた。
女がこっちを見た。
私はあわてて目をそらした。
どこかうす青い光の中で、かすかだが、草の匂いがした。
「ずいぶん、久しぶりでしてね、故郷に帰るのは」
私は言った。
「そう…」
女は言った。
「ご家族は?」
私は黙った。
故郷には、老いた血のつながらない父がいた。
あの一件があってから、私は父に会っていない。
母は病でなくなった。
姉は…。
姉は自殺した。
「いえ…」
私は嘘をついた。
もはや私に帰る家などあるわけがない。

パシッという音がして、私ははっと顔を上げた。
「蝗が」
女が窓ガラスを指差した。
窓ガラスに何かがこびりついている。
よく見ると、つぶれた蝗の死体だった。
私はあわてて飛びのいた。
窓ガラスに、一匹ぶつかったらしい。
走る特急の窓にぶつかったため、衝撃で腹がやぶれたのか、べたべたとした体液と胃の内容物が痕跡となって残っていた。
緑の頭と羽根も。
「どうしたんです?入ってきやしませんよ」
女が嗤った。
今までにない、強いあざけりを含んでいた。
私は女をにらんだ。
女はこっちを見て笑っている。
何か強い一言を言おうとしたが、その美しい顔が能面のように笑みをたたえてこちらを見ているのを見ると、その気も失せた。
「蝗が苦手なんです」私は認めた。
「どうして苦手なんですか?」女がたずねた。
私は黙って窓に残った、その痕跡を見つめた。

私が母に連れられてその家に入ったのは、15のときだった。
母の再婚相手は、土地の古い農家だった。
その妻が亡くなって、後妻として迎え入れられたのが、私の母だ。
母はそれほど美しくはなかった。
むしろ、醜かったかもしれない。
周りの人々は、私の母が、隣の市の議員の娘であることを知っていた。
義父の頭の中には、百姓で終わりたくない、という気持ちがどこかにあったのかもしれない。
そういう結婚だ、と周りの人間は囁いた。
だが、事態は急に動いた。
母がいきなり病に倒れ、あっけなく亡くなったのだ。
私一人が残された。
義父は私をとても大事に扱った。
だがその扱い方は、まるで客に対するそれのようだった。
議員の血を引く男は私だけだった。
将来は私が祖父の地盤を継ぐ、と義父は思っているらしかった。
義父には娘がいた。
姉はいつも私を、「宏さん」と呼んだ。
この2歳違いの姉は、とても美しかった。
快活なところはまったくなかった。
むしろ陰気だったといってもいい。
しかし洞窟の中の湖で一生を終える、目のない魚のような美しさが姉にはあった。
年は若いが、私が始めて身近に接する、成熟した異性のにおいがした。
私はだから、この姉が苦手だった。

ある夏のことだ。
蝗が異常繁殖しているということで、いつもと違う農薬が散布されることになった。
そのために、地元の農大から一人、若い研究員が家にやって来た。
朝原というその男は、わけもなくよくしゃべる男だった。
唾を飛ばしながら、薬の有効性と、自分のどうでもいい身の上話とを交互に話した。
浅黒い肌と、珍妙なまでに大きな頭をしていた。
そして、姉に水気の多い視線を飛ばした。
この男が家に寝泊まりするのかと思うと、あまりいい気がしなかった。
だが、義父は、自分が蝗の危機から町を救うのだ、と本気で考えていた。
自分が呼んだその男を使って、英雄になるつもりだったらしい。
私はその時、義父という男の底の浅さを垣間見た気がした。

男の撒いた薬は非常に有効だった。
だが、田畑に薬を撒いたため、蝗が市街地まで這い出してくるようになった。
車がしょっちゅう蝗を轢いた。
アスファルトは、蝗の屍骸を所々にこびりつかせた。
私は別段、それを気味が悪いとは思わなかった。
だが、蝗は私にとってかっこうの玩具だった。
夏休み、受験勉強の合間に、私は蝗をいろいろな殺し方をして楽しむようになった。
岩で叩いてみた。
カマキリや蜘蛛に食わせてみた。
ライターやマッチで火をつけた。
首をもいでみた。
足をもいだまま、道路の上に投げ出して車につぶさせた。
やがてそれも飽きた。
私は殺した蝗の屍骸を庭の穴にほうりこんだ。
そんな夏だった。

ある夜、私が眠っていると、姉の石鹸のにおいがして目が覚めた。
「宏さん」姉が言った。「今日宏さんの部屋で寝ていい?」
「どうしたの?」
私が言うと、姉が言った。
「朝原さんが、私の部屋の前に」
それだけ言って姉は私の布団にもぐりこんだ。
姉の体は妙に柔らかかった。
普段の痩せた体からは想像できない柔らかさだった。
どこかで草の青い匂いがした。
…狂おしいあの感じがした。
私は布団から飛び出すと、目を血走らせて廊下に出た。
朝原は私を見てにやりとした。
彼は父のお仕着せの浴衣をだらしなく着て黙って立っていた。
「自分の部屋に戻れよ」
私が言うと、朝原はゆっくりと私の横を通り過ぎ、階段を降りて自分のあてがわれた部屋に戻った。
私はその夜一睡もできなかった。

姉は父に前の晩のことを何も言わなかった。
私も黙っていた。
妙に重苦しい雰囲気がした。
夏休みの終わりの感触とあいまって、私は苛立ちをおぼえた。
朝原はあいかわらずだった。
散布はもうすぐ終わる、と彼は言った。

その日私は、気分を晴らそうと考え、川まで魚を釣りに出かけた。
いらいらしていると魚は釣れない。
早めに切り上げ、物置に釣り具を戻しに帰ったとき、納屋で物音がした。
私は足を止めて覗き込んだ。

姉の白い足が床に伸びていた。
朝原の下半身裸の腰がひくひくと動いていた。

それが何を意味しているか、私でもわかった。
義父に隠れ悪友とそういうものを見に行ったこともある。
だが、はじめて見る営みにしては、それはあまりにも醜かった。
何の感慨もわかなかった。
姉は抵抗らしい抵抗もせず、されるがままになっていた。

蝗だ、と思った。
思った瞬間、手近な岩をつかんでそれに振り下ろした。
いやな音がした。
男が倒れた。
何度も何度も叩きつけた。
両手が真っ赤になるまで殴った。

そして、姉を振り向いた。
足元の朝原は、もうぴくりとも動かなかった。
姉は体を横たえたまま、こっちを見上げていた。
陰気な目だった。
だが美しかった。

…狂おしいあの感じがした。

私は姉に覆い被さった。
姉は何も抵抗しなかった。
私は姉の中に入り、
ゆっくり動いた。

そして、姉とふたりで、朝原の死体を埋めに行った。

*******


「…なぜお姉さんは死んだと、思いますか?」
女がたずねた。
…私は女にすべてを話していたらしい。
「わからない」
わからない。
堰を切るように流れ出す言葉が止まらなかった。
なぜ話した。
「私は、あなたのことが好きだったのよ」
女が言った。
「ほんとよ」

激しい目眩がした。

「あなたにひとごろしをさせてしまった、そのことがつらかったのね・・・だから」

「姉さん」

姉がゆら、と立ち上がった。
狂おしいあの感じがした。

「あなたを殺して私も死んだ・・・」

そうか私は死んだのか、と思った。
足元の明かりに、いくつもの蝗の死体が転がっていた。

岩でつぶされ、食われ、轢かれ、頭をもがれ、焼かれ。

姉が微笑んで浴衣を脱いだ。

列車が揺れた。

頭をつぶされた朝原がつまらなそうに廊下を歩いていった。

私は思った。
そうか今日は盆だった。

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