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【般若心経♡般若倶楽部】コミュの【汎惹法螺滅多心経】(改新般若心経)/意訳と解説篇

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(当トピ作製初出日:2010年09月30日〜)

★2005年08月01日案出、2007年02月28正式発表した【麻歌汎惹法螺滅多心経】
 ⇔http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=40269636&comm_id=60499
 に、この度甚だ遅まき乍ら、解説付き和文意訳を追加しました〜(^_^;)
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>(麻歌汎惹法螺滅多心経。)
メイ想((という脳内麻薬?)が「効マッタ境地にて歌う「汎惹法螺滅多」の
(普遍的魅力のある滅多矢鱈に大法螺吹きな?)ハートなお経。

>(観自在母颯。在深汎惹法螺滅多時、)
観自在ボサツが、「汎惹法螺滅多」(というメイ想)の深みに(ハマって)在る時、

*参考:
・「観自在」とは:*とりわけ智慧のチャクラたる所謂「第三の眼」の機能により、
 色界も空界も同時に統一体として自在に観わたせるという特性をもつ者。
・「ボサツ」とは:*梵語「ボーディーサットヴァ」の短略語形→「菩薩」→「母颯」。
 *サトリとサトリ直前のボーダーラインに行き来できるが故に、
 人々に「智慧」の恩恵をもたらす事ができる者のこと、一応。
・「プラジニャパーラミタ(梵語)」とは:*音写「般若波羅蜜多」→「汎惹法螺滅多」。
・ちなみに、「蜜」の字は「密」と書かれる例もある(中国語のサイトで見た…)
 *『「原初以前の根源的な無分別的叡智」に到達・完成するメイ想』という意味、一応。
・「メイ想」:*通常は「瞑想」と表記されるが、拙稿の筆者としてはじつは「明智」の「明」に
 因んで『明想』と書きたい。「瞑」という字は「暗い」という意味で「無明」を連想させる故。

尚、拙稿に於いては、『観自在母颯』を「宇宙人^^*宇宙知性体」として想定している。
ここで「宇宙人」の意味は、(必ずしも異星人であるかどうかは不明だが、)少なくとも、
民族や「国家」とかへの所属を越え「地球」の範疇すら遙か遠く越え、「宇宙そのもの」に
アイデンティティがあるが故。或いは意識が宇宙全体と同一化している…

>(照見五云皆空。)
5種類に分類できるところの万物の存在様式(*五蘊)が、凡て「空」という性質からなる
という本質的なリアリティが、明智の光にて、照し出すが如くに、はっきり見えた。

・「五云(五蘊)」とは:*五種類の集積物のこと。観自在さんのここでの洞察は、
じつは、事物の存在様式を「集積物」(*集合・集中により押し固まったもの)と観る、
と同時に「空」と観ている。

>(済一切苦厄。)
そして、一切の苦厄は救済される。

なぜならば、
「五云=五蘊」(*後述の「色」と「受」、「想」、「行、「識」、のこと)とは、日常的感覚としては、
基本的に「苦」(:*こちこちに固まって故に苦しい、というのが漢字における原義であり、
それゆえに「固」にも「苦」にも「古」(*発音:コ/ク)という共通要素が含まれている)と同じ性質
から成っているという事が、「色」の裏面たる「色」の解放としての「空」たる立場から理解でき、
また、「空」なるリアリティに身を置いたときは、その境遇は当然「苦」の裏面たる「楽」にあるから。

「汎惹法螺滅多」は、たんに「五蘊皆空」〜「色即是空〜以下」を理解することではなく、
心身まるごと「空」になりきることによって具現される。それがメイ想たる由縁である。
観自在さんは、このメイ想中においては「五蘊」の「苦」を「空」たる「楽」の立場から体感する。
故に、このメイ想がうまくゆけば「苦」は解放され、「楽」に転化するのである。
故に、このメイ想によって人は「苦」から解放される、という意義をも、このお経では含意して
いるわけであるが、

じつは「度(*済)一切苦厄」という一句は、原典と信じられている梵文(*サンスクリット)版の
「般若波羅蜜多心経」(*プラジニャパーラミタ・ホリドヤ・スートラ)には載っていない。
(もともとは瞑想者に向けて説かれた話なので、云わずもがなだったのだろう…)
・ちなみに、「度」の字は「渡」と書かれる例もある(中国語のサイトで見た…)


>(茶利子!)
チャーリー*君よ!

「宇宙人^^」から観て「知恵遅れ」の状態にある地球人類の代表に対してして、こう呼んだ。
(因みに、*「チャーリー」という呼び名の由来たる出典は、
 ダニエル・キイス著のSF小説「アルジャーノンに花束を」に登場する知的障害の青年の名。)

>(容不異空。容不異色。)
「容」は「空」に他ならず、また「容」は「色」にも他ならず。

【容*】という概念は面白いことに、
その漢字が示す如く「穴」や「口」から成り、「がらんどう」というのが主要本質であるが、
(*因みに、『空』と漢訳された梵語の『シュンニャータ』という語の原義も「がらんどう」。)
「人」にはそれは、物を容れうるウツワという空洞を意味する【*空】にも違いなく、
また同時に、容れられた内容物という意味もあり、それなら【*色】にも違いない。

容貌という言葉を見れば、これは外形ないし形象を意味するので、このときの『容』は、
同じく形象を意味する「色」(*梵語「ルーパ」*形あるもの*ないしは外見)に相当する。
水を入れるグラスを見れば、これは容器であるが、材質たるガラスにて形づくられた外形
というよりは、むしろグラスの内側の空洞に着目して『容』といい、それなら『空』である。
あるいは、グラスの本体たるガラスという物質か、グラスの内側の空洞か、どちらを本質と
見て容器と称するか?我々は前者に着目する事もあれば後者に着目する事もあるが、
いづれも同じ1つの容器には違いないのだ。
同じ容器の外側と内側、同じコインの表側と裏側、文字通り表裏一体。

或いは、ここに木板があり透かし彫りにて「色」という文字が彫られているとしよう。
すると、ここに於けるこの「色」という文字はいったい実体なのか?
それとも(実体無き)空穴にすぎないのか?
このとき、この彫られた文字を実体・実質と見るならば、彫られた木板の方は地であり、
この文字が収容されるために必要なスペースという事になる。
いっぽう、実際に物質的実体のある木板の方を実質と見るならば、彫られた文字の方は、
あくまでも空隙にすぎず、中身に物質的実体は無い空穴でしかない。その空穴の隙間は、
もちろん他の微少な木っ端とかを収容する事も可能な小さなスペースとしても機能する。
たとえばこんな時、この空隙として彫られた「色」という文字の実態はいったい『色』なのか?
或いは『空』なのか?或いはこれは内容なのか空間なのか?コンテンツなのかスペースなのか?
或いはこの空隙としての小スペースの中は、この板の内側と呼ぶべきか?否、外側なのか?

このように、一つの事物が、人の見る方向の違い次第にて名前こそは変わるが、
呼び名や見る方向に違いはあっても、それは同じ1つの事物には違いないのである。

(*尚、たまたま東アジア漢字圏には、そんな「空」も「色」も同一に表現できる【容】という
 便利な文字がある。)

>(色即是容。空即是容。)
すなわち、内容物は即ち「容」であり、(その形象も「容」であるが、)
内容を容れるべき空洞ないしスペースもまた、即ち「容」である。

>(色即是空、空即是色、亦復如是。)
「色*空*」、『色即是空、空即是色』というものの見方も、上記と事情は同様である。

人の(3次元の)身体は「色身」とも呼ばれるように、通常はいかにも実体があって、
宇宙ないし地球というスペースの中に居住して居るかの様に感じられているかもしれないが、
スペースの方こそが「実体」であるとの立場から観れば、
この身体というコンテンツのほうこそ、反-実体という意味で、空間に空いた一種の「穴」、
すなわち、先の例における木板(という空間)に彫られた空隙による文字に相当する。
、といった逆転した見方も可能なわけである。
つまり物は空間でもあり、逆に空間が物的でもありうるわけ。 

>(容容色空不異表裏。)
容れられる内容とその容れ物、物質的な物と空間的なもの、は、
(名づけは変われど、)同じ事物の表裏という実態には違いない。

ここで、
「心経」におけるキーワードたる【色】と【空】の関係について、多面的な捉え方を提示してみる。
どれが正しいということはなく、いづれも表裏一体的な相互依存性を本質と観る。

☆「色」=「空」=縁起(*無自性性*相依関係性)…(*これが「佛教界」における通説・俗説…)
☆物質の有る事(色)⇔何も無い事(*からっぽ)(空)
☆オブジェクト(色)⇔スペース(空)、乃至〜物体性(色)⇔空間性(空)
☆局所性(色)⇔遍在性(空)、乃至〜粒子性(色)⇔波動性(空)、
☆形あるもの(*〜形象)(色)⇔形無きもの(空)
☆分かたれたもの(色)⇔分かれていないもの(空)
☆閉じたもの(色)⇔開かれたもの(空)、乃至〜『結び*』(色)⇔『解どけ*』(空)
(*因みに、『色』と漢訳された梵語『ルーパ』は、英語では『ループ』(*結び)?…駄洒落です^^)
☆集合・集中(色)⇔散在・散開(空)、乃至〜収縮性(色)と⇔拡散性(空)
☆詰まっているもの(色)⇔空いているもの(空)、乃至〜混んでる事(色)⇔すいてる事(空)
☆固まったもの(色)⇔溶けたもの(空)、乃至〜硬いもの(色)⇔)柔らかいもの(空)
☆執着性(色)⇔無執着性、乃至〜変わりにくいもの(色)⇔変わりやすいもの(空)
☆緊張(色)⇔リラックス(空)
☆「陽」(色)⇔「陰」(空)

☆うつろい変わり壊れやすい物事((*色法)⇔変わり様がない「ダルマ」(*空法)
☆有限性(色)⇔無限性(空)、乃至〜色身(色)⇔法身(空)、乃至〜「人/物」(色)⇔「神」(空)
☆「この世」(*色界)⇔「あの世」(*空界)、乃至〜此岸(*色界⇔)彼岸(*空界)
☆雲(色)と空(そら)(空)…(*これは筆者流の比喩)
等々

>(凝収弛緩如是山谷。)
(同様に、)凝収と弛緩の様相は、(波動する波における)山と谷の表裏関係に相当する。

☆【空】とは典型的には、物質の波動化し空間に遍在化したるエネルギーの姿。
☆【色】とは典型的には、波動の収束・局所化・物質化し空間的には断片化したる
 エネルギーの姿。
但し人の日常生活上に観察できるものとして、こうした両者の関係の類例を見出すならば、
☆「空」の例は、たとえば電波。☆「色」の例は、たとえばその電波がTV受像器の
 スクリーン上にて像として結ばれ映しだされる、その画像とか。
☆氷のような個体性が「色」で、☆水蒸気のような気体(ないし流体性)が「空」、とか。

或いはもっと原始的には、それはむしろ例えば、呼吸や泣き笑いや体操やダンスなどを
通して、身体感覚的に体感・実感できやすい事として、
★緊張し萎縮し固くちぢこまる、いわば【コゴモリ】たる傾向・様相を【色】と呼び、
★緩んでのびのびし柔軟にて融通無碍な、いわば【ホドケ】た傾向・様相を【空】と、
 呼んでもよかろう。

そうした両者の見方もやはり、山と谷の如く表裏一体にて一方無くして他方も無し。

>(受想行識、亦復如是。)
?感受化、?観念化(概念化)、?行動意志化、?認識(意識化)、
といった精神作用が起こる際にも又、そんな色空関係と同様なことがいえる。

たとえば、
★?不快感とイイ感じ、
★?思考と無想、
★?作為努力と無作為自発(無為)、
★?判別(分別)と無分別、
といった場合に、
☆緊張・凝集・「リキミ」など【コゴモリ】傾向にて招来する様相と、
☆リラックス・放散・「放下(手放し)」など【ホドケ】傾向にて招来する様相が、
表裏一体として在り、両者は通常、波動の山と谷のように往復振動と相互転化
をくりかえす連続体をなす、という性質がある。
これらについても、やはり【色】と【空】のごとき表裏一体性が観られるわけ。

>(茶利子!是諸法空相。)
チャーリー君よ、是れこのように、宇宙の汎ゆる存在と法則(*梵語では『ダルマ』)は、
主として開放的な「空」たるスペース性や可変的柔軟性の方面から観てゆけば、

>(不生不滅。不汚不清。不欠不充。不増不減。)
生じなければ滅亡もない。汚染なければ浄化もない。欠乏なければ充足もない。
増加と減少は宇宙のトータルで見れば結局、プラスマイナス=ゼロである。

>(茶利子!是故空中、空色、空受想行識。)
チャーリー君よ、是れゆえ、「空」たるホドケてリラックスした瞑想的境地においては、
物質的形象の裏にも「空」なる本質が透けて見えるし、(身体的にも軽やかだし、)
いわゆる「受・想・行・識」もすっかりリラックスして楽ちん至極である。

>(五云六根、皆自穴象故。)
いわゆる「五蘊」も、「六根(*視覚器、聴覚器、嗅覚器、味覚器、触覚器、意覚器)」も、
みな「空」たるスペースたる「穴」によってこそ存立し機能している事にも留意したまえ。

>(空眼耳鼻口身意。空色声香味触法。)
眼、耳、鼻、口、身、意、を、
空気のようにスケスケに空(す)いている状態と観て瞑想してごらん。
眼に映る光景、耳に聞く音声、鼻に嗅ぐ匂い、口中の味覚、身体の触覚、
そしてイシキしようとする意識、そういったものも凡てすっかり方下してリラックスして、
スカスカに空いた希薄性の微妙な瞑想的な味わいに、身を任せてごらん。

>(空眼界見、無限界、乃至無有色界。)
「空」なる視界に見えるものは、限界無く、乃至は局所的・物質的な制限の無い世界。

>(空意界識、無見解、乃至無意識解。)
「空」なるこころで意識されるのは、特定の見解に縛られぬ無見解、
乃至は「無意識」がワカル。或いは分解・分裂した(孤立しうる)意識など存在しない
全部ひとつながりな「ワン・ワールド」がワカル。

>(無明。無無明。亦無明尽、無無明尽。)
サトリの明智など無い。無明(*サトリ無き故の根本的無知)も無い。
また、無明が終ることも無い。明智(*無無明)が終ることも無い。

サトリにまつわるあらゆる先入観をことごとく無効にすることでしょう^^…

>(乃至無老死。亦無老死尽。)
(そんなメイ想的境地においては、)更に、老いや死も無く、
また、(もともと無いがゆえに、)老いや死が無くなることも無い。

宇宙そのものと同一化してたらそれも当然?…
(色界では宇宙だって老いるんだけどね?…)

>(無苦習越道。無知亦無就。)
(そんなメイ想的境地においては、)
苦も無く、苦をまねくカルマ(*条件づけのこと)もなく、苦を越える方途も無い。
知る者は居ないし、成就する事も無い。

なお、従来の「般若心経」においては、苦の始まる起源のことを「集*」と表現している。
*これは、既に「済一切苦厄」の項にて説明したように、色界における「五蘊」の特質が
集って固まるという性質にあり、固まって苦しくなる事の起因は集中する事だから。
拙稿にては、この部分を「習」(*条件づけ)に替えているのワケは、抽象的な根本原因よりは、
「苦」が成長してくる過程の要因を示しておく方がわかり易かろうとの考えによる。

>(以無所就故、)
成就するという事が無いがゆえに、

「メイ想」は意図的努力によって「成就」することではない。
「行」における空相とは無作為自発性にして、図らずして無為により自然に成る。
「就く」という執着性が緊張性なれば、それは色相ゆえに「メイ想」の妨げになる。
又、「メイ想」は「無想」たらねば「メイ想」たりえず、無想にして成就の期待無きことが、
以下に来る『「惹法螺滅多」に依拠する』(*それに任せる*力んで自力でやろうとしない)
ということにつながる。いわばすっかり「手放し」にて「レット・ゴー」状態なのである。
行き着く先のあり方など想定するは無駄。一切何も想定も期待もしないこと。

・「以無所『得*』故」という従来の表現にても:*「『得』る」という概念こそが邪魔者であり、
サトリの境地も「得る」とは逆に、むしろ「捨てる」〜「捨てられた結果」たるが本質ゆえ。

「般若波羅蜜多」だの「涅槃」だの「阿耨多羅三藐三菩提」だの「ぎゃぁていぎゃぁてい…」
だの、といった言葉や概念すらも本当は全く邪魔者にしかならない…

(ただし、無為無想になるに必要なテクニックとして事前の緊張をバネにするという途はある
のだが、そんな方法についてはこのお経では説かれていない…)

>(母諦颯唾、依汎惹法螺滅多故、)
「母諦颯唾」は「汎惹法螺滅多」に依拠する。ゆえに、

・「母諦颯唾」:*「ボーディーサッツバ(梵語)→音写:「菩提薩埵」→「母諦颯唾」。

>(心無形影。無形影故、皆無恐怖。)
心中に邪魔な形象概念を投影して目隠し(ブラインダー)となる「蔭」の様なものが無い。
所謂「こころのカゲ*」が無いがゆえに、恐怖心なども皆無である。

☆「こころのカゲ」とは:
*或いは「こころの雲(云)」とも。青空の如き純粋意識(*無心)の「空」(そら/クウ)に、罣かる
雲のごとくに遮蔽物となり、影をつくり、意識を曇らせるところの「マインド」(*受想行識の四蘊
の別名。又は五蘊全部にも相当。)のことを拙稿では「形影」と表現した。
(ちなみに、「明智」の光に照らされれば当然、影・蔭は無い。)
因みに『自我(エゴ)』とは、『マインド』の集合・縮合によって立現れる錯覚された個体性の事。
・「罣礙」と書かれた従来の表現では:*ひっ掛かり(罣)、障碍になる(礙=碍)、という意味
にて、「目隠し」という機能的本質をあまりうまく云えてない。
・因みに、「罣礙」は(現代中国では)『挂碍』と表記する例もある…

ゆえに、拙稿では前出の『五蘊』についても、「蘊」の字を有る意味では「雲」と同質と
見做して「云(*雲をあらわす)」を当て『五云』と表記した。
「蘊」は「蘊蓄」の「蘊」にて集積・堆積をあらわす。「云」もまた微少な水滴の集積でもある
ので、比喩として適当でもあろう。
ちなみに、空(そら)に於いても、「空」気のような水蒸気が凝結すれば雲となり、
雲もまた、然かるときには晴れて空気に還えることができる…

>(遠離転倒。解理究境。在鏡日盤。)
黒白逆転した世界観(*あたかも物質的実態のほうこそ実体であるかのように
、そして「空」には実体が無いかのように錯覚している固定観念)を、
再逆転によってやっつけ追い払ってしまえば、 (瞑想に依って)(思考は)、
「究竟」の限界にて限界的不可解性を理解する。(そこで思考は抜け落ちる)
(・「究竟」≒「究境」とは:*つまり〜つまる処〜どん詰まりの境地の事。)
そこに在る境地は、こころ静かなること鏡のごとく*純粋意識)、さながら、
天の青空と日輪をそのまま・あるがまま純粋に映し出せる、水を張った盥のよう。
それが「日盤」(*「究極永遠の平安」の意、一応。)である。

*参考:
・「ニルヴァーナ」(梵語):*究極永遠の平安という意味、一応。音写:「涅槃」→「日盤」
・「涅槃」:*捏造された泥の盥(たらい)という意味^^。「泥盤」と書いても等価。
・ちなみに、「涅槃」の「槃」の字は;
 「盤」とも「磐」とも「盘」とも書かれる例もある(中国語のサイトで見た…)


>(三世諸佛、依汎惹法螺滅多故、)
三世(*過去・未来・現在)の汎ゆるブッダ(*覚醒者という意味)は、
「汎惹法螺滅多」に依拠するがゆえにこそ、

ここももちろん、「以無所得故(*達成するところ無きがゆえに)」、という前提があってこそ、
そうなるのだが、経文では、わざわざそこまでくどくど書いてはいない。

>(理会解離、弗身即佛。)
解離の理を理会会得し、心身がホドケてこそ即ちブッダであると体得して、

>(覚!安納太良三脈燦宝諦!!)
「安納太良三脈燦宝諦」(*「この上無く正しく公平な完全なるサトリ・光明」の意、一応。)
に目覚めるのだ!

・「アヌッタラ・サムャク・サンボーディー(梵語)」:
 *音写:「阿耨多羅三藐三菩提」→「安納太良三脈燦宝諦」

従来の漢文経文では、「『得』阿耨多羅三藐三菩提」と表現しているが、やはり当然ながら
これは『得る』はずはないのである。「得ないが故に得た」みたいな逆説的言い回しには
妙味もあり、ブッディズムというよりはタオイズム的な趣きが、そもそも「般若心経」の楽しさでも
あるのだが…、ここはむしろ中国人がカマしたジョークかも…^^

>(故知。)
もう、君は知ったのだから、

>(汎惹法螺滅多祝呪。)
「汎惹法螺滅多」はある「オマジナイ」を以て君を祝福する。

>(是大神祝。是大明祝。是無上祝。是無等等祝。)
それは大いなる神聖な祝福。それは大いなる明智の祝福。
それは至高無上の祝福。それは比類無くとんでもないサプライズな祝福。

>(能除一切!無明迷信!! 真実不誇嘘。)
それは、無知無明や迷信妄信の一切を削除し切る。真実であり誇張はない。

>(故説、汎惹法螺滅多中故説之祝呪。)
故に、「汎惹法螺滅多」の境地の中で説かれた事例のある祝福のオマジナイを教えよう。

>(即説祝斡呪喝!)
だから今、適当な「オマジナイ」を斡旋(アレンジ)してプレゼントとして言う。
それを以て君への祝福の「喝!」とする。

>(笑体笑体 巴裸笑体 巴裸生笑体 宝諦爽琶歌!!)
笑てぃ、笑てぃ、わら笑てぃ、わらそう笑てぃ、もーいい!すばーらし!!

*参考
・「掲諦。掲諦。波羅掲諦。波羅僧掲諦。菩提娑婆訶。」:
 *梵語「ガテー ガテー パーラガテー パラサンガテー ボーディースバーハ」の音写。
 *もともと意味はどうでもよく、音霊を重視して漢字に音訳されたのに、漢訳の仏典は、
 中国各地の方言、朝鮮音、日本音、ヴェトナム音、などにて甚だ訛って発音されるので、
 各地の読音では夫々いずれも元の音とは随分似つかぬ音に変わってしまっている…
 *尚、用字のバリエーションも、歴史的用例の調査によると:
 ・「掲」の字は、「羯」、「竭」、峨」、「櫱」、等とも書かれる。・「諦」は、「帝」とも書かれる。
 ・「波」は、「般」、「播」とも書かれる。。・「羅」は、「囉」とも書かれる、、等々…
 ・ここでの「菩提」は「冒提」と書かれる例もある(中文サイトにて散見)
 ・スバーハ(梵語):*「薩婆訶」、「蘇婆訶」、「僧莎訶」、「娑婆呵」、「莎訶」、「僧莎賀」、「莎賀」、
  など音訳表記にバリエーションあり…
 *上記のような異なる漢字は字義も勿論各々異なるが、このように音訳用字の選定は
 訳者の好み次第と考えられるので、拙稿の筆者は従来の「般若心経」に見られる他の
 音訳単語も全てもっと楽しそうなイメージの漢字に替えてみた、というわけである。

・「菩提ソワカ」:*サトリに幸あれ、という意味、一応。*「坊、爺、ウソばっか!」とも読む^^

>(汎惹心髄完成了。)
これで「原初以前の根源的な無分別的叡智」の心髄(ハート)が完成しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(以上、管理人・TERuアマテラス観自在の日記にも同文掲載(2010年10月03日)
 ⇔http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1594883494&owner_id=634719
(本文内容に関係ない様なプライベートなご質問などゎ↑こちらぇどうぞ^^)

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(漢文版案出:2007年春、〜2010年09月30日:修正第4稿)
(解説付き和文意訳作製:2010年09月30日〜11月05日:増補第8稿)

*元の漢文(改作 by TERu)と其れへの追加事項やコメントなどは↓コチラ
 ⇔http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=40269636&comm_id=60499



コメント(2)

面白く楽しく素晴らしくいい内容ですね指でOKウインク虹
>一切さん
お褒めにあずかり光栄です^^

とはいえ、、初稿を上梓してから、7日目に至たる現在、
まだ、他の読者からの反響が皆無なのは、非常に残念です…

注:
拙稿は、初稿からこの7日間に次々と追加加筆していった結果、
>1 のコメントいただいた時点に比べ、
注釈・解説の量が2倍以上に増加して、かなり詳しく丁寧になっております^^
当初は、「簡単な注釈付きの訳文」といった想定でしたが、
現時点では、むしろ「解説編」といったほうが相応しい様な原稿になりました。。

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