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嫌韓・嫌中・ネヨウヨお断りッ!コミュの【日本敗戦後に中国のために戦った日本人医師】

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これ読んだら みんなに伝えないといけないという使命感が こんなメチャ長いのを貼り付けてしまいました。ただ、これもしかしたら 削除される可能性がないかと思ったので ごめんなさい。
中国からなのかもしれませんが 検索かけたら グーグルが プライベートな理由で 検索できないみたいなメッセージが出たので。。。とりあえず、記録用としても 貼り付けました。すみません。 デモ長いですけど 読んでみてください。本当に凄いです。これ、嫌韓とか嫌中とかネトウヨとか 全然関係ないんじゃないかなって思いました。
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思わずすごい話を見つけてしまった。

涙が出た。ドラマを見ているようだった。
先日、満島光が出てたNHKの「開拓者たち」を見たが プロデューサーがヒントにしたのではないかと思うぐらいだった。
全部は読み切れてない。終戦直前から 日本に帰って来てからチョット後まで
とにかく凄い。こういうのを中文化したり英訳して中国人にも世界の人々にも知ってもらいたいと心底思った。その一部とURLを転載する。


紙田治一。かみたはるかず。
1923年4月11日石川県金沢市金石、直江屋号紙田家に生まれる。

太平洋戦争に応召、軍医任官のため満州医大卒業、関東軍野戦病院軍医として終戦を迎える。
通化事件に遭遇。その後八路軍に捉えられ、さらに中国解放軍軍医として勤務
以降中国医大助教授、第四後方病院外科主任、分院長、第四陸軍病院軍医、河南省地方病院外科主任など歴任。

1950年、朝鮮戦争の年、鹿児島県加世田市(現、南さつま市出身で同僚だった看護婦の大迫チヱと現地で結婚、生涯男女五子あり)
1952年帰国、新天地を求め北海道に渡り、北海道大学医学部第一外科医局入局、貧苦の中、勉励して医師免許取得。
   医師免許取得後日本共産党系診療所所長を務める。
1963年、空知郡上砂川町に紙田医院を生涯一臨床医をもって地方医療に身を奉じる決意で開設。
1985年まで地方医師として全力を傾注する。
   妻チヱの難治性リューマチの発症、家族の離散により辛酸を舐めるも、孤独を恐るることなく酷寒の地にとどまる。

1985年、事故による怪我がもとで、骨髄炎、糖尿病、胆嚢癌、腸管閉塞など続発、生死の間をさまようが
    徹底的に病苦と闘い、奇跡的に恢復。
上京の上、長いリハビリでの苦闘を経ながらも 患者のための医療を痛感し、1988年、墨田区に診療所を65歳で開設。
地域医療、老人医療に身を挺する。

1994年10月、心停止から蘇生後植物状態
1995年9月22日までの驚異的な期間、敢然として病魔と闘い抜く。
享年73歳。

コメント(8)

                     【一歩も退かざる生涯あり】

1946年2月

・春節(中国の旧正月)の前夜、満州遼寧省通化市に国民党の特務員孫の謀略によって、旧日本軍(関東軍)藤田参謀と関東軍臨時野戦病院(仮称赤十字病院院長柴田久軍医大尉)の将兵と治癒患者、市内に潜伏していた旧日本兵が「東北民主聯軍(共産八路軍の満州編成軍)の通化市の司令部と駐屯部隊を攻撃して市を占拠し、近くに進撃して来る国民党の部隊(戦車を有する)と合流して南満を制圧する。事成功の後は、日本人は速やかに帰国させる」との密約で、藤田・柴田・赤根等の元将校が扇動指揮者となり、一部の旧日本兵が暴動に決起した事件――これが、称して通化暴動事件である。

 謀りごとは敵の朝鮮人部隊に事前に察知されていて、迎撃の態勢が出来ていた。おまけに決起時間4時間前に摘発された。発電所の占拠、電源の点滅合図、司令部の攻撃指令が、予定よりあまりに早過ぎたので、参加すべきグループも戸惑った、しかし既に待機していた敵は攻撃を開始して来た。ソ連軍の武装解除で、我々には武器も少なく、大半が徒手空拳と同じ状態で、敵の武器を奪って戦うしかない。情報が洩れていて、武器を持った兵隊は一人も日本人に近づかない。攻撃グループと敵の銃声は少なく、爆竹(春節のための花火)としか思えなかった。
 約1時間くらいすると武装した敵兵部隊が日本人狩りを始めた。続々と逮捕された日本人男性は、各所に拘置繋留された。名前を「藤田」と名乗っただけで、藤田参謀と間違われて即座に外に引きずり出されて銃殺された友人がいる。

 最初から反抗的だった私もあわや銃殺の危険があった、中国語がまだはっきり判らぬまま、警備兵に話しかけていたら、失敬な言葉が混ざっていたので、彼は奮然と怒り出した。その声があまり大きな声だったので班長が飛んで来た。何か話し合っていたが、突然針金を持ってこさせ、私を縛り上げた。そうして隣の部屋に監禁された。
 そうして「ダース、チャンピー」と叫ぶので、私はチンプンカンプンさっぱり判らない。中国語の判る石橋健治君が近くにいたので「石橋、何と言っているんだ」と大声で尋ねた。すると石橋君は「大変だ、銃殺してしまえ、と言っているぞ」と言う。驚いた私は「石橋、君から中国語で殺すな、針金も解けと話してみてくれ」と頼んだ。石橋君は班長に中国語でペラペラと何か話すと、「ミンパイ、ミンパイ」と言ったかと思うと、側に寄って来て針金を解き出した。
 それで一応は殺されずに済んだ。しかし乱暴な人間だと烙印を押されて、重罪嫌疑者として、別の所に移動させられて、格子のある本格的な牢獄に、足首に鎖、鉄玉の足枷を着けられ、2週間入れられた。

 釈放されたのは一番遅かった。一緒にいた中には、暴動首謀者が5名もいた。彼らはその後銃殺された。私も少しのところで銃殺組に入るはずであった。取調べは全部で3回。1回目、2回目は朝鮮人で、日本語、中国語も大して上手でないので、取調べも簡単で、私の言うことは聞いてくれない。3回目に取り調べた中国人幹部は日本語の達者で、中国語が出来ないことで、誤解から起きたこととだと判ったら、大笑いして、「貴方は釈放します。今後中国にいるのだから、中国語は上手になって下さい。これは私が日本語を勉強した本です、これを貴方に差し上げます」と言って、机の上にあった本の中から一冊取り、私に渡してくれた。
 その人のお蔭で命拾いをした。その後、私は中国語を一生懸命努力して覚えた、なにしろ命が掛かっているのだから……当然であったが、それが後日大変役立った。良い本で判りやすく、覚えるのに簡単な内容で、完了すれば一等通訳程度の実力がついていた。

・反日朝鮮国人の密告で、中国側と折衝してたくさんの難民(日本人)の世話をしていて、医師としても中国人にも信望の厚かった奥田省立病院院長が殺された。(暴動に全然無関係なのに、朝鮮人は、日本人が中国人と仲が良いか、信望があると邪魔をしたり、陥れたりした。)
 奥田院長は私と同郷の石川県美川町の出身で、奥さんは金沢市金石町の出身で、私の住んでいた所から近かった。妹さんは私と同学年だった。省立病院に派遣されて知り、何回も官舎に遊びに伺った。話題にこと欠かなかったので、深夜に及ぶ日もあり、ロシアの酒などご馳走になった。
 院長は中国語が流暢だったので日僑民会と中国官庁、軍との交渉に活躍されて、常時中国服を着ておられた。温和な人柄で他人の面倒見の良い方であった。満州大学医学部を卒業されていた私の恩師・田代先生の先輩で、私の話で「田代君ならよく知っているよ、彼は軍隊に召集されたが、君は彼の弟子か、奇遇だね」と言っておられた。
 難民のための診療所を造られ、私に任された。ただ銃殺されたとしか判らず、遺体は何処にあるのか全く不明である(私が釈放されて、官舎に伺い、奥さんやお手伝いの女中さんから聞いた)。
 奥さんはご主人が亡くなられたので心細く、収入のめども立たず、生活費にも困っておられた様子で、私の顔を見て大変喜んで、頼りにしてくれた。先生の恩に報いるため、生活費を得んと、私はそのため一生懸命仕事を探した。

 顔見知りの医師松本正雄君を訪ねて、彼の働いている中国人経営の医院に紹介して貰おうと頼んだ。すると彼は私に「僕もここを辞めるんだよ。八路軍で軍医を募集している。簡単な試験と面接があるが、君も一緒に受けてみないか。支度金もいいようだ。それからナースの斉藤光子君が中国人医師(経営者で老人)に妾になれと迫られている。私は妻がいるので、君の婚約者ということにして一緒に行こう。軍隊に入れば斉藤君も安全だから」との相談。
 私も金は要るし、同胞の女性も救える(彼女は21歳で、色白でなかなかの美人、チャーミングなナースである)と承知して、翌日松本君と一緒に試験場に出かけた。試験はアッペ、イングィナールヘルニアの手術術式のペーパーテストで、面接は任院長が中国語で「為傷病兵服務」と書いて見せ、片言の日本語で「人道博愛主義判るか」と質問したので「明白(ミンパイ)」と答えたら、今度は「OK」と来た。合格採用決定だ。
 新任務(四平街の戦闘に備えて病院を造る)は急がれた。2日後編成完了する予定であった。2日間内に集合するよう場所が示されて、支度金として満洲銀行紙幣で1万円渡された。家族を連れ、荷物を最小限度持って来るよう指示された。
 私はお金を持って奥田未亡人の家に行った。奥さんは留守だったので、女中さんにお金を全部渡して「必ず無事で迎えに帰って来ます」と言って別れた。その後二度と通化市には行けなかった。清水憲太郎君が奥さんと4人の子供さんの面倒を見て、1947年無事帰国、金沢に清水君が連れて帰ったと聞いた。

・私は松本夫妻、斉藤光子ナースと共に指定集合場所の飯店(中国旅館)に赴いた。大歓迎で、早速宴会が開かれたのであった。久しく口にしなかった酒とご馳走に満足していたら、「紙田大夫、斉藤愛人、どうぞ部屋に案内します(ズーテンターフ、チートンナィレン、チンライ、ニーメンデ、ウーズ、バー」とダブルベッドの部屋に案内されていった。恋人(婚約者)を愛人と言ってあったので、八路軍では妻を愛人(アイレン)と言う慣習なので、夫婦だと一室のダブルベッドが用意されたというわけだった。

 翌朝早く起こされた。すっかり疲れきってぐっすり眠っていた二人は「チーツォアンバー(起きなさい)」の大声で慌てて飛び起きた。衣服を急いで着て、洗面を終えて食堂に行き、先に始めていた任院長、松本夫妻、王政治委員と私と新妻・光子で食事をした。
 午前9時、通化駅発の火車(ホーチョ)汽車で目的地・柳河市(リューホーチョン)に向かった。5時間くらいで到着した。建設中の新病院に入って、明日副院長の連れて来る後陣を待った。宿舎は今日は軍医宿舎は別で、私と松本君が一緒で、松本夫人と斉藤光子が〈護士〉フース(看護婦)宿舎に別れた。翌日後続の連中が到着した。
 顔ぶれを見てびっくりした。土肥君、横田君と通化市での内妻夫人、篠原君の野戦病院の仲間がいる。他に竹崎博士(軍医大尉)、その部下の梶君、井筒君夫妻、堤内夫妻、岩井君(ハルピン医大の4年生)、斉藤君(軍医中尉)はじめ、母娘の一対、夫婦者を含めて、看護員、ナース予定の若い日本人男女、雑役、炊事(中には元航空隊員もいた)100名、中国人80名の200名の野戦病院人員が揃った。

 
3日後、開院と同時に四平街戦闘の負傷兵が入院して来た。その数100名で中等度の症状であった。早速診療開始。ガーゼ交換、手術、注射、投薬、看護と毎日忙しく働いた。傷が快くなると、直ちに退院させ、原隊に復帰。新入院が2回あったが、その後ばったりないので暇になった。
 それで駐屯部隊の要請で外来診療を始めた。鶏眼、パナリチウム、フルンケル、中にはカルブンケルもいた。外科は結構忙しかった。内科は入院はいなかったが、外来は遅い南満の春のこと、風邪が多かった。
 たまたま外科の診療室に来た一人(連長―中隊長)が、咳が激しく、呼吸困難、高い発熱の症状だ。外科のガーゼ交換を終えて、胸に耳を近づけるとラッセルン(湿性)が聴こえる。カルテの用紙を筒状に丸め、さらに慎重に聴くと間違いはない、急性肺炎だ。ナースに内科の土肥君を呼びに行かせた。彼は間もなく駆けつけて来て、一応診察して「重症の急性肺炎だから即時入院治療しなくては」と。しかし内科病室がない。幸い私の病室(個室)が今日退院後空いている。院長に連絡早速入院させた、土肥君と私の共同診療だ。ナースは斉藤光子。三人の連携プレーでみるみる軽快、20日目に無事全快退院した。

 後日、彼に巡り遇った時は団長(連隊長)になっていて、感謝されご馳走になった。姓名は李志銘で私が南下して柳州市で第四後方医院第一分院の分院長をやっている時、彼、李師長は柳州市に駐屯する軍の総司令であった。まだ35歳くらいの若さであった。その後、朝鮮戦争に参加したとの噂は聞いていたが、生死の消息が判らぬのが残念である。

・1ヶ月半後、病院の人員を二分して、片一方は柳河市にそのまま残り、我々は前線・梅河口市に向かった。
 当時、梅河口は南満の鉄道交通の要点であった。四平街攻防戦での負傷兵がどんどん貨車に乗せられ後送されてくる。さらに後方の病院に送る分類をする任務を命ぜられていた。駅に治療所を設けて交替にに待機した。負傷者列車が入ると乗り込んで、既に死亡している者は下ろし埋葬、重症、中等症、軽症にガーゼ交換をしながら分類した。軽症の負傷将兵は梅河口市の我々の病院に入院させ、重症、中等症の負傷将兵はさらに後方に下げた。こんなことを毎日2、3回行っていた。なお、兵器、弾丸も後方から、また捕獲物資は前線から引っきりなしに送られて来る。

 10日目の昼頃に敵戦闘偵察機が2機飛んで来た。駅の列車が多いのを見つけ、爆弾を投下していった。みごと命中したのは、砲弾を満載した貨車の列車だったからたまらない、轟然と爆発、砲弾は四方に緩い速度で飛び散った。落下した所で炸裂、「ドッカーン」「ボッカーン」、他の貨車、列車に命中して「バッカーン」や「ドッカーン」、凄い砲撃戦の様相を呈していた。駅も線路も周囲1キロは滅茶苦茶に破壊された。負傷兵の列車も吹っ飛んだ。生き残った者は150名くらいの中で50名だけ、後は全員砲撃による戦死だった。
 我々の治療所の人員は「紙田軍医以下10名全員生存、ただし軽傷者10名(すなわち全員かすり傷程度の負傷)」であった。皆、散々戦闘訓練をして来た連中だ、ヒョロヒョロ弾丸で死ぬはずがないが、中国職員はびっくりしていた。
 50名の負傷兵を病院に担架で運搬しなくてはならないので担架隊隊員を募った、中国人は誰も応じてはくれない。仕方がないので日本人ばかりで担架隊を編成した。さすが実戦の兵隊出身の者ばかりだ、何処に飛んで来るか判らない中を突き進んで、負傷兵を救助して運んだ。先導した私も結構勇敢だったものだ、今でも思い出すとゾーッとする。

 その後も敵機は2回飛来した。一度は病院宿舎の上を飛んで機銃掃射をしていった。その時は日本人は平然と落ち着いていたが、中国幹部達は大慌てで、特に院長は拳銃を飛行機に目がけて乱射していた。その姿が滑稽だったので、後で院長に「あんな拳銃で飛行機が落とせるものではないのに。かえって目標になって撃たれるのが関の山だよ」と言ったら、「手槍(拳銃)では駄目だったが、関裡(中国本土――北支)では槍(銃)で日本戦闘機を撃ち落としたことがあった」と言う。今度はこっちが驚いた。「院長は我々よりも歴戦の勇士だったのか」と、皆で囁いた。

 竹崎隆昌先生は召集された軍医大尉であった。東北帝国大学医学部卒業後、杉村外科教授の外科医局で学んだ優秀な愛弟子であり、仙台市の杉村外科病院の院長代理をやられた方で、外科ではオーソリティだった。しかし「戦傷外科は整形外科が必要だ」と言われて、神中整形外科書を大事にして、暇があると読んでおられ、私達にも懇切に教えて頂いた。

・列車は翌朝出発してハルピン駅に向かった。(なぜたくさんの医療器材、薬品、医学書等をどんどん後方に運ぶのかとの疑問は後日判明した。鶴岡市に中国医科大学――2年制の戦争実践医学軍医学校――を開設する準備であった。)ハルピン駅に到着したら、任院長が出迎えに来ていた。宿泊は駅前のホテルが全館借り切りしてあったので、食事、住み心地は、これまでと段違いに良くて、快適で豪華な待遇であった。
 10日間滞在すると言われた。同裡街(終戦前は純中国人だけの街で、日本人は将兵、民間人を問わず入れず、また入っても二度と出てきた姿を見た者はいない、魔窟といわれていた街)にも行った。想像以上に明るく、商店も大きな店が豊富な商品を並べて、軒を連ねていた。食べ歩き、ショッピングにもってこいという所だ。

 ある一日、駅前に5、600名の襤褸を纏った、病み上がりの日本兵が汽車から降ろされて屯ろしていた。側に行って話を聞くと、シベリヤで労働させられていたが、病気になって入院していた。しかし退院の見込みもない者だけが、満州に送り返されてきたとの話だった。やがて彼らは、日本人居留民団と中国市政府の幹部が来て、トラックに乗せて連れ去られた。

 10日後、ハルピン市を出発してジャムス市に向かった。ジャムス市のモンゴリ日本人収容所に入った。収容人員は2500名の大きな収容所で、元の連隊の兵営の跡である。ここでの仕事は医師、看護婦、技術者(印刷関係、写真関係、建築関係、機械関係、電気関係、医療機械関係、薬品製造関係等)がいないか調査することであった。医師は所長が金沢医科大学出身の元ジャムス軍団の衛生部長・大道軍医大佐(内科)で軍医が7名、歯科医には、軍医1名、開業医1名がいた。看護婦は婦長2名、正看30名、見習い看護婦60名、衛生兵が500名くらいの患者の治療に当たっていた。その中から内科医師1名、歯科医師1名、婦長1名、正看10名、見習い看護婦20名を選んだ。もちろん各技術者も選ばれて、総勢200名が増えた。

 5日後、鶴岡市に向け出発した。鉄橋は日本軍が爆破して使用できなくなっていた。舟で物資器材、人員がスンガリー(松花江)を渡河して、対岸に待機していた貨物列車に乗車して目的地・鶴岡市に向かった。(鶴岡市は日本が北満に開発した大きな炭鉱の街で、大きな立派な炭鉱病院があり、炭鉱技術者の養成学校、幹部住宅、一般従業員住宅が揃っている。小学校2、中学校1、女学校1もあった。軍関係の建物は爆破か破壊されていた。現在、昭和21年〜25年まで、日本人100名、中国人1500名が採炭をしていた。)


・ここで中国医科大学(軍医2年制学校)を開設したのである。学長は王賦、副学長は孫利大、付属病院院長は任院長がなって、副院長は二人で王副院長、張軍医(満大副学長)である。
 本院が完全に補修が出来るまで、女学校と中学校を病院にして、送られて来る傷病兵を収容、治療を開始した。若手軍医は全員診療に従事した。大家医師は指導を、そして教授の適任者を選考していた。
 関西元チャムス医科大学の内科教授・松原元ハルピン満鉄院長(外科の権威者)、三木元ハルピン医科大学の耳鼻科助教授、中国人の教授、助教授経験者等が続々着任して来た。
 王学長は手術をすることが好きで、我々が手術をしていると「自分にもやらせてくれ」とせがまれた。技術的にはまだ未熟であったが、熱心に教えを乞うので、比較的上達は早い方だった。私にいつも通訳しろと言うので、すっかり仲良くなった。王院長は日本語はほとんど話せない、しかし悪口は聞いてよく判る。日本人が中国人の前で、判らないと思って、悪口を平気で言っていることがあると、彼は笑いながら、日本人の判らない中国語で、悪口を言って「ミンパイ」と問いかける。判らない日本人はキョトンとしているそうである。私に「スイイェ、マーレン、プシンバー」とよく言っていた。そんな人柄であったが、北支の北京ではイギリス人ドクターのところで医療助手として働いていて、医学の勉強をしたので、英語は上手であった。本心は結構親日家だった。日本の医学の進歩に畏敬の念を持っていた。彼は全中国解放後、元の満州医科大学校の学長となって、さらに全中国の医科大学校の学長総代表者になった。

 本院の補修が完成すると、私は外科の臨床教授の下で、助教授を命ぜられた。竹崎、松原両教授の通訳が主な仕事であった。両先生と学生間の講義やポリクリの時の通訳をするのである。そのために講義内容、手術患者の選定、その他の打ち合せに、毎晩先生の宿舎にお邪魔していた。いろいろ教えて頂いたり、懇切なご指導を受けて、大変いい勉強になった。
 また手術も随分たくさんやった。第一助手、執刀者を一日3〜5例、1週間に2〜3日の手術をこなした。また外科外来の責任軍医としても忙しかった。

 手術で印象に残っているのは、竹崎先生の下肢カウザルギーの腰部交感神経節の手術、帝王切開分娩手術で、その鮮やかなメス捌き、綺麗でスピードあるのを見て、助手をしながら見とれていた。ヘモの美人師団司令の愛人の手術は、パンツを脱がないので小さくパンツに穴を空けさせ、3センチ未満の直径の円形の中で、消毒を完全にしての、鮮やかな内外ヘモ摘除ではかなりのテクニックを工夫されていた。恥じる若い美人には、優しい一面を見た。

・この匪賊討伐作戦に従軍して行動した地域は、小興安嶺の北側で黒龍江の流域一帯である。普通ではなかなか見られないか、体験できないようなことに、遭遇、見聞した貴重な記録をここに述べる。

 小興安嶺の鉱物の埋蔵はその種類、埋蔵量は大変なものであろう。石炭は鶴岡市に炭鉱があるが、奥地では1000メートルを越える山岳地帯を行軍した。約120キロの行程である。
 驚いたことに全山が火気厳禁になっている。露頭の石炭、流れる河まで黒ダイヤで蜿蜒ソ連のシベリアに続く、大石炭埋蔵量を持った地方である。500年掘り続けても尽きないだろう(無尽蔵)といわれるそうだ。通り抜けるのに3日間もかかった。
 それを過ぎた日に金坑に着いた。砂金採取であったが、約1キロ平方メートルの谷間は砂金採取の小屋がびっしり建ち並んでいる。谷間全体が砂金鉱区なのだ。金山は上流にあるが、将来金鉱が出来るそうで、現在は無法無政府地帯で、砂金採取に人が群がっているそうである。
 部隊が一泊した日はちょうど旧正月(春節)の前夜であった。街は浮かれ賑わっていた。こんな山奥なのに物資は豊富であった。司令官の指示で旧正月を祝った。ギョーザが作られた。一人一斤の麺、一斤のズゥーロー(豚肉)が配られた。その夜は遅くまでギョーザを作り、また食べた。チャンチューも飲んで騒いだ。
 一睡もせず翌日、午後から敵の逃げた先が判ったとの情報が入って、その夜進発命令が出た。「食糧は5日分携帯せよ」との命令である。ギョーザ、カンピン(干餅――焼き麺、煎餅)を大量に作った(ギョーザは天然冷凍した満州の2月初めだ。煮てから外に2時間も広げて置けば、カチンカチンに凍ってしまう)。後は袋につめて箱にいれ、馬車に積み込んだら万事OK。私は軍医であったから、携帯外科器械を持っていた。
 消毒用アルコールは現地調達、中国には部落ごとに必ずチャンチューの醸造元がある。そこにはアルコール度数70%のチャンチューの原酒がある。それを買って消毒用にするのだ。携帯していた水筒(1リットル入り)に毎朝詰め替えていた。詰め替え前のチャンチューは我らの朝酒用となった。ときには昼食の口汚しとなった。

 黒龍江を乗馬で走った時はスピードと河風の烈しさで、着ていた物が防寒に何にも役立たず、全裸で馬に乗って走っているように芯から凍えた。部隊に鼻尖が凍傷になった兵隊が何人も出た。ヨーチン、リバノールガーゼの湿布である。ガーゼマスクの黄色がめだった。
 医者のいない部落が多かったので、頼まれてローベーシン(民間人)を診療した。お礼にご馳走を宿舎に持って来られるのに閉口した。夕食後なのと、量が多すぎるのだった。宿舎にしている家の家族に一緒に夜食に付き合って貰った。医務室の衛生兵も、すっかり肥えてしまった。

 北満にはノロが多い。毛が長くて皮は防寒用に最適で珍重がられる。行軍していたとき、ノロが向こうに見えた。揚小隊長は射撃の腕自慢だった。射撃自慢の話を聞いていたので、私も兵隊から小銃を借りて二人は小銃を構えた。ノロを狙って一発撃った。見事命中。近づいてみたら、頚と腹に命中していた。私は頭、揚さんは胸を狙ったのだ。皆驚いた。射撃は私も上手だったという話。

 私は日本馬(軍馬の子)の三歳馬を貰ったが、乗ってみてさっぱり調教がしていない馬なので困った。前に馬がいればぴったり着いて行くが、単独ではすぐ止まって遊ぼうとする全くの仔馬だった。敵と遭遇戦の時負傷者が出たので、駆けつけようとしたが馬が走らない。張参謀長が急いで自分の馬を貸してくれた。
 日本軍馬で大きく速い。戦線が近くなり銃声が聴こえると勇み立ち、速度はますます出て来る。止めようとしても止まってくれない。味方を通り越してしまった。このままでは捕虜になってしまう。慌てて私は目の前に迫った大きな樹の枝に飛びついた。鐙は外していたので枝に掴まってぶら下がり、助かった。馬は一散に敵陣めがけて敵中突破。私は負傷兵の所に駆け寄って手当てをした。敵は逃げたので、馬は味方の兵隊が連行して帰ってくれた。
 後で、張参謀長は双眼鏡で見ていてハラハラしたそうだ。私が敵陣に突っ込む姿に、そしてその後、馬が突っ込んだのに。軍医と軍馬は日本軍隊なので勇敢だと思ったそうだ。真相を話したら、腹を抱えて大笑い。
 私の三歳馬も鶴岡市に帰る頃にはすっかり名馬に成長して私に懐いた。司令官はくれると言ったが、飼うことが出来ないのでジャムスに連れて帰って貰った。

・その後大学から派遣され、2回のフーキン市(富錦市)の後方病院に出張した。中国医科大学発行『新戦傷外科治療』のソ連版翻訳医書の説明と講義をして、さらに実技指導に行った。帰りにジャムス市で司令部に立ち寄って、愛馬(田田号)に2度会った。そのとき乗ったが、逞しい軍馬になっていた。軍馬には私の姓の田(テン)を取って、テンテンホー(田田号)と名づけられていた。

 国民党軍遊撃隊匪賊殲滅作戦は完全に勝利して終了した。逮捕された匪首劉山東はジャムス市に連行、人民裁判にかけられて、チャンピー(槍弊、銃殺)された。なお同時に逮捕された敵の特務(スパイ)2名は、民家への掠奪、放火、殺人の残虐行為で、連行して行軍途中に逃亡を図ったため、追跡チャンピー(銃撃死)された。

 2月25日、大学に凱旋帰還して、王学長以下の大歓迎を受けた。
 1947年4月25日、東北解放軍総司令部衛生部賀部長の命令を受け、鶴岡市の中国医科大学を離れてジャムス市に向かった。
 ……これからの前戦への新任務に就くために。
 この巻 終わり


あれ?書き込みが消されている・・。ここはもしかして、ネトウヨお断りとかのフリをしながら、ネトウヨの巣窟なのか?もしや。

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