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石川啄木〜釧路時代の輝きコミュの考察 釧路 明治の芸妓の育成

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「舞子はレディー」の映画を見て気がつきました。

 市子が芸妓としてデビューしたのは十代です。啄木と会ったのは明治41年です。当時十七歳でしたので、相当若い時から三味線や踊りについて練習していたのでしょう。

 では、その芸事のお稽古について考えてみることにしました。

 釧路に女子技芸学校ができたのは大正時代ですから、その前にお稽古をする場所や師匠がいたはずです。

 昭和初期の釧路の地図や釧路行幸誌を見ますと、置屋という名前のあることに気かつきました。

前出の映画「舞子はレディー」や京都の舞子さんたちの生活を考えると、釧路にもそれ相当のお稽古をする場所があったはずだということがわかります。

 市子の弾く三味線の糸が切れた歌以外にも、釧路時代の日記や釧路時代をモチーフにした小説があり、市子の年齢を考え、日記や小説のなかの師匠や先輩芸妓とのやりとりから、たぶん置屋での生活を考えることができます。

 それが置屋なのか抱えていた料理屋での下働きなのかは判断できませんが、日進小学校を卒業した後に数年間所属していただろうということを想像してみました。

 そして、釧路新聞に掲載している明治39年3月の宝来座での娘演劇の記事のなかに芸妓前の市子が本名のまま掲載してあり、喜望楼女将松本(大井)トメを筆頭に娘たちに芸事を指導する組織が存在していたことをうかがわせています。

 踊りや三味線、琴といった芸事を指導する女性の存在から、明治時代の生活を検証してきたいと思っています。

 時代が明治〜大正〜昭和〜平成と移り変わり、釧路新聞の記事しかたよるものはありませんが、そのなかに、市子の行方を示すものがあると考えています。










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