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石川啄木〜釧路時代の輝きコミュの大発見5 南畝の正体

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 大正11年発行の「釧路の人物」の序文を読んで、最後に寄稿した人物が佐藤国司であることがわかりました。
 その名前の上に「南畝」と雅号が記されていました。

啄木日記 明治41年2月14日、17日、19日、22日、23日、27日、3月3日に登場してくる人物です。


以下啄木日記より関係部分〜

二月十四日
 昨日の酔のためか、十一時に漸く起きて出社。風邪の気味で、何となく躯の加減がよくない。昨日入社した編輯助手永戸泔水は、女にかけては訥言敏行といふ人相をして居る。
 今日の編輯局は南畝氏太田氏を初め有馬君古川君らの来訪で大分賑やかであつた。然し僕にとつては少し風向が悪くて、市ちやんの“粋界”事件が曝露し、小静が問題になり、緑子はぽんたの事まで引合に出して、散々大笑ひをした。
 〆切つてから、富士屋といふ宿屋に今度来た薩摩琵琶手有馬正彦君を訪問、晩餐を御馳走になつて八時帰る。
 久振に宿に居る様な気がする。一月中に来た年始状を調べた。

二月十七日
 起きてせつ子と母の手紙を見た。社に行つて珍しくも、小樽に居る野口雨情君の手紙に接した。今日は編輯局裡深く宿酔の気に閉されて、これといふ珍談もない。緑子は頭痛のため正午帰宅、小南子亦早退。四時頃〆切つて帰ると、角掛清松の手紙は此方へ来たいから旅費を呉れといふ。宮崎郁雨君からは、其結婚問題に就いて意見をもとめて来た。
 郁雨君へは早速返事をかいて、其昔の恋人の妹なる人に聟となることを勧めた。晩餐を済して佐藤南畝氏を訪ひ、北東の横山分取案を話し、八時半帰つて来ると、モ少し先に女の方が訪ねて来たといふ。よく聞いて見ると、本行寺の娘さんらしい。今日同寺で愛正婦人会の総会があつたのだが、社の都合で行けなかつた。
 昨日留守中に釧路病院長の俣野君が置いて行つて呉れた毛生薬を今夜からつけ初めた。

二月十九日
この日、本道鉄道冬季操業視察の新聞記者一行歓迎委員として、緑子旭川に向つた。新聞上一切の責任がこの一身にある。
 二十二日の新聞に附録とすべき統計の調査を命じて、午後二時〆切る。風邪の気味で筆をとる気にも成れぬので、ブラブラ出掛けて第三学校の後の窪地に遠藤君を訪ねた。夕食を喰つて帰つて、浦見町に南畝氏を訪ねる。讃井君も来て居た。色々話して九時帰る。

二月二十二日
一行と共に日景君も今朝七時旭川に向けて出立した。出社すると函館の西堀秋潮君から絵葉書が来て居た。
 小奴が佐藤君を今朝訪ねて、何か僕の事を云つたとかで、少し油をとられて大笑ひ。四時に締切る。
 今夜は、二十日に初号を出した実業調査会機関の“釧路実業新報”創刊祝で、南畝氏の招待をうけ、同人と共に六時鶤寅に行つた。北東からは西嶋社長と花輪君、タイムス支社の太田君、北海旭の甲斐君、外に神稲葉君らで、小蝶に小奴に春吉、小奴のカツポレは見事であつた。
 釧路へ来てから今夜程酔うた事はなかつた。十時半景気よく送出されて帰宿、その儘枕についた。
 此日社から今月分俸給二十五円受取つた。
 
二月二十三日
 今日は日曜日。秋浜融三君が来るか来るかと待つたが、遂に来なかつた。岩手の小笠原迷宮君から珍らしく久振の手紙が来た。
 夕方、林君が来て、晩餐を共にした。
 夜、南畝氏を訪ふたが留守。タイムス支社の太田君を訪うて十時頃[迄]話す。誠に角のとれた人で、十二になる娘のきくちやんは可愛い児である。

二月二十七日
 電為替を受取つたので、気持がよい。夕刻鹿嶋屋へ寄つて、佐藤南畝氏を訪ふ、快談一時間。帰りに衣川、小南、泔水三子に逢ひ、つれて帰つて一緒に牛鍋の夕飯。遠藤君が来て居た。三人が帰ると、工場の福嶋が来たから金を呉れて探訪にやる。遠藤君と鶤寅に行つた。中家正一(第三学校教員)といふ人が来て初対面、大に飲む。すずめに大に泣きつかれる。

三月三日
 朝、横山君が訪ねてきて、今夜この下宿へ来る事に決定。
 編輯は早く締切る。日景主筆が今暁四時無事鉄道操業視察を終つて帰社したので、五時から鶤寅亭に慰労会を開いた。南畝氏を初めとして、社中同人一同、小南、衣川、泔水に予。校書は小蝶、小奴、ぽんた、後で妙子といふのも来た。小奴は予の側に座つて動かなかつた。
酔ふて九時半頃散会。出る時小奴は一封の手紙を予の手に忍ばした。裏門の瓦斯燈の仄暗き光に封を切ると、中には細字の文と共に、嘗て自分の呉れてやつた紙幣が這入つて居た。小奴の心は迷うて居る。予は直ぐ引返して行つて玄関をあけた、奴を呼んで封筒のまゝ投げて返す。
 本行寺の加留多会へ衣川と二人で行つて見たが、目がチラチラして居て、駄目であつた。帰りに小奴に逢つた。
 宿には横山城東子が約の如く待つて居た。今夜から隣りの部屋に居るのだ。

近代デジタルライブラリー釧路の人物7ページ目にその資料があります。
 → http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909335 

 南畝が佐藤国司であることは、日記の内容から佐藤国司ではないかと考えられていましたが、事実を証明できる資料が発見できていませんでした。

 南畝が佐藤国司であるとはっきり断定できる資料があることで、啄木の離釧の理由に横山城東の釧路新聞採用工作が日景安太郎の反対により実現できなかったことがクローズアップされるのではないかと思います。
それは、啄木日記に
二月十七日
 略〜晩餐を済して佐藤南畝氏を訪ひ、北東の横山分取案を話し、〜略

という記事があります。
この内容が横山城東を入社させる案を佐藤国司に根回ししていたのではないかと考えました。

 既に横山城東は別の新聞社を退社していますし、啄木の下宿の隣の部屋に住むことが決まっています。
 3月中頃だと考えられますが、日景安太郎の反対が横山城東に対して入社の話が反故になってしまうので、啄木自身の新聞社での立場を考えると、啄木の自尊心を痛く傷つけたに違いないのではないかと考えられます。あともどりのできない横山城東の入社の件が、隣に下宿している横山本人にも申し訳が立たず、そのまま釧路に住み続けることができなかったのではないかと考えられます。

啄木には何の決定権もない横山の入社の話を、啄木自身が勝手に話を進めていたのでしょう。

 啄木を中心として、周辺にいる人々を啄木中心の渦に巻き込む不思議な雰囲気を持っていますが、うまくいかなかったとき、啄木は退路を断ってしまうようです。

 啄木は離釧の際に必要なお金を借りるために、どんな話を持ちかけたのでしょう。みなさん同情して気前よくお金を貸してくれています。
啄木の前科として借りたお金はほとんど返してません。不思議です。




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