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石原莞爾平和思想研究会コミュの松井石根大将処刑の逆説

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松井石根大将の秘書を務めていた田中正明によれば、松井が最も崇拝していたのが荒尾精でした。大亜細亜協会の機関誌 『大亜細亜主義』には、荒尾の同志・浦敬一や宗方小太郎らを扱った読み物が掲載されています。また、松井は戦後次のように語っています。

「陸軍の大陸政策なるものは古く川上操六大将時代から伝統的のものです。大将は所謂アジアの諸国を糾合してヨーロッパの侵略に備へようといふのが目的であるのであって、自らも暴々アジアの各地を巡ってをるが、又当時の有力なる人をアジアの南北に向けてアジアの各地との連絡提携を図った。其の最も顕著に現れたものが、即ち例の荒尾精の日支提携運動となってをる」(松浦正孝 『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか』)

不幸なことに、松井は南京事件の責任を問われましたが、退役後の昭和15(1940)年、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、 熱海市伊豆山の中腹に聖観音を建立したのです。 観音像は、南京周辺などの戦場の土を材料として作られたといいます。

松井はこの近くに庵を建てて生活し、毎朝山に登って観音経をあげていたといいます。少なくとも松井本人は、日支提携、日支親善を目指して生きてきたという自負がありました。松井は東京裁判の宣誓口述書で次のように述べています。

「予は明治26年(1894年) 陸軍幼年学校以来昭和10年(1935年) 予備役編入迄40余年の陸軍在職中、参謀本部々員、同第二部長、第十一師団長、台湾軍司令官等を歴任したり、此間支那の南北に在住すること前後十二年に亙り、専ら日支提携の事に尽力せるのみならず、予は青壮年時代より生涯を一貫して日両国の親善提携、 亜細亜の復興に心血をそそぎ陸軍在職中の職務の大部分も亦之に応ずるものなりき」そんな松井が、東京裁判で南京事件の責により死刑を宣告され、処刑されたのは大きな逆説です。

松浦正孝氏が指摘しているように、東京裁判でウェップ裁判長は松井のアジア主義を一切問題にせず、南京事件における司令官としての責任だけが問われたのです。ウェップは、法廷において、荒尾精以来の王道アジア主義が開陳されることを恐れたのであろうか。

松井石根大将などは、私からすると最も至誠あふれる人柄でした。松井大将ほど権謀術数が似合わない将軍はいないとも言えます。それもまた、日本の誇りであると同時に、松井個人の不運をもたらしました。結果として、全くの虚構にすぎないいわゆる「南京大虐殺」の冤罪を被らされ、死刑に処せられたのです。

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