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石原莞爾平和思想研究会コミュの工藤司同志山形県の西山へ

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東亜連盟は戦後、国民党を組織し新日本の建設をスローガンに全国運動を開始した。かつて活躍したメンバーはパージで表に出られないため、これに該当しない人びとによる組織となったのである。東京に事務所もあり、全国大会も定期的に開かれ、新しい村づくり運動を中心に 地道な運動を展開した。

弘前ではかつての幹部たちが論陣の主体で、それなりの結束を保っていた。(会費納人者、約3000人ともいわれた)昭和26年8月、工藤司同志は山形県の西山へいってくれと言われた(このとき工藤司同志は東京で国民党本部の雑用をしていた。事務所は転々して小野元士宅だったようである)。

パージになっていた先輩たちが追放を解かれて運動に参加できるようになったので、組織を拡大強化し新発足しようとのことで、その大会を西山の石原莞爾の墓前でやることになり、その準備のためである。石原莞爾が選んだ農場を直接目にできるという期待感もあって、勇躍出かけた。もし可能ならば自分もその地に入植したいという気持ちすらあった。

津軽の農家で鍬を振るっているよりも、遥かに生き甲斐を感じる生活が送れるのではないかと、いささか思い詰めた気持ちもあったのだ。海岸近くを流れる川にかかる橋を渡り、爽やかな海風が流れる松林の道を行くと農場らしき場所があった。だれにどう尋ねていいものかと思いながらたたずんでいると、そこに出てきたのが武田邦太郎氏だった。

武田氏は数人の仲條立一同志と石原莞爾の墓守りをしながら開墾をしているというが、彼との出会いもその後の工藤司同志にとって大きなものであった。工藤司同志は解党と結党の準備のために赴いたので農場の仕事はしなかったが、山形の夏は暑い。酷暑の盛り、この砂地の農場は素足では歩けない。そして山形特有の柄の短い平鍬を使っての仕事である。

どんな思いでやっているのだろうと思わずにはいられなかった。植えられていたのはサツマイモのようだった。麦もあったろう。しかし想像もつかない過酷な新天地という印象だけが強かった。先輩たちからはこの様相は全く聞かされたことがなかっただけに、受けた衝撃が強かった。

いつになったら、どんな方法で、どんなやり方をすれは、理想の形態が実現するのだろうか。自分の百姓姿を重ね合わせて考えずにはいられなかった。8月15日の大会の日が近くなるにつれて、パージから開放された旧東連の人たちが三々五々集まってきて打合せを行った。

当面の運動資金が話題の中心だったようだが、この地から日本の新しい出発がはじまり、都市解体、農工一体、質素生活への革新がはじまる、と工藤司同志に思えたか。ただ無性に腹が空いてどうしようもなかったことだけは鮮明に覚えていると言います。墓前で結党宣言がなされ、大いに意気上がるなかで大会を終了。

終わって工藤司同志は墓前祭壇の解体と後始末。特に指示をする人もなく、地元の2人ほどと一緒に砂丘を越えて、借りてきたものを返すため往復した。途中の畑にあった西瓜を膝で割り、何も食ってない腹の中へ押し込むように2つも食べた。この後、党の資金源がどうなったかはよく分からない。工藤司同志は杉並の本部事務所で郵便物の整理や全国連絡紙のガリ版きりを続けたのです。

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