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石原莞爾平和思想研究会コミュの尊王攘夷は日本防衛と国体護持

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西欧の植民地支配の波は、そしてついに太平洋の端に位置する日本に到達しました。維新のさきがけとなった志士・吉田松陰は、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って愕然としました。あの大国・清が白人列強の餌食となったのです。

いずれ、その脅威は日本にも迫ってきます。松陰は、これまで自身が学んできた山鹿流兵学が時代遅れになったと痛感しました。嘉永三(1850) 年、松陰は西洋兵学を学ぶために九州に遊学、ついで江戸に出て佐久間象山に師事した。

嘉永六(1853)年、ペリーが浦賀に来航すると、さっそく師の佐久間象山と共に浦賀に赴き、松陰は黒船を観察しました。西洋の先進文明に心を打たれたのです。この時、松陰は「聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と、同志へ書簡を送っている。

その後、松陰は師・佐久間象山の薦めもあって外国留学を決意。長崎に寄港していたプチャーチンのロシアの軍艦に乗り込もうとします。しかし、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦。同艦は予定を繰り上げて出航してしまい留学は果たせなかった。

嘉永七(1854)年にペリーが日米和親条約締結のために再来すると、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗み、旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船しました。しかし、渡航は拒否され、小舟も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄されました。

幕末・維新については、様々な角度から検証し、言及することができます。「勝てば官軍」と言われるように、大義で言えば「賊軍」とされた側にも、百も千も言い分はあります。「尊王攘夷」「開国」など、それぞれに立場がある。人物に焦点をあてて書けば、きりがない。

ただ、私は、当時の世界の状況の中にあった日本の選択として、明治維新は必要不可欠であったと思うのです。二つの需要なテーマがありました。ひとつは、白人列強の植民地支配、有色人種の大虐殺と奴隷化から日本を守れるかという「生存」の観点です。もうひとつは、たとえ生存することができたとしても、「国体」を護持できるかという点です。

実は、後者が、日本にとっては最も重要な課題でした。ペリーの黒船来航について、日本を対米戦争に向かわせたのは、他ならぬアメリカだったという観点です。しかし、アメリカ以前に、アジアは既に西洋列強によって植民地にされていました。その脅威が日本を取り巻いていたのです。

慶応三(1867)年1月9日、孝明天皇が崩御されました。皇太子は、まだ若干14歳で践祚(天皇の地位を継がれること)された。即位式は、慶応四(1868)年10月12日に執り行われ、改元の詔書により、慶応4年1月1日より、明治元年となったのです。

尊王攘夷は、「開国」へと移行したように思われるかもしれませんが、そうではありません。日本は、欧米列強による日本侵略から日本を守るために、欧米と肩を並べられる強国となる道を選んだのです。つまり、「富国強兵」政策なのです。

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