ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾VS東條英機

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

石原莞爾と反目を続けている関東軍参謀長東條英機は、陸軍次官となって上京しました。東條英機の後任は、東條英機の同期であった磯谷廉介中将でしたが、磯谷廉介中将は石原莞爾とはハナからそりが合わなかったのです。

石原莞爾は「満州国育成の内面指導権を関東軍から協和会に譲り、満州国を名実ともに独立国にすべきである」という意見を植田軍司令官に具申しました。もしこの意見が反古にされるならば現役を退き、文字どおり丸裸となって満州国のため真心を尽くさなければならない。石原莞爾は固い決意のもとに、予備役願を植田軍司令官に提出しました。

この件が陸軍部内に伝わると、秩父言、本庄繁大将、板垣征四郎、多田駿両中将らが、現役にとどまるよう勧告しました。その頃、石原莞爾の病気は次第に悪化し、はた目にも痛々しくうつったため、植田軍可官は、「辞表は板垣陸相に取りつぐ。しかし、まず病気静養の請願休戦とせよ」と説得、昭和13年8月14日、 帰国することとなりました。

それから一時、母と妻と三人で一緒に住んだ。その後、友人の十河信二氏の紹介で東京大学病院に入院した。ところで、石原莞爾帰国が満州全土に伝わると、住民は非常なショックを受け、あたかも教世主を失ったように悲しんだと言います。

石原莞爾は静養と東京大学病院での入院とで4カ月を過ごした後、昭和13年12月5日、舞鶴要塞司令官に補せられました。この職は「健康の回復に努めよ」と伝えられていますが、考えようによっては現代の「窓ぎわ」のような人事だったのでしょう。

しかし、当人の中には日支事変の行く末や民の生活をはじめとして、日本の政情など不安材料が去来し、とても休養の暇など皆無でした。一方、石原莞爾と犬猿の仲である東條次官は、石原莞爾追い落としの策に出ました。

板垣陸相は石原莞爾と思想を同じくし、親しい間柄であったのですが、東條英機は表面はいかにも心服しているように見せかけ、その裏で、部内の拡大派をそそのかし、板垣征四郎の事変早期解決策に反対させ、東京九段の皆行社で行なわれた在拠軍人総会に出席して、支那事変解決が遅延するのは、英米ソ三国が支那を支持するからだ。」

「したがって、この事変を根本的に解決するためには、英米ソとの戦争を決意せねばならぬ」などと意表をつく演説を行なったのです。東條英機にこの演説をされたため板垣陸相は、日支事変の解決策に困惑し、傘下の和平主義者と協議した結果、東條英機を航空総監として省外へ転出させようとしました。

東條英機は板垣征四郎に対し、「自分と反対の意見を持つ多田参謀次長が辞めるなら、自分も次官を辞めてもよい」と条件をつけたため、板垣陸相はやむを得ず、関東軍第三軍司令官として転出させました。つぎの標的は、石原莞爾の腹心です。

東條英機は東京憲兵隊長の加藤泊次郎大佐、特高課長の大谷敬二郎少佐に命じ、石原莞爾に私淑する浅原健三、高木清寿を、軍の赤化を策謀するという嫌疑で逮捕、監禁させました。石原莞爾は板垣陸相に、「二人を取り調べるより、この俺を調べろ」と申し出ました。

板垣陸相は、東條英機と石原莞爾の間にはさまれてお手上げとなり、結局、浅原は共産党員とみなされ上海へ行かざるを得なくなったのです。共産党は非合法組織とされ、そのころ全国的に弾圧がはじまっていたのです。ところが、浅原はかつて労働運動に挺身していたのですが、共産党員ではなかったのです。逮捕、追放は、あくまで石原莞爾に対する嫌がらせだったのです。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

石原莞爾平和思想研究会 更新情報

石原莞爾平和思想研究会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング