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石原莞爾平和思想研究会コミュの満州問題の論議について

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日本人は日露戦争以後、中国人が絶対解決し得ないロシア人の南進を阻止し、血と涙と汗で、王道楽土として満州を開拓しました。そこで、近代産業をつくり、張作霖父子の軍閥的搾取を抑え、戦乱の中国大陸から隔離された桃源郷として、戦乱から逃れてきた年間100万人の流民の王道楽土となったのです。

満州は、中国人の有史以来の北方問題を一挙に解決し、中国人の北進の可能性をつくったのです。勿論それは、中国史にとっては破天荒の出来事です。では、なぜ長城を超えたことが破天荒かというと、中国は有史以来、西域遠征を除いて、長城を超え、あるいは海に入ったら、もはや中国人として認められなくなってしまうからです。

それは法を犯したというだけでなく、帰国さえ許されなかったのが、歴代王朝の陸禁海禁政策です。満州問題の論議については、少なくともこの程度の満州についての知識を持たなければならないでしょう。

日露戦争に至るまでの満州とは、完全にロシアの支配下にあり、当時、日本の領事は、中国政府からではなく、ロシア政府の承認を得なければならないというのが、現実でした。中国はいくら何でも、もはや満州を実力でロシアから取り戻すことはできなかったのです。つまり日露戦争は、1つの歴史の転換点になったというべきでしょう。

中国人の大量移民、年間100万を超える移民は、ほとんど日露戦争以後からのことです。中国人は、満州にとっても20世紀初頭に入ってからの外来者であり、よそ者でした。もし日露戦争がなければ、今日の満州はロシア人の移住者によって埋め尽くされ、日本支配下の満州のように、ロシア政府が中国からの大量移民を受け入れることはあり得なかった。

今日のシベリアと同じように。この見方が独断偏見だと思う人に、ぜひ比較を勧めたいのが、同じころに、満州以上に自然豊かな桃源郷であった雲貴高原へ逃げこんだ中国流民と、日本人が精塊を継ぎ込んで開拓した満州に流れこんできた中国流民の境遇とを比較し、冷静に分析してみる問題です。ぜひ満州凍土と雲貴高原の比較研究をすすめたいです。

これは、台湾と海南両島との比較研究と同じです。中国人の広東、広西省、雲貴高原への進出、侵入(あるいは侵略)は、実は18世紀に入ってからです。明王朝の時代には、この嶺南地方には、漢民族がそれほど多くなかったのです。

明代の貴州省には、漢民族移民の割合は「10分の1、3分の1に及ばず」といわれ、広西省でさえ「漢民人は2割を占める」ぐらいでした。漢民族が広西や雲貴高原地方に大量移住したのは、やっと18世紀前半の「改土帰流政策が本格的にすすめられたからです。その結果、19世紀から20世紀初めの広西省では、漢民族が全人口の6割までに至ったのです。

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