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石原莞爾平和思想研究会コミュの満洲を支配した民族

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「満洲」という呼称は現在の中国では全く使われていません。旧満洲国はすでに消滅し、中国の一部として世界的に承認されているのだからこれは当然のことでしょう。しかし、中国政府が主張するように、元々中国の領土かというと全然違うのです。

なぜなら中国四千年の歴史と言いますが、その半分以上を支配したのは、漢民族ではなく異民族であったからです。満洲の地域を支配した国家は次のとおりです。高句麗(BC37〜西暦668年)。渤海(西暦713〜926年)。金(西暦1115年〜1134年)。元(モンゴル)(西暦1234〜1367年)。清(西暦1616〜1912年)です。

これらは、いずれも北方民族の建設した国家であって、南方民族である漢民族とは言語学的にも民族的にも全く異なるのです。矢野仁一博士は「満洲近代史」の中で次のように述べています。満洲とシナとの関係は、清朝以前においては敵国関係であった。高句麗の時代もそうだし、渤海や金の時もまたそうであった。

清国になって初めてシナとの敵国関係が止むようになった。これは満洲がシナの領土となったからではなくて、シナが清朝の領土となり、シナ領土の人民を満洲人と差別視しないという態度をとったからである。かつて蒙古族の元朝の天子も、蒙古の天子に止まらずシナの地を征服したが、シナ人を蒙古人と同じようには待遇しなかった。

あくまでも征服者として被征服者に臨み、蒙古人とシナ人を差別視した。北方民族であった清朝が中国大陸を征服して大半が南方に移住し、清朝は民族発生の地を守るために封禁政策をとって漢民族の満洲移住を禁止していた。

17〜18世紀頃まで清朝はロシア領の沿海州も完全に支配していたが、ロシアのシベリア征服と共に漸次清朝側の国境線は西方に後退せざるを得なかった。1860年ロシアが沿海州と黒竜江北岸地帯を占領したのちに、清はロシアに対抗する必要上、初めて漢民族の満洲移住が認められ、奨励されるようになった。

1900年頃は満洲の人口は1200百万にすぎなかった。十九世紀の国際法「万国公法」からすれば満洲の地は清王朝の祖先の地であっても「無主の地」と見なされていたのである。このように見てくると、満洲二千年の歴史は満洲族やモンゴル族が中国を征服、支配したことを物語っており、漢民族が満州を完全に支配したことはないのです。

コメント(2)

史実ではずっと支配していたと思ってしまった。地球儀?世界地図?あまり役にたちませんね、、、、、
>>[1] 史実の解明などできないし、将来に向けての歴史的教訓も得られない。中国人で歴史をよく知る人などは、日中戦争の被害者は中国よりむしろ日本側であるといいます。そもそもの最大の原因は中国の百年内戦で、20世紀前半の中国では、軍閥内戦・国民党内の権力闘争、国民党と共産党の内戦が延々と繰り広げられ中国の内戦に米・英・ソが介入し、日本もその渦に巻き込まれたというのが本質なのです。

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