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石原莞爾平和思想研究会コミュの 陸軍を去る石原莞爾

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石原莞爾の同志が全面的に駆逐していく中で、幸運なことに、石原莞爾は憲兵の監視を受けるだけで済みました。1941年の石原莞爾自身の振る舞いを考えると、懲戒処分を受けなかったのは信じられないことだと思われます。東亜連盟運動に対する圧力が強まるにつれて、石原莞爾は東條英機への中傷という公然たる反撃に出ました。口を開けば、日本軍首脳人、中でも東条と梅津に対する怒りを撒き散らしました。

石原莞爾の一連の個人攻撃は、京都帝国大学における東亜問題に関する講演で頂点に達しました。そのなかで、石原莞爾は京都府知事を含む聴衆に向って、「敵は、中国人ではない。むしろ日本人である。自己の野心と功名とにかりたてられて、武器をとって立った東条英機と梅津美治郎こそ、日本の敵である。平和をかきみだした点から見ると、世界の敵でもある。彼らをとらえて銃殺すべきである」と述べたのです。

石原莞爾はこの発言を公然と、まだ現役軍人の時に行ったのです。石原莞爾が陸軍大臣や関東軍司令官を脅したのと同じで銃殺刑に処せられなかったことは、驚くべきことでしょう。処罰が行われなかったのは、石原莞爾信者の暴力的復讐がありうるのではないかと、政府が神経質になっていたからでしょう。戦後、石原莞爾は「東条は臆病者で、私を逮捕するだけの勇気ももたなかった。東条のような男や、その一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本陥没の一因でもあった」と語っています。

石原莞爾の公然たる批判に憤った東条英機は、憲兵司令官に確りと監視するよう命じました。陸軍から石原莞爾が嫌われているという話しが関西地区の政界、財界の知人に伝わり、石原莞爾はまもなく追放されるので近づくなという警告がなされました。1941年3月1日に、断が下りました。大幅な人事異動の一環として、石原莞爾の名前が予備役リストに載せられたのです。

1936年に相沢が永田を殺害したような暴力的報復に過敏になって、東条英機は辞令が出た日以後、憲兵隊に石原莞爾を徹底的に監視するよう命じたのだが、それは不必要でした。というのは、石原莞爾は静かに去って行き、強制的引退に対して、同志や同僚に送った退役挨拶のなかで、意見を述べただけであったからです。そこでは石原莞爾は東条英機との衝突には全く言及しなかったのだが、その代わりに、過去の様々な問題、例えば、国防国家の重要性、昭和維新の意味、陸軍の政治介入に対する批判、東亜連盟の使命、最終戦争の準備など、彼が考え抜いたことすべてを話しました。

最後に、石原莞爾は歴史研究、とりわけフリードリッヒの戦争とナポレオンの戦争の研究に戻れるのを楽しみにしていること、最終戦総論をさらに精巧に練り上げるのに興味を持っていることを語っています。石原莞爾には退役を喜ぶ多くの理由があったのだが、第十六師団の指導を諦めなければならなかったことには、後悔にさいなまれたようでした。というのは、ちょうどその時、同師団が石原莞爾の昔活躍した満州国の辺境である北満に、守備勤務のため移転することになっていたからです。

前年春、それを予想して、石原莞爾は師団将兵に対する一連の「訓示」を熱心に書き上げていました。石原莞爾の指示は広範な問題にわたっていたが、何よりもそれは、日本だけでなく東亜連盟防衛の最前線に勤務するという展望から、日本人の誇りのようなものでした。だが、石原莞爾にはアジア国境の防衛で積極的役割を果たせませんでした。残りの日々に石原莞爾が書いたものは、運動の指導者、また真の信仰者としての著作となって、もっとイデオロギー的で、予言的となりました。石原莞爾は四つの主な関心事、つまり、最終戦争、国防国家、昭和維新、東亜連盟に集中したのです。

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