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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾平和思想研究会の歴史

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日本は日露戦争以来、非白人国家として常に名誉ある独立を求め続けたが、遂にアメリカ、イギリス、ソ連の連合軍との戦いに敗れて国土を取られ、憲法を変えられ、民族の精神基盤である歴史教育までもが禁止されて今日に至っています。この事と日本の戦争目的は関係ないと否定する声もあります。

それでも世界史的にみれば後世大きな評価を受けることは間違いないでしょう。まさに日本は戦争に負けても目的は成就したのです。日本が欧米列強を敵にまわして太平洋海域で戦ったことによって、イギリス、オランダは海外植民地のほとんどを失い、アジア・アフリカ諸国は、長年の白人支配からすべて開放され、独立する結果となりました。

第二次世界大戦以前は、白人達には絶対に歯向かえないとあきらめていた有色諸民族の目の前で、日本軍は尊大な白人達の軍隊に白旗をあげさせたのです。そして、支配者であった白人等が不在の間に、現地人に自治を教え、独立を促したのです。しかしそうした大局的な見方ができる日本の政治家や国民がどれだけ居るであろうか。

国会で首相は、何故自分が靖国神社を参拝するかの理由を明確に説明出来ないでいます。その為には今の若者達に偏らない世界史と日本史、とくに国の歴史を根本から学び直し、しっかりした歴史哲学、政治哲学を持つことが必要だと思います。その学び直しの糸口が、石原莞爾平和思想研究会が主張する石原莞爾論を伝える歴史です。

満州についての近現代史の記述は、石原莞爾の「満蒙領有計画」をもとに、関東軍が暴走したとして述べられることが一般的であるが、それは違った歴史認識で石原莞爾は満州の荒野に「五族協和」の旗印のもと、人類平和の理想モデルを建設するとの悲願を立てた壮大な考えがあったのです。

ホームページ掲載の西山の砂浜の、松林の一盛りの土の中に身の回りの世話をした私の父と眠る石原莞爾のその一生は、まさに悲劇以外の何ものでもないかもしれないのだが、豊かさとは何か、文明とは何か、進歩とは何か、平和とは何か、平等とは何か、人間とは何かという、根源的な問い、グローバルな観点から今日に至っているということ自体が、石原莞爾の簡明直裁なる哲学の不滅の証明でしかありません。

崇高なる悲劇の生涯に、石原莞爾の真価が国境を超えた多くの人々の心の中に生き続けているのです。石原莞爾としては、満州の地に五族協和、王道楽土を実現したいと思っていましたが、満州国という国家形態は、殆どが日本の官僚たちが牛耳る体制にでき上がっていったのです。石原莞爾に言わせれば、それは五族協和を裏切るものでした。

石原莞爾のイメージとは全く違っていたので軍部にたてつく訳です。五族協和の満州国を造ろうと努力しているところ、中央の命令により石原莞爾は日本へ帰ることになるのです。石原莞爾は全面的に日本人が支配する満州国を成立させる事には反対でした。だが、満州国の建国と同時に、日本の官僚たちが満州に入ってきました。

また、南満州鉄道が支配力を強め、膨大な利権をめぐって、日本から経済人や野心家が集まってきたのです。日本で食い詰めた浪人も、旧共産主義で、日本にいられないような人も満州に入りました。そして日本人はそれを食い散らしていくのです。

その中には、石原莞爾のようなアジア解放の夢を持った大陸浪人と称される人々も多々いましたが、日本の国家利権の人々に支配され、現地の民衆や中国人たちからも反感を持たれ、ソ連も警戒をかためるような、国際的孤立と危機を招く満州国が出来上がっていくのです。これが石原莞爾の理想からかけ離れて行くという形になるのです。

東条英機が考える満州国と、石原莞爾の崇高な夢として考えていた満州国というものとは全く違うものでした。石原莞爾は、五族協和、王道楽土をつくるために、協和会や東亜連盟(現在、石原莞爾平和思想研究会)という組織をつくろうと考えています。

これは民間団体です。軍人がつくる組織ではなく、五つの民族が一緒になった連合体をつくろうというものでした。石原莞爾は終戦後でも、この東亜連盟に側近の私の父や同志などと力を注いで何とか維持しようと努力しています。

ルーズベルトが意図的に自国民を対日開戦に誘導していったということは、否定しがたい事実です。その根底には人種差別からくる偏見と敵意がありました。米軍による日本人捕虜の虐殺、原子爆弾の日本投下、東京裁判などはその証です。

しかし、ダグラス・マッカーサーは、東京裁判終結の約2年後にアメリカ上院の軍事・外交合同委員という公式の場で、「日本が戦争に突入したのは、主として自衛のためにやらざるを得なかった」と結論づけたのです。

結局、アメリカと日本は、スターリンによりさらに秘密結社の力によって国民同士は決して望まなかった血みどろの戦争を無理矢理戦わされたのです。イギリスも、そうした共産ロシアの世界戦略にはまって日本を敵に回した結果、世界中の植民地をすべて失い2流国に転落したのです。

しかしそれでも将来においても、日米関係の安定はアジアにとっても最重要であり、日米両国は協力して助け合っていかねばならないでしょう。そのためにも両国民は、こうした過去の不幸な歴史を覆い隠すことなく、確りと検証しあっていかねばならないと思うのです。なぜなら、いまだに日米は、こうした謀略の真実を国民に発表していません。

ソ連が崩壊し、ロシアがかつての力を失った今、ソ連の謀略の片棒を担いだ中国共産党はいまだに健在であるばかりか、膨大な軍事予算をつぎ込んでアジア全体の脅威となっています。そのため、日本に対する情報戦はかつて無いほど厳しさを増しているのです。

アメリカに対しては、中国は、過去と同じ様にアメリカ人の日本に対する恨みをかきたて、日米の反目と離反を煽っています。これはかつて尾崎秀美らが加担した日米開戦への工作活動と寸分違うことはないでしょう。我々はいまだに戦前に描かれたシナリオ通りに動かされているのです。賢明な日米両国民は過ちを再び繰り返してはいけません。

東京裁判を命じた「敵の将軍」ダグラス・マッカーサーは、実際に日本にいてアメリカが騙されていたことに気が付いています。後に日本の大陸進出を肯定した発言をしています。戦後の朝鮮半島で南下してくるソ連に中国共産主義の巨大な脅威を目のあたりにして、日本の大陸進出が、平和を守るための自衛の戦いだったことを理解するに至っているのです。

マッカーサーは対中国強硬姿勢に転じてトルーマン大統領から最高司令官を解任されました。理論・情緒・政治的配慮から歴史を語らず大切なのは、歴史の「現実」を直視することなのです。

広島、長崎に原爆をおとし、東京、神戸を始めとする大都市に焼夷弾による爆撃をかけ、女性、子供、老人といった非戦闘員を何十万人と焼き殺した、トルーマンにこそA級戦犯とう事を言う事を石原莞爾は東京裁判で「私に証言させろ」とマッカーサーへ言ったそうです。

我々の石原莞爾平和思想研究会の前身である「東亜聯盟」の書籍はマッカーサーによって発禁に追い込まれました。石原莞爾が書き記した日記を長い間、私の父が隠し持っており後世に残すべきと判断して世に出した。

幸い、同志には作家や教授・政治家・書店・出版社、流通業者などの方々いるので多くの資料が集まっています。価値のある史料として、恒久平和の礎を築くためにも多くの方と研究を重ねていきたいと思っています。

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