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石原莞爾平和思想研究会コミュのシンガポール要塞化の予言

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石原莞爾は、よく予言しました。しかも、確信をもって予言しました。「あなたの予言は当りますね」「いや、わたしは、予言はしない。予言とは、全然わからない先のことを指すので、わたしのは、判りきったことを言うだけだ。 予言というようなものじゃない」と、言いましたが、実は、そのわかり切ったことが、一般には分っていなかったのです。

それがため、石原莞爾のいうように予言の形となったとも見ることができるのです。漢口から帰ると、石原莞爾は、すぐに、ドイツ駐在を命ぜられました。大正十一年九月、シンガポールに上陸すると同信の人々にむかえられました。石原莞爾は、この時、「イギリスは近き将来に、シンガポールを要塞化するだろう」と、言いました。

まだ、そんなことは、何のそぶりにも感じられなかった頃なので、誰しもびっくりしましたが、まずイギリス人が驚きました。「石原という日本の青年将校は何者だ」一大尉の一言が問題となりました。イギリス軍当局は極秘のうちに、要塞化の研究をすすめていたのですが、どうして、その計画がもれたのだろうと不審であったらしい。

石原莞爾といえども、猿飛佐助や、霧隠才蔵のような忍術つかいじゃありません。相手の秘密を盗み出して、予言したわけではなく、当時の国際情勢にメスをいれると、自然、そうなると言うのです。

従って、石原莞爾自身にとっては、何のハッタリもなく、また何の不思議もなく、定理によって、幾何の答を出すようなものだったのですが、世間では、必ずしも、そうは受取らなかったのです。石原莞爾は言う。1815年、ナポレオンが没落してから後のイギリスは、ざっと一世紀のあいだ、平穏無事でした。

ユニオン・ジャックの旗は、絶対に強力な海軍を擁して、西大西洋にひるがえっていました。ヨーロッパから植民地にしてゆくには、どうしても、このイギリスの玄関口を通らなくてはならない。こうなると、世界における植民地は、何の事はない、イギリスの支配下にあるのと同じでした。

大陸では、フランス・ドイツ・オーストリアをして互に相争わせ、双方、疲れたところを見て、ぎゅっと首根っこを抑えるというのが、イギリス伝来の手です。歴史の流れは、うごく。十九世紀の末になると、ロシアが急に頭をもちあげ、海洋によらずして、印度や極東に押し出し、イギリスの権益をおかすことになったのです。

イギリスは狼狽して、とりあえず日本を番犬に使いました。ドイツはドイツで、ベルリンから、インドやエジプトを衝こうとする底意をほのめかしたので、イギリスも高枕で眠ってはいられなくなったのです。第一次欧州大戦では、伝統政策によって、ドイツとフランスを戦わせ、アメリカを渦中へひきずりこみ、ついにドイツをノックアウトした。

とはいうものの、イギリスは、もはや昔のままではなく、老大国として、半身不髄の状態に陥ってしまいました。カナダはイギリスの領有であっても、実はアメリカの支配下にあるという方が妥当かもしれません。それに、従来、イギリスの番犬だった日本が、急に強大となり、のみならず、革命後のソ連邦が、極東に手をのばしてきました。

レーニンは、世界革命の着手は、極東にあるといっていましたが、事ここに至っては、シンガポールを固めねばならなくなりました。今なら、この説明は、さもあろうと思うでしょうが、その頃シンガポールにきて、いきなり要塞化を予言したことは、イギリス自身はもちろん、世界の驚異となったのです。

日本の軍部では、石原莞爾がまた夢魔におそわれているぐらいにしか考えていなかったのですが、いち早く、この噂は、ベルリンに伝わったのです。日本から、えらい予言者がくると、待ちかまえていると、1923年(大正12年) 3月31日アントワープを出た列車が、朝8時、ベルリン駅頭に着いた。数万の群衆が、この予言者を迎えました。

日本着物を身につけた石原莞爾が、そこへと現われました。まず出迎えの日本人に向って合掌しました。やがて、「南無妙法蓮華経」高らかにベルリンにおける第一声を唱えました。 恐らくベルリン駅頭をお題目の声でうずめたのは、これが初めてだったでしょう。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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