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法隆寺の四季コミュの夢殿サロンのお話から

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今回は、前回に引き続いて、江戸回向院で行われた元禄の出開帳と天保の出開帳について。
元禄の時は、大成功を収め、天保の時は赤字になり失敗だったこと。
元禄の時は、出開帳の前にきっちり根回しができてて、また徳川綱吉の母、桂昌院の特別な計らいもあり、成功したこと。

江戸時代に書かれた「伽藍諸堂巡拝記」の一部分の読み下し。
特に、聖霊院について詳しく説明していただきました。

お会式のお供物についても説明。
お供物の中で一番作るのが面倒な(ケイピン)というものは、平成になって復元したものだそうです。
伝統料理研究家の奥村さんの復元されました。
(ケイピン)は粉でギョウザの皮のようなものを作り、クルミを混ぜいれた味噌をぬったものだそうです。
昔と違って、最近ではお供物にカビがはえるそうです(気候的なもの)。

聖霊院の本尊聖徳太子像、山背大兄王、殖栗王、卒末呂王、恵慈法師像の並び方についての説明。
明治37年頃までは、聖徳太子像を囲むように(四天王のように)、他の4像が中央の厨子の中でおかれてたこと。

コメント(37)

 貴重なお話有難う御座います。このような話は、法隆寺iセンターで聞けるのですか?とても興味のあるお話で、今度聞いてみたいです。
 
とっても楽しいお話が聞けますよ。
法隆寺前管長、現長老さんの高田良信さん講義の「夢殿サロン」という会です。
毎月第三水曜日の午後1時半から、iセンター2階であります。1時間半くらいなのですが、時によっては話に熱が入り、時間オーバーになったりします。
毎回、珍しいお宝も見せてくださいます。
以前は、多羅葉の葉に書かれたお経(ターラと呼ばれていました)とか、古地図とか・・・
リアルタイムの法隆寺を感じることができますよ。
次回は、4月19日です。会費は500円です。
 羨ましいです。高田良信さんの著作は多数持っていまして、大好きな方です。機会があれば是非参加したいです。しかし遠いです・・・・
高田良信長老さんは、いろいろなことを惜しみなく教えてくれるので、夢殿サロンが楽しみです。
遠いけど、機会があれば、是非是非参加してくださいね〜
法隆寺近くの(花風林)というお店にもよくご夫婦で来られますよ。
シフォンケーキがおいしいお店です。
2006年4月19日の夢殿サロンのお話

「明治維新における大変革の実情」

幕末期に、平田篤胤の国学が流行し、仏法を信じることが浅ましいことのような世の中になり、法隆寺でも僧をやめていくものがでてきた。
明治の廃仏毀釈で、興福寺では、僧が春日大社の神官になり、僧がいなくなって、寺が壊されてしまった。
五重塔は、売りに出されたが、買い手がつかなくて現在まで、残されることになりました。
興福寺・一乗院の建物が、唐招提寺の鑑真御影堂として残っています。
大乗院のあったところは、現在奈良ホテルになっています。

斑鳩でもいくつものお寺がなくなりました。
その頃、法隆寺では、定朝(じょうちょう)という僧が、お寺の改革をしました。
明治2年、法隆寺では、管廟破却事件がありました。
お寺を壊すのではなく、反対に天満宮をつぶしてしまったそうです。

定朝は、これからの寺のあり方について、僧たちを地蔵院に徴集し、相談しました。
当時、僧の身分は、細かく分かれていましたが、(学侶、堂方、承仕、中綱、専当、仕丁、堂童子、定司)定朝は、身分を均一化し、一院一人とした。
身分の高い僧は、いくつもの院をかけもちで所有してたので。
お寺がなくなってしまったというのは、個人的に衝撃的です。

時代の流れというものかもしれないですけど、どのような事があっても、日本古来の建築物は絶対の後世に残して欲しいです。
minさんへ、
明治の廃仏毀釈の嵐って、すごいものだったみたいですね〜
今からは想像できませんよね。
日本では、家屋については、新しいものがよくて、古いものがどんどん壊されていく、そんな風潮がありますね。
友人のマイクさんの家は、以前は築80年の日本家屋で、今は新しい建物ですが、前の家の方がお気に入りだったそうです。
分かります。
なんだか、昔ながらの日本家屋って落ち着きますよね。
温泉に行った際泊まる所は、少し古いとこを選んでしまうんですよ。
昔行った宮城県の温湯温泉はやはり古い所で、チョット飛び跳ねたり、激しく動いただけで地震のように建物が揺れました^^;

今となっては、昔ながらのお寺や神社は残したり、移築したりしてますけど、明治の頃はそうではなかったんですね。
明治の廃仏毀釈や、廃城令などもう酷い政策ばかりです。
あまりにも西洋かぶれになったためでしょうね。
日本家屋は日本人のふるさとです。
本当に落ち着きますよね。
私も旅行が好きであちこち行きますが、
旅館メインです。やっぱり畳は落ち着きますし、
なにか風情を感じます。
木造建築は大事にしたいです。
とうぜんのともちゃん、minさんへ、

「廃城令」で思い出したのですが、奈良の壺阪山から高取城址に登ったときに、明治の頃に高取城が壊されたと書かれた案内板を見ました。
今は、石垣のみが残っていますが、とても残念な気持ちになりました。

イギリスでは、「古い家」という表現はほめ言葉だそうです。
実際に築80年の家は、歩くと、板の間がなったりしてましたが、廊下続きで離れに行くことができ、古い日本家屋をエンジョイされてようです。

また友人のベルナールさん(フランス在住の絵描きさん、フランス人)も古いものが大好きです。
以前、近所の古い家屋をショベルカーが壊してしまったあとに、瓦やそこの家の人が残していったジャポニカ百科事典などがすてられたままになっていました。
「とてもいい本なのに・・・」と言って、百科事典を私の車まで運んでくれました。
彼にしたら、古いりっぱな本を捨てる行為が理解できなかったのです。
「日本の常識」は「世界の常識」ではないことに気づき、大切なものを見失わないようにしたいと思います。

写真は、Bernard Frigaraさん。
Bernard Frigara さんの写真と絵&ポスターです。
2006年10月18日の夢殿サロンのお話 (法隆寺高田長老さん)

★10月14日東京代官山iスタジオ夢殿サロンの話
第13代中井清正さん(大工さん)の話がありました。
★献納宝物のこと(明治9年〜11年にかけての話)、昭和21年に献納宝物の一部(3点)が法隆寺に返されたこと。
★夢殿(救世観音)の新厨子についての説明
★献納宝物の返還について

昭和21年法隆寺献納宝物展が、奈良帝国博物館(現国立博物館)で開催されました。

昭和21年10月27日、帝国博物館総長安倍能成氏と同館鑑査官石田茂作氏が法隆寺に来られました。
法隆寺は、「このたび、五重塔を大修理することになったので、献納した五重塔古代露盤を返却してもらえないでしょうか?」とお願いした。

お二人の尽力で、この露盤(一口)と四天王御剣(七曜銅剣二振)、太子尊像御沓(一足)も還付されることになりました。
同時に返却をお願いしていた、(聖徳太子御絵伝 五双)、(舎利殿の絵)はそのまま献納宝物として残りました。

還付された古代露盤は、屋根の勾配が急なので結局のところ、使うことが出来ませんでした。
五重塔の屋根の勾配は、五層目が江戸時代に修理されて急になっています。
これを、「飛鳥乙女に高島田」(五層目が高島田です)というそうです。

今、法隆寺iセンターの中に夢殿の模型(実物の十分の一のサイズで作られた)が展示されています。
観光ボランティアの方が作られたもので、この夢殿の屋根の勾配は、奈良時代の建物と同じに作られています。

余談になりますが、薬師寺(西塔)は奈良時代の塔の勾配を復元しています。東塔よりも勾配が緩やかです。
れんげ さま、レポートありがとうございます。10月の代官山iスタジオ夢殿サロンに参加できなかったので、その時のお話を知ることができ嬉く思っています。返却されなかった二点は手放したくなかったのでしょうかね。

夢殿の模型はガイドの際に拝見させて頂き、あの大きさと緻密さに驚いたことを覚えています。まさに、お風呂におけないサイズでした。唐招提寺の金堂も修理で勾配が急になったようですね。
夢殿の模型は、カバーが取り外されて、全体がみられるようになっています。
センターの1階で展示されています。

夢殿サロンでは、
夢殿・救世観音の新厨子(昭和14、15年作成)や八部衆のお面の説明もありました。
「救世観音もりっぱだけど、あの厨子もたいそうりっぱな品なので、注目してほしい」とのお話でした。
どんなにりっぱなものなのかは、また後日に書きます〜
夢殿救世観音像新厨子について

現在の厨子は昭和15年製作の黒漆八角厨子で、古材が使用されています。
製作にあたり、正木直彦氏(堺市出身、郡山中学の校長、東京美術学校校長、法隆寺復興の中心人物)が尽力されました。

設計は奈良県技師、岸熊吉。

製作は、槍鉋師・魚住為楽(本名安太郎、桶屋さん。)
槍鉋の使い方は、桶屋さんに技術が残されていました。
大工さんの世界では、初代中井正清(16世紀)から台ガンナにかわり、ヤリガンナが途絶えていった。

漆・・松田権六(人間国宝)

金具・・清水亀蔵(彫刻家、東京美術学校の金工教授)(当時は金塊の入手が困難な時代だったということです)

当時の一流のメンバーで製作されたのですが、完成の2週間前に、正木直彦氏がお亡くなりになりました。

古材で作られているので、ひびなどの破損がなく、表面は槍鉋の削り目がでているので、ほこりが積たまるとのことです。
11月15日の夢殿サロンのお話(法隆寺長老高田良信さん)

★メインのテーマは・・・玉虫厨子の由来について

★お話に入る前に、勝鬘会(しょうまんえ)についてお話されました。

この行事は、昔は11月15日に行われていたそうです。
鎌倉時代に興福寺(理趣院)から法隆寺に来られた僧上範円が始めました。
当初は夢殿の前で、(東大寺・興福寺・薬師寺・法隆寺)の僧達が集まり行っていましたが、手狭になり、「救世観音」の模像を作り、大講堂でこの行事を行おうとしました。
この模像を作った人が完成後、即刻亡くなったという経緯があり、このことから、救世観音が秘仏となったのではないか?
とのことです。
この勝鬘会は、600年くらい前に途絶えたそうです。
3日間をかけての行事で、記録がないので、復元は不可能とのこと。

玉虫厨子については、長くなるので、何回かに分けて書きます。
【玉虫の厨子】夢殿サロンの資料から

★国宝・木造・漆塗・彩色

総高 226.6cm
幅  136.7cm
奥行 119.1cm
飛鳥時代(7世紀)

★壁画のテーマ

●(宮殿部)ぐでんぶ

*内面   押出千仏像(4468体)
*正面扉  天部像   二体
*両側面扉 菩薩像  四体
*背面扉  霊鷲山図 一面

●(須弥山部)

*正面壁  仏供養図  一面
(上方の宮殿の本尊に対する礼拝供養を意図としたものらしい)

*右側面壁・捨身飼虎図 一面(金光明経・捨身品)
(サッタ太子が竹林で七匹の仔をつれた餓死寸前の母虎に出会う。太子は崖をのぼり、上衣を脱いで傍らの木に掛け、虚空に身をおどらせ、みずからの身体を虎に喰わせたという物語を描いてる)

*左側面壁・施身聞偈図 一面(涅槃経・聖行品)
(ヒマラヤで修行中の雪山童子(せっせんどうじ)は羅刹が唱える「諸行無常・是生滅法」の二句の偈を聞き、自分の命と引き換えに「生滅滅巳・寂滅為楽」の後の二句を教えてほしいと頼む。(しょぎょうむじょう・ぜしょうめっぽう・しょうめつめっち・じゃくめついらく)
やがて教えられた童子は、断崖に上って、後世のために、それを岩に書きつけてから身を投げる。
ところが、その羅刹は帝釈天の化身であったために、たちまちにしてもとの姿にもどり、落下する童子の身体を受けとめたという物語を描いている)

*背面壁 須弥山図 一面(海竜王経・請仏品)
(海竜王は霊鷲山における釈迦の説法を聞いて、歓喜して釈迦を竜宮に請じ、諸竜のために説法を乞うたという物語を描いている)
夢殿サロン、高田良信長老、2007年1月17日

今回の夢殿サロンの内容は、「岡倉天心が提唱した法隆寺復興への道」ですが、
「時代によって史実が変えられる」という内容のことも話されました。
特に、最近では、法隆寺と言えば、「以和為貴」
(わをもってとうとしとなす)と結び付けられますが、この言葉は、第二次世界大戦以降の平和憲法になって、盛んに言われる言葉だそうです。
太子の「十七条の憲法」の中にこの言葉がありますが、戦前の日本では、あまり注目されてなかったとのことです。

聖徳太子が法隆寺建立した目的は、当時の日本にとっては異教の仏教を政治の根本として考えていこうとして、建立されたのですから、平和な社会を作る目的で建立したのではなかったということです。

「岡倉天心が提唱した法隆寺復興の道」

岡倉天心が、「法隆寺会」の設立をめざして、東京美術院で(上宮太子祭典記念展覧会)(明治44年6月11日)を開催したのが、きっかけになりました。

が、「聖徳太子1300年御忌奉賛会小史」(大正10年)の記録の中の法隆寺会の成立についてのところに、岡倉天心の名前が書かれていません。
時代によって、史実が変えられるということです。
著者の都合のよいように変えられるので、直ちに書物の内容を鵜呑みにしては、真実を知りえないとのことでした。

とても貴重な、法隆寺に小学生のときから居られる高田さんの話に重みを感じた1日でした。
2007年4月18日の夢殿サロンの話から

4月、5月は、「法隆寺から流出した宝物を追跡して」という内容です。
内容は、後日に書きますね。

写真は、今日見せていただいた五重塔の塑像です。
個人所有のもので、(幕末頃の製作のもの)とのことです。
顔は羅漢さんで、服装はチマチョゴリ風です。
高さは20cm弱で、結構重たいものです。
「法隆寺から流出した宝物を追跡して」

1)『上宮聖徳法王帝説』・・・文政12年・1829年頃流出したらしい。

法王帝説とは、聖徳太子の系譜や事蹟などを記した最古の太子伝。
本文は短く、行数にして130行前後。
五部に分けられる。

第1部・・・法王すなわち聖徳太子の系譜
第2部・・・太子の事蹟と活動
第3部・・・太子の事蹟に関連した他の古い資料の引用
第4部・・・事蹟と関係資料の再録や補録
第5部・・・太子に関係のある欽明、用明、崇峻、推古の五代の天皇と太子の略歴


法王帝説流出のことがわかる文献として

●「以文会筆記抄」(京都の文人の座談記録・文政12年・1829)

●「寺門興減論」
(千早定朝が語った言葉を筆記したもの、明治の廃仏き釈の時に僧が次々と辞めていったが、最後まで寺に残りがんばったのが定朝)
(定朝は目が悪かったので、口述筆記してもらった)

●「古経堂詩文しょう巻2・法隆寺金堂壁画仏像記」から、
嘉永5年秋に法隆寺を訪れ金堂の壁画を寺僧の祐参に模写させた浄土宗の徹定が案内をした寺僧の千純より入手した可能性が高い。

『上宮聖徳法王帝説』は知恩院を経て、現在は奈良国立博物館所蔵。

2)『良訓補忘集』・・・享保年間に寺僧の良訓が法隆寺に関係する古記録や金石文・文書などを抄録したもの。
天保13年頃に、黒川春村の手に入ったと推察される。
現在は、日本大学図書館に所蔵。
夢殿サロンで、高田良信長老は、法隆寺について丁寧に説明してくださいます。
5月16日(水)は、

2)宝物献納への決意への道
3)宝物の盗難
4)欧米の人たちの来訪
5)法隆寺宝物の流出の噂
6)法隆寺什宝の譲与を決意して

の内容です。
内容については、後日書きます。

ところで、高田さんは毎回、いろいろな品物を見せてくださいます。

今回は、昔中国で購入した煉瓦と軒丸瓦。
煉瓦には、不思議な動物の模様、軒丸瓦には、玄武の模様(亀と蛇)が描かれています。
写真は軒丸瓦。
高田さんから(夢殿サロン、2007.5.16)、

金堂の釈迦三尊像の左脇侍(薬王菩薩)、右脇侍(薬上菩薩)についての説明です。

現在の法隆寺では、むかって左側にある薬上菩薩は、右に比べると光っています。
このことについて・・・

今回の夢殿サロンの追加資料として、明治5年の横山松三郎氏の写真コピーを頂きました。
明治5年の写真でも薬上菩薩は光っています。

昭和43年8月1日発行のアサヒグラフ増刊(p81)に、(光ってる菩薩)の記事掲載されています。
ある方が20代のころ、型をとるために石膏をあて、そのために表面のサビがとれてきれいになったと書かれています。

が、実は、明治の初めから光っていたということでした。
何故?って真相は不明ですが・・・

今以って謎の多い、謎だらけのお寺です。

その他の写真として、

「明治5年の松並木参道」
(2人が歩いてる様子が写っていますが、この当時の写真は、何分間もそのような状態で静止していなければならないそうです)
松の幹が細い。周辺には何もなくて原っぱのよう。

「飛鳥時代の法輪寺」
焼失前の三重塔で、二層目と三層目の間に支柱があります。

「金堂聖観音(百済観音のこと)」
当時は、金堂の中に沢山の仏像などがおかれていました。
横に伝橘夫人(たちばなぶにん)の厨子があり、前扉がなく、中央があいてるのれんのような布が前面にかけられています。

百済観音も、現在の姿からは想像できない姿で映っています。
新納忠之介氏によって修復される前の百済観音です。
2007年6月20日(水)の夢殿サロンのお話は

タイトルは・・・「法隆寺・世界文化遺産の真相」

「法隆寺地域が世界遺産に登録されたときの事情について」でした。(1993年12月)

高田長老さんのお話は、今回も絶好調!
当時のことを丁寧に細かくお話してくださるので、とてもよくわかります。

写真は、当日見せていただいた法隆寺の古材(ほんまもんです)。
巷には、偽物も沢山出回ってるそうです。


「法隆寺・世界文化遺産の真相」

1芽ユネスコの
世界文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」とは、

芽その目的は、
過去の文明手掛かりを示す遺跡や、脅威にさらされている動植物が生息する自然を保護し、次の世代のために残すことであります。

芽この条約は1972年の17回ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)総会で採択され、現在(1993年)134ヶ国が締結しています。
(日本は1992年に同条約の締結国に加盟しています)

2『世界遺産となるための基準』

伊藤延男のレジュメより抜粋

世界遺産になるためには、6つの基準のうち1つ以上に該当し、且つ4種のオーセンシティに叶うものでなければならないとされている。
また、保護のための法整備ができていることも大切な条件でした。

クローバー【6つの基準】
1.芸術的傑作
2.建築などに大影響
3.文化的伝統の証拠
4.儀式、景観の見本
5.伝統的集落
6.出来事、伝統、思想、信仰などに関係

クローバー【4つのオーセンシティ(真正性、信頼性=確かさ)】
1.材料
2.工作技量
3.デザイン
4.環境



3『法隆寺が世界文化遺産となった理由』

伊藤延男のレジュメより抜粋

芽法隆寺地域の建造物群は基準の

(1)芸術的傑作
(2)建築物に大影響
(4)儀式、景観の見本
(6)出来事、伝統、思想、信仰など

に該当するとされました。

芽オーセンシティ(真正性+信頼性=確かさ)にも合格しました。(イコモスの人、調査団に見てもらった)
クローバー特に難関だった材料・・・修理で取り外した古材をよく保存していたことが評価された。
(収蔵庫内で古材に番号をふって保存していた)

はじめ、法隆寺の建築物は、伊勢神宮のように、20年毎に建て替えられているのではないかと思われたが、そうではないことがわかってもらえた。
古材保存についての秘話・・・昭和13年に寺がトラック34、35台分の古材を売却していた(35000円で)事実があり、これが大問題となり、以後は保存するようになってた。

クローバー文化財保護法に加え、古都法や風致地区の規制もあり、法的保護は万全と判断された。
法隆寺は国の史蹟になっていたが、法起寺はなっておらず、世界遺産に決まった1993年12月10日午前0時30分(日本時間)の直前の11月30日に、急遽、史蹟認定されました。
風致地区指定には、地元の反対もあったとのことです。


世界文化遺産に登録された年、
五重塔に吹流しをし、金堂内陣と夢殿をライトアップしました。
秘仏の救世観音が開扉されました。
まるで、極楽浄土の世界を見てるようだったとのお話でした。
12月15日に薪能を行い、年末のNHKの「ゆく年くる年」で法隆寺がでました。
大勢の人が法隆寺に来られたそうです。

8月22日の夢殿サロンで、

今日8月22日は、高田長老さんが、東大寺から法隆寺の小僧さんとして来られた日です。
今日で、55回目の8月22日を法隆寺で迎えることになったと、とても感慨深く話しておられました。

東大寺から、自転車に2人乗りして(東大寺の元長老さんと)、近鉄奈良駅まで行き、そこからバスで法隆寺まで来られるつもりでした。
あいにく、1時間に1本のバスが出たところでした。
それで、そのまま自転車で法隆寺まで来たそうです。

筒井の辺りで、次のバスに追い抜かれたことなど、その当時のことをいろいろ話してくださいました。
法隆寺では遊び相手がおらず、寂しかったこと、夜は特に真っ暗でこわかったことなど。

今日のサロンの内容は、法隆寺の七不思議の説明。
(七不思議という話がいつの頃から生まれたのか不明であること。)
(七不思議と言っても、いろいろあって、どれが七不思議かと限定しにくい。)

内容はまた、近いうちに書きますね。
7月18日、8月22日の夢殿サロンの講義内容です。

7月18日は、
法隆寺南側の並松にある石碑、法隆寺松並木の南端にある石碑、西院大垣、などの説明

8月22日は、
南大門、法隆寺の七不思議、上土門、唐門などの説明

高田長老さんの講義に合わせて、新しく写真アルバムを作りました。
まだ、説明文は書いていませんが、少しずつ手を加えていこうと思います。

http://orangestudio.homeip.net/gallery/public/user/album/list.php?userid=28115&page=1
8月22日のお話から・・・「法隆寺の七不思議」について

七不思議の話は、いつの頃から言われ始めたのか不明なのですが、明治の頃からでは・・・ということです。

法隆寺には、江戸時代末(天保7年、1836、法隆寺御開帳した年)に、8名の公式案内人がいました。
・・・『斑鳩古寺便覧』「伽藍案内八口」

また、明治には寺と契約した案内グループもいました。
面白い案内をするために、そういう七不思議というエピソードが考えられたのかも、わかりません。
七不思議(七不思議と言っても、いろいろあって、七つ以上あります)は、実際にそうであるものと、そうでないものがあります。

クローバー因みに、明治27年の拝観料は、

金堂25銭
聖霊院25銭
綱封蔵(3つの蔵)50銭
南無仏舎利20銭

1南大門の前にある鯛石・・・お魚がここまでしか泳いでこれなかったという話

法隆寺は、南にある大和川から標高差で40m高いところにあり、たとえ大和川が氾濫しても水が境内に入ることはなかった、聖徳太子が地理的によい場所を撰んだということに結びつく。

法隆寺は川の氾濫による洪水で浸水したことはありませんでしたが、裏にある池の決壊によって浸水したことがあります。
(わかっているところでは・・・15世紀、明治17年、明治23年、昭和43年)

2法隆寺には3つの伏蔵があり、法隆寺が危機に瀕したときにこの中にあるものをだして助けるという話(鎌倉時代からの言い伝え)。

3つの伏蔵があります。
1つ目は、金堂北西隅にあります。おわんを伏せたような形で、周囲に注連縄がかけられています。
気をつけてよくみると、見えます。
2つ目は、大湯屋前の竹囲いの下にあります。竹囲いの下が、5月〜7月の間(年代不明)、防災工事のために掘られ、発掘されたことがありました。その時に自然石が発見されました。1.2m×2.4m(厚みは薄い)。
石の下までは発掘されませんでしたが、水が石の下に吸い込まれていったので、穴があいてるかも・・・ということです。
3つ目は、経蔵の中にあります。ここは一般の人は入れないので、見られません。


3法隆寺ではくもの巣がはらない→法隆寺は聖地というイメージからで、実際はくもの巣がいっぱいあります。

4五重塔の鎌が動く話→鎌は動きません。鎌の記録は鎌倉時代からあるがいつの頃から鎌が設置されてたのかは不明。
鎌は4本で、2本の草刈鎌と2本の稲刈り鎌。
皇室献納宝物の一つに奈良時代の鎌(刃40cm、柄40cm)があり、それと同時期の鎌と思われる。

最初の塔(若草伽藍の塔)に落雷があったので、雷避けのために配置されたのか?

5舎利から太子が見えるという話
舎利殿に、(南無仏舎利)(室町南北朝の頃、水晶製)があります。
舎利供養の時、後ろにある厨子の中にある(聖徳太子像)が、前に置かれた舎利容器を通して見えるからではないか?

6夢殿の礼盤の湿り具合で豊作かどうか占うという話。旧暦の1月、現在もこの行事が行われています。
礼盤をあげて、干します。
礼盤の下に井戸があるのでは?

7不明門と不閉門がある。この門は東院夢殿にあります。不明門は、昭和60年、落慶法要のときにあけています。
ずっと開けなかったり、閉めなかったというわけではありません。
訂正箇所があります。

2伏蔵の場所で、

一つ目の金堂の中は、

「北東隅」です。
「国宝法隆寺金堂展の秘話を語る」、高田良信長老2008.6.18(水)

朝日新聞創刊130周年記念「国宝法隆寺展」
平成20年6月14日(土)−7月21日(月・祝)、
休館日月曜、7月21日は開館)
奈良国立博物館新館にて
主催・・・奈良国立博物館、法隆寺、朝日新聞社
後援・・・文化庁、奈良県、NHK奈良放送局
協賛・・・近鉄、JR東海、竹中工務店、日本写真印刷
協力・・・日本香堂、仏教美術協会

昨日の夢殿サロンは実に面白い講義でしたマル秘

今回の展覧会に出展される四天王像、天蓋、壁画にまつわる話でしたが、壁画のところを、説明します。

1まず、今回の展覧会が開催されるに至った経緯。

昭和24年1月26日未明に発生した金堂内部からの失火により、壁画や内部を焼損しました。
化学処理された内部は、収蔵庫に移動されることになりましたが、壁画を出口から出すことが出来ず、基壇の一部を斜交いに切り取り、出しました。
その後、基壇は修復されましたが、近年になり、また傷みがはげしくなり、前期壇を全面的に修理することになり、
金堂内部の仏像壁画を搬出しなければならなくなり、その間に展覧会をしましょう!ということに決まりました。
工期は今年12月まで。

2壁画の模写のこと

シャープダイヤル現存する最古の模写(江戸時代幕末の頃)
徹定(てつじょう)という人が侍者祐参(ゆうさん)に模写をさせたもの。
壁画をうつしたもので、今でいう模写とは少しことなっています。

シャープダイヤル本格的な模写
博物局が桜井香雲に模写させたもの(明治17年から約500日間)
最初の現状模写といえる、とても刻銘に模写されてすばらしいもの。
現在は、東博にある(山中羅漢図も模写されている)。

シャープダイヤル法隆寺壁画を描いたのは、曇徴(高句麗の)という伝承がうまれる。
(『法隆寺伽藍諸堂巡拝記』明治28年・1895・鳥居武平著)
しかし、壁画が完成したのは670年、最初の法隆寺火災以後で、711年の現法隆寺完成直前になります。
曇徴は7世紀はじめころに登場している人物なので、ずれが生じてこの伝承はまちがっていることになります。

3壁画焼損、昭和26年(1951)1月26日未明

4金堂再建棟上、昭和28年81953)11月1日棟上

5金堂再建完成、昭和29年(1954)11月3日(文化の日)

6金堂壁画再現事業開始、昭和42年(1967)、朝日新聞社の協力により、金堂壁画再現の発願がされ、1年半後に完成。

アート壁画再現方法については、次回に書きます。





今回出展の壁画は昭和42年から模写をされた壁画12面です。
法隆寺長老・高田良信師による夢殿サロンの講義

毎月第3水曜日に開講されておりましたが、

しばらく休講とのことです。
ぴかぴか(新しい)夢殿サロン再開のお知らせ

法隆寺前管長・現長老の高田良信師による、法隆寺学講座「夢殿サロン」が今月17日(水)から、再開されることになりましたので、お知らせします。

再開される講座は、高田良信師とともに、
森郁夫氏(帝塚山大学名誉教授、歴史考古学専攻)、
菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所 所長)
の3人の交替制で行われます。

法隆寺学については、様々な講義が各地で開催されておりますが、長老自らからサロン形式で行われる講義は、唯一ここだけの、有意義な講義です。


1チューリップ帝塚山大学名誉教授 森郁夫氏
    日時:4月17日(水)午後1時半から3時
    演題:若草伽藍の瓦の見られる外来要素〜聖徳太子の外交政策〜
   場所:法隆寺iセンター 2階多目的ホール
    参加費:500円

クローバー森郁夫氏 プロフィール
     奈良県国立文化財研究所平城宮発掘調査考古学第二調査室長
     京都国立博物館学芸課考古室長
     帝塚山大学名誉教授・同客員教授・同考古学研究所所長
     和歌山県文化財センター理事長(現職)
     専攻は歴史考古学

     著書:[日本古代寺院造営の研究」「日本古代寺院の造営諸問題」
        「日本の古代瓦」「日韓の瓦」(共著)「東大寺の瓦」等
     


2〈次回以降予告〉

チューリップ 奈良県立橿原考古学研究所 所長 菅谷文則氏
    日時:5月15日(水) 午後1時半〜
    演題:法隆寺壁画と敦煌壁画の共通点ーともに礼拝対象であったー
    場所:法隆寺iセンター2階多目的ホール
    参加費:500円

チューリップ 法隆寺長老 高田良信師
    日時:6月19日(水)午後1時半〜
    演題:世界文化遺産の秘話ー登録20年を迎えてー
    場所:法隆寺iセンター2階多目的ホール
    参加費:500円
チューリップ 夢殿サロンのお知らせ

講師
法隆寺長老 高田良信師

斑鳩町法隆寺iセンター2階多目的ホールで開催されます。
参加費 無料

クローバー]5月28日(水) 午後 1時半~
[綱封蔵とその変遷]

クローバー6月18日(水) 午後 1時半~
[食堂*細殿とその周辺]

お知らせ

5月28日の夢殿サロンは中止になりました。
よろしくお願いいたします。
さくらんぼお知らせ

6月18日(水) 開催の夢殿サロンの講義内容の変更

5月開催の夢殿サロンが中止になりましたので、6月の内容は5月の講義内容となります。

参加費は無料、事前申し込みは要りません。

法隆寺高田長老によるサロンですので、とても興味深い法隆寺秘話などを聞くことができます。

お近くの方は是非お越しくださいませ。

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