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柳美里コミュの小高の事業

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https://motion-gallery.net/projects/lamamaodaka-theater
1950年、朝鮮戦争の最中、当時5歳の母は母親と3人の兄妹たちと漁船に乗り、着の身着のままで「難民」として日本に辿り着きました(興味のある方は、母方のルーツを辿った長編小説『8月の果て』を読んでみてください)。

1958年、母は家族と共に福島県南会津郡只見町に移り住み、只見中学校に入学しました。

高校は福島県立南会津高等学校只見校舎に進学しています。

母が中・高校時代を只見で過ごしている頃、奥只見ダム、田子倉ダムが完成しました(只見ダムは1989年に完成)。

原発事故前、福島県の浜通りは「原発銀座」と呼ばれていましたが、只見は「ダム銀座」と呼ばれていました。福島は、日本の高度経済成長を支えるために首都圏に電気を送っていたのです。
母は、結婚して神奈川に転居をした後も、同窓会があるたびに、わたしや弟妹を只見に連れて行き、ダムに沈んだ田子倉集落の話を聞かせてくれました。わたしは田子倉ダムを訪れるたびに、湖底に沈んだ家や小学校や寺や、田畑や川や丘や、桜や柿や梅の木々や、先祖代々の墓などを想像していました。

母はよく、「ここには悲しみが眠っているから、あんまり近づかない方がいい。悲しみに引っ張られるから」と言っていました。



2011年4月21日、福島第一原発から半径20キロ圏内の地域が「警戒区域」に指定されるというニュースを、当時暮らしていた神奈川県鎌倉市の自宅テレビで見ました。

その時、母から繰り返し聞かされた田子倉集落と「警戒区域」が重なったのです。

ダムに沈んだ場所はもう行くことは出来ないけれど、今ならば、原発周辺地域は訪れることが出来る――。

母の故郷である福島で原発事故が起き、この先何十年も封鎖される場所ができてしまう。

もしかしたら、わたしが生きているうちは訪れることはできないかもしれない。

町が閉ざされる前に行かなければ、この目で見なければ、と思ったのです。

あの時は、こんなに早く避難指示が解除されるとは想像だにしませんでしたが――。



東日本大震災の直後から、被災した地域に「臨時災害放送局」が立ち上がりました。

コメント(12)

臨時災害放送局は、全国に数多くあるコミュニティー放送局とは異なり、大規模な災害が起きた際に二次被害を軽減することと、地域における非常用伝達手段を確保することを目的としています。災害時に情報弱者となる視覚障害者への情報提供も大きな役割です。

名前の通り「臨時」のラジオ放送局なので、通常は数ヶ月で閉局してしまうのですが、南相馬市に開局した「南相馬ひばりエフエム」は2018年4月まで続きました。

わたしは「ふたりとひとり」という毎週金曜日放送の30分番組を担当し、地元住民600人の方のお話を収録しました。ラジオが縁で出演者と親しくなり、農家のご自宅、クリーニング屋さんの2階、仮設住宅などに泊まらせいただき、彼らも鎌倉の我が家に泊まりがけで遊びに来たりしました。そういう濃密な付き合いを重ねる中で、2015年3月、鎌倉から南相馬市原町区に転居をしました。

彼らと暮らしを共にしたい。

暮らしの中に苦しみや悲しみがある。楽しみや喜びもある。

共に暮らすということから始めたい、と思ったんです。

「柳さん、大きな決断をしましたね、思い切りましたね」と何人もの人に言われました。

でも、わたしは、思いを切ったわけではなくて、思い付いたんです。

思い付きの行動というのは非難の対象になりがちですが、わたしにとっては、思いが付くというのは、とても大きな出来事です。

思いが付く先にあるのは、強い思いです。

わたしの思いと、誰かの思いが、付いた。

それは、一つの事件であり、奇跡とも言えるかもしれない出来事です。

「ふたりとひとり」というラジオ番組で600人の方のお話を聴くうちに、相双地区で暮らす方々との縁が一つ一つ繋がっていきました。

その縁に手繰り寄せられるように移住したので、決断をした、というジャンプみたいな感じはなかった。段差がなかったんです。

人と場所と出来事に、少しずつ引っ張られて、今に至るのです。
2015年4月から、「ふたりとひとり」にご出演いただいた福島県立小高工業高校・電気科の井戸川義英先生からの依頼を受ける形で、小高工業高校の仮設校舎で「自己表現・文章表現」の講義を受け持つようになりました。講義は全23回行いました。



小高区の避難指示は、2016年7月12日に解除されました。

翌2017年4月に、小高工業高校と小高商業高校と統合して「小高産業技術高校」が誕生しました。小高産業技術高校は、初めて「警戒区域」内に戻る高校となったのです。

わたしは、小高区の避難指示解除に向けての住民説明会に参加していました。

住民説明会では、スーパーマ―ケットやホームセンターや個人商店や病院や介護施設などが戻ってこない現状を行政主導でなんとかしてほしい、という要望が多かった。

事業者側は住民の帰還を待ち、住民側は事業者が戻るのを待っている、という現状は時を経るごとに重くなり、動かすことが難しくなっているように感じました。

小さな針穴でもいいから、現状に穴を開けたい――。

帰還住民が少なく、再開する店舗が少なければ、生徒たちが下校する通学路は真っ暗です。

通学路はお店が必要です。

自分にできるお店とはなんだろう?と、わたしは考え詰めるようになりました。





わたしは、16歳で高校を退学処分になり、劇団「東京キッドブラザース」で舞台に立ち、18歳で劇団「青春五月党」を旗揚げし、書くことを仕事に選んでから書くこと以外の仕事をしたことがありません。アルバイトすらしたことがないのです。

そんなわたしが唯一できるとしたら、本屋なんじゃないか。

本屋ならば、1時間に1本、時間帯によっては2時間に1本しかない常磐線で通学する生徒たちの第2の駅舎になるのではないか。

事件や事故に巻き込まれた時に駆け込むこともできる。

本屋だったら立ち読みできるし、お金を使わずに長居することができる。

避難指示が解除された小高の駅通りに明かりを一つ灯すことができる。

2017年7月、小高駅から徒歩3分の場所にある中古物件を購入し、転居しました。

2018年4月、自宅一階を改装し、本屋「フルハウス」をオープンしました。

2020年3月、フルハウス前面部にカフェスペースを増築、厨房を飲食店用に改装し、ブックカフェ「フルハウス」としてリニューアルオープンしました。

第1回クラウドファンディング(2018年2月28日、MotionGallery)



コレクター:573人
現在までに集まった金額:8,902,850円
目的:本屋「フルハウス」に並べる書籍の初期投資
https://motion-gallery.net/projects/fullhouse-odak...

第2回クラウドファンディング(2019年6月28日、MotionGallery)



コレクター:1447人
現在までに集まった金額:18,815,000円
目的:ブックカフェとしてオープンするための設備投資費
https://motion-gallery.net/projects/fullhouse-book...
フルハウスでは、いまベストセラーになっている本はほとんど置いていません。

売れている、という理由では選書をしていないのです。

スキャンダルを売りにしている週刊誌は1誌も扱っていません。

自己啓発本やハウツー本もありません。

もちろん、嫌韓・反中本も置きません。

これは良い本だ、繰り返し読むに値する本だ、と思った本のみを発注し、返本をしていません。
わたしは、本を愛し、本の力を信じています。

「棚に並んだ本が語りかけてくるみたいだ」とおっしゃってくださる常連のお客さまもいます。
みなさん、一冊一冊ていねいに手に取り、長い時間をかけて選び、購入した本を大事そうに抱えてお帰りになります。

絵本を目当てに、フルハウスに来てくださるお客さまも増えてきました。

自分のため、同居する子どもや孫のため、もしくは遠く離れて暮らす家族を想って、絵本を手にとってくださいます。

人が誰かに本を読んでもらうのは、生まれてから6,7年の短い間だけです。

大人になり、親になると、我が子に絵本を読み聞かせるようになり、孫ができたら絵本を送ってやりたいと思うようになるのです。

絵本を手に取ると、肉親との親密な記憶が蘇ります。布団の中のぬくもり、耳元で聞こえる甘やかな声、まぶたが重くなってくる眠気――、絵本は、体ごと安心だった感覚を呼び覚ましてくれます。

「フルハウス」は、2018年4月にオープンしてから、土曜イベントとして、小説家や詩人などの友人を招いて自作朗読会や、地元住民と共に作品を音読し感想を語り合う「輪読会」などを開いてきました。



しかし、2020年4月に新型コロナウイルスの感染拡大により緊急事態宣言が出されたことによって客足が途絶え、休業していた時期もありました。

「三密を避ける」「ソーシャルディスタンス」「不要不急の外出をしない」などは、感染対策として正しいのですが、ただでさえ「密」のない南相馬で、緊急事態宣言で人通りがない小高でも防災放送から「3密を避けましょう」とスピーカーから流れていました。市内の災害公営住宅では、ラジオ体操や茶話会が中止になったり、社会福祉協議会の個別訪問も出来なくなりました。

地震、津波、原発事故によって人との繋がりを寸断された原発周辺地域に最も不足しているのは「密」です。そして、帰還者、避難者が最も必要としているのは「親密な繋がり」なのです。





本屋「フルハウス」がオープンする前年の2017年12月24日、自宅裏の倉庫「La MaMa ODAKA」のプレオープンイベントとして「cascade 破水」を開きました。

「cascade(カスケード)」は「滝のように落ちる」という意味の言葉です。上の方から華やかに美しく降ってくる「何か」に浸かり、その「何か」に暖かく包まれるというニュアンスも含まれています。

また、その「何か」が力強く、優しく流れる、というアクションを表す動詞でもあります。

その「何か」とは、何か?

わたしは、「劇場」を完成させてから「劇」を始めるのではなく、「劇」が生まれた場所に「劇場」を建てたいと思ったのです。
何かを起こす時に、罪や穢れや災厄などの不浄を心身や土地から取り除くためのお祓いを行うのが常ですが、わたしは取り除くのではなく、新しいエネルギーを吹き込みたい。

「cascade」は、化学用語でもあります。

「一度の操作によって3つ以上の反応が次々と起こる反応様式を、カスケード型反応と呼ぶ。小滝の水が階段状に連なって流れ落ちるがごとく、次々と反応が進行していく様子からcascadeと形容される」

この家は、原発事故で「警戒区域」に指定される前は、水道や井戸の工事をするポンプ店で、La MaMa ODAKAのスペースは作業場でした。
この家の元の持ち主は、代々水に関わるお仕事をされていたのです。

2017年12月24日、この聖なる日に破水して流れる水によって、思い出、繋がり、愛情、光、音楽、声、舞踏、匂い、味――、様々な「何か」に浸かり、包まれる奇蹟の一夜を、みなさんと共に過ごしたい、と思いました。



「悲しみの器」としてのLa MaMa ODAKA
わたしは、演劇から表現の世界に入りました。



東由多加率いるミュージカル劇団「東京キッドブラザース」で俳優をやり、主宰する劇団「青春五月党」を立ち上げ、24歳までに10本の戯曲を上演しました。

それから小説に軸足を移し、四半世紀ものあいだ演劇から遠ざかっていました。

2018年7月に、わたしは南相馬で「青春五月党」を復活させました。

復活後、「静物画」「町の形見」「ある晴れた日に」という3つの作品を「La MaMa ODAKA」で上演しました。3作品とも2011年3月11日と、その後の時間がテーマになっているのですが、『静物画』は「福島県立ふたば未来学園高校」演劇部の高校生たちと創り、『町の形見』は南相馬で生まれ育った70代の住民の方々を俳優として起用しました。

https://greenz.jp/2018/10/17/seisyun_gogatsuto/

記憶の中の風景や、大切なものを失った悲しみを最も伝えられるのは、演劇だ、とわたしは考えています。

劇場の中で、わたしたちは「今」という時間を共に生きます。

そんなことは当たり前だ、全ての人間がそれぞれの場所で、あるいは同じ場所で「今」という時間を生きているじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、劇場では舞台に向かって一斉に視界を開き、舞台上の俳優を目で追い、その声に耳を澄ますことによって、観客ひとりひとりの「今」という時間が縒り合わされます。

劇的な強度が高い芝居では、縒り合わされた時間はしっかりと「今」に繋留し、終演後もなかなか過去に流れ去りません。

自分の体験に照らしても、30年以上前に観たある芝居の中の俳優の表情や声が、今さっき見聞きした場面であるかのように蘇ることがあります。

そして、それは、自分が実人生で経験した重要な場面よりも鮮やかな記憶なのです。
演劇は、他者との対話であり、自分自身を探す旅でもあるのです。

劇場は、どんな逆境にある場所でも、新たな世界(別世界や異世界)を立ち上げ、開いて見せることが出来る場所です。

演劇は、原発事故によって離散を余儀なくされ、代々守り継がれてきた祭を存続出来なくなってしまった地域で、祭の役割を担うことが出来ます。
祭とは、何か?

地域住民が厄災に遭わないよう安寧を祈念し、豊作や豊漁を祈念し、収穫の時期には感謝を捧げる。お盆には、死者をあの世から呼び寄せ、束の間交流して慰め、再びあの世に送り出す。
祭を執り行うために毎年集うことによって、同じ家、同じ地域に暮らす人と人との結び付きは強くなります。

真冬に褌や白装束で、あるいは神輿などを担いで川や海に入ったり、湯や泥を掛け合ったりする禊としての祭では、若者たちは過酷な儀式を体験することによって浄化され聖化されて、共同体の中に降り立ちます。

しかし、地域の祭は共同体が軸となるから、その共同体が過疎化などによって衰退すれば、存続の見通しは厳しくなります。

演劇という祭は、古代ギリシアではディオニソス神に捧げる年に一度の国家的行事だったし、近代ヨーロッパでも宗教劇や野外劇の上演場所として選ばれるのは、古城や大聖堂など地域で最も大事にされている神聖な場所でした。

日本における猿楽や田楽なども神仏への祈願奉納の演劇祭だったといえます。

演劇ならば、共同体から阻害された人、共同体の外部の人も含めて、祭の磁場を創り出すことが出来ます。

良い芝居を観て、劇場の外に出ると、目の前の見慣れた風景が新鮮に見えます。
広がりと奥行きを与えられたように感じるのです。

現状の「La MaMa ODAKA」は、ただの仮設倉庫です。



建物の強度や避難口、防風対策などが不十分なので、興行場法により演劇公演や朗読イベントや映画上映は月に4日までしか認められません。

使用日数以外にも、夏場は暑さ、冬場は寒さが厳しく、また防音機能が皆無なので、上演中にヘリコプターや選挙カーや防災無線の音が容赦なく入ってくるし、中の音や声もそのまま外に漏れて近隣の方にご迷惑をおかけする、などという問題もあります。

お客様の安全を確保するために、地震などの防災対策、コロナなどの感染症対策も講じなければなりません。

「La MaMa ODAKA」を、興行場法に適合した小劇場兼ミニシアターとして全面改装をするための資金を募るのが、今回のクラウドファンディングの目標です。

【柳美里プロフィール】

柳美里 (作家)



1968年茨城県土浦市生まれ。福島県南相馬市小高区在住。

高校中退後、ミュージカル劇団「東京キッドブラザース」に入団。18歳で劇団「青春五月党」を旗揚げ。1993年『魚の祭』で岸田國土戯曲賞を最年少で受賞。

1996年『フルハウス』で野間文芸新人賞・泉鏡花文学賞、1997年『家族シネマ』で芥川賞を受賞。

2012年3月、臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」の番組「ふたりとひとり」を担当。放送は296回を数え、南相馬に暮らすのべ600人の方からお話を聴く。
2014年3月、小説『JR上野駅公園口』を発表。
2015年4月、神奈川県鎌倉市から南相馬市原町区に転居。
2015年6月、小高工業高校で国語の講義を担当。
2016年6月、小説『ねこのおうち』を発表。原町区にある「夜の森公園」が小説内に登場。
2017年4月、小高産業技術高校の校歌作詞を担当。
2017年7月、南相馬市原町区から小高区へ転居。
2017年12月、東北6県の霊場を巡る『春の消息』を発表。
2017年12月、LaMaMa ODAKAプレオープンイベント「cascade 破水」
2018年4月、本屋「フルハウス」開店
2018年9月、青春五月党復活公演vol.1「静物画」
2018年10月、青春五月党復活公演vol.2「町の形見」
2020年3月、ブックカフェ「フルハウス」リニューアルオープン
2020年2月、エッセイ集『南相馬メドレー』を発表。
2020年4月、NHKラジオ深夜便で「南相馬便り」を担当。
2020年11月、『JR上野駅公園口』で全米図書賞を受賞。

小劇場兼ミニシアター「La MaMa ODAKA」から伸びる三本の柱
「La MaMa ODAKA」を小劇場兼ミニシアターへと全面改修した先には、3つの種が蒔かれます。

小丸21つ目の種は、「La MaMa ODAKA」が被災地の子どもたちの受け入れ先となること

小丸22つ目の種は、「常磐線舞台芸術祭」を開催し、「La MaMa ODAKA」を芸術祭の拠点にすること

小丸23つ目の種は、「La MaMa ODAKA」をホームグラウンドとして活動する「青春五月党」の作品を、首都圏や関西などの日本の都市部のみならず外国で上演し、日本の演劇界を牽引する人材を南相馬で育成すること。
1.「La MaMa ODAKA」を被災地の子どもたちの受け入れ先に



現在、ブックカフェ「フルハウス」には正社員が2人います。

関根颯姫さんは、双葉郡富岡町出身の二十歳。津波で家が全壊しています。

白岩奏人くんは、双葉郡大熊町出身の二十歳。帰還困難区域の自宅から避難して、十年が過ぎました。

「さっちゃん」と「かなとくん」は、『静物画』に俳優として出演した「ふたば未来学園高校」演劇部の生徒です。

二人とも、大きな傷を負っているからこそ、他者の痛みに敏感になれる、とわたしは思います。
旧「警戒区域」にあるブックカフェ「フルハウス」は、魂の避難所としての役割を担っています。

苦しんでいる人、悲しんでいる人、傷ついている人には、手当が必要です。

接触が、親密さが必要なのです。

フルハウスで提供する食べ物、飲み物は一つ一つの素材を吟味し、さっちゃんとかなとくんが手間暇を惜しまずにていねいに作っています。

お客様の前に美味しいものを出して、おいしさを口の中や体の奥深くで味わっていただく。
おいしい、というレスポンスをいただく。

これ以上の親密さはない、と思うのです。
2.「La MaMa ODAKA」を「常磐線舞台芸術祭」の拠点に



わたしたちは線を引く。

わたしとあなた、⾃国と他国、北と南、東と⻄。

いつの時代も、どの⼟地でも、わたしたちは線を引き、⾃分たちが何者であるかを知ろうとしてきた。

そしてまた、わたしたちを「圏内/圏外」というように切り分け、「来てはいけない⼟地」を作りもした。

けれど、内と外をつなぐのも線だ。

道によって点と点は線となりヒトとモノはめぐる。

共感や情という線は、その姿形は⾒えなくとも、わたしとあなたを隔てていたもう1本の線を溶かし、あるいは超え、くぐり抜けてゆく。

そのことを、わたしたちは⼤きな災害を通じて感じ取った。

線は、わたしとあなたをつなぐだろうか。

それとも、分かち断つだろうか。

わたしとあなたの線。

演者と観客の線。

⽣者と死者の線。

圏内と圏外の線。

線は今、どこにあるのか。

どこに引かれていたのか。

考え、そして問いたい。

だから、わたしたちは、芸術によって⼿繰り寄せる。

その線を。

3.「La MaMa ODAKA」をホームグラウンドにする「青春五月党」を、南相馬から羽ばたかせる



2022年9月から半年間、青春五月党を主宰する柳美里はアメリカのシカゴに滞在し、シカゴ大学のプロジェクトで演劇を創ります。

https://neubauercollegium.uchicago.edu/faculty/re_staging_the_lakeview_japanese_american_neighborhood/

日本の演劇界の中心は、関東や関西の都市部にあります。

その中心を目指して、演劇を志す地方の子どもたちは郷里を離れますが、「青春五月党」は「La MaMa ODAKA」を、演劇のもう一つの中心地にすることを目指します。

福島区県内外から演劇関係者や演劇ファンを集めることによって、相双地区の賑わい創出に貢献できれば、地元の飲食店や宿泊施設、常磐線などの利用者を増やすことが出来ます。

将来演劇の道に進みたいと思っている子どもたち、演劇に携わりたいと思っている地域住民に、「La MaMa ODAKA」でプロの指導を受ける機会を提供出来ます。
このプロジェクトについて

福島県南相馬市小高区に暮らしながら、ブックカフェ「フルハウス」を営む柳美里が手がける演劇アトリエ「La MaMa ODAKA」を、小劇場兼ミニシアターとして全面改修するためのクラウドファンディングプロジェクトです。

「悲しみの器」を作る


人は、ひとりひとり魂を抱えています。

2011年3月11日に起こった東日本大震災、その後の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故により、福島県の相双(相馬・双葉)地区に避難指示が出されました。

10年が過ぎた今でも、避難を続けられている方、また帰還をされた方の多くが、魂の「孤絶」に直面しています。

人は、時に孤独を求めたりもします。

若者の場合は、両親からの保護や干渉の外に出たくて、孤独を求めて旅に出たり、独り暮らしをしたり、海外に留学したりする。

孤独の場合は、戻る場所や、出迎える人が背後に控えています。

しかし「孤絶」には、その場所やその人がいない。

「孤絶」の絶は、絶縁の絶、絶望の絶です。

人と人との繋がりが絶たれた状態、居場所から引き抜かれた状態が「孤絶」です。

人の魂は、他者の魂との交流を絶たれると窒息してしまいます。

福島県は、被災三県(岩手県、宮城県、福島県)の中で震災関連死が突出して多く、その中には自死を選ぶ方もいます。

たった独りで、がらんとした街、がらんとした家に帰還して、悲しみや淋しさや虚しさを抱えて1日1日を過ごしているうちに、いつの間にか、生き死にの瀬戸際である「孤絶」に追い詰められてしまうーー。

原発事故前、南相馬市小高区の人口は1万2842人でした。

2021年10月末現在、小高区の居住人口は3814人と3割しか帰還していません。

ある日、日課である小高川の堤防を散歩している時、古いベンチに白髪の女性が座っていました。

「柳さんですよね」と声をかけられて、わたしは立ち止まりました。

「わたしは原発事故で小高に住まんにぐなって避難したんです。身内は、わたしと兄だけで、二人とも独身です。兄は避難中に亡くなって、わたし独りになってしまいました。小高のごどが懐かしくて、気ぃついたら車ん乗って小高に向かってたんです。朝から小高川を行ったり来たりしていたら、あまだ思い出して、あんまし懐かしくて、悲しくて、ほろほろ泣けてきたんです」

悲しみを自分独りで抱えていると、悲しみの水位が上がって、人は溺れてしまいます。

誰かに話し、誰かに聴いてもらうことで、悲しみを流すことが必要なのです。

ブックカフェ「フルハウス」は「魂の避難所」として役割を担っていいます。

そして、魂と魂が交わる「悲しみの器」としての劇場・ミニシアターが、この地には必要だと、わたしは考えています。
実は、わたしは福島に縁があります。

わたしの母は韓国慶尚南道の密陽(ミリャン)という田舎町で生まれました。


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おわりに


「被災地から遠く離れたところに住んで、それでも被災地を気にかけている方たちは、どうやって福島と関わっていけばよいのか」と尋ねられることがあります。

わたしは、「知る」ということだと思います。

インターネット、SNSが普及している今の世の中、見ること、聞くことというのは遠く離れていてもできるますが、その場所に行かなければできないこともある。

嗅ぐこと、
触れること、
味わうこと。

現代社会では、五感の内の視覚と聴覚の2つが偏重されていますが、人との交流で大切なのは、近くに行かなければ出来ない嗅覚、触覚、味覚の3つなのではないでしょうか。

本心を言えば、みなさんには、とにかく一度、常磐線に乗って浜通りに来てください。

そして、浜通りの風を肌で感じてください。

海の匂い、あちこちで咲いている花の匂いを嗅いでください。

浜通り各地には、それぞれ美味しいものがたくさんあるから、味わってください。

――とお願いしたいところなんですが、新型コロナウイルスの感染がなかなか収束しない現状では、なかなかそのお願いを口にすることができません。

2020年3月14日に常磐線が9年ぶりに全線開通した時が、他県のみなさんに「来てください」と言う絶好のタイミングだったんですが、その翌月に日本全国に緊急事態宣言が発出されてしまった。

けれども、思うことと、想うことはできます。

わたしは「他人事ではない」という言葉が好きなんですが、福島で起きている悲しいこと、苦しいことを他人事ではないと自分の身に引き受けることはできる。

福島に思いを寄せていただきたい、と願っています。

小高区は歴史と文化の厚みがある町です。

縄文時代前から晩期にかけて長期間に渡って形成された浦尻貝塚があり、日本三大磨崖仏の一つである大悲山の石仏群があり、戦後日本を代表する小説家・埴谷雄高、島尾敏雄の父祖の地でもあります。

終戦後に日本国憲法の草案を書いた鈴木安蔵も輩出しました。

いきなり全体を知るということは難しいと思います。

でも、まず、接点を持つ。

接点を持ちさえすれば、そこから知ることができる可能性が広がっていきます。

福島と遠く離れた地域にも日常があります。

原発の周辺地域にも日常がある。

わたしが暮らしている小高ですと、常磐線小高駅の海側は、津波で流された地域です。

わたしは車の免許を持っていないので、常磐線に乗って隣町の原町や浪江まで買い物に行くんですが、小高駅のプラットホームに立つと、津波の跡地が広がっているのが見える。

小高には小高産業技術高校があり、約500人の生徒たちが毎日常磐線に乗って通学しています。

彼らもまた、その風景の中で日常生活を営んでいる。

3月11日は過ぎていない。

3月11日は、日常の中に在るんです。

この2年、新型コロナウイルスのパンデミックによって、日本全国の人々の日常がひび割れ、壊れてしまった。

みなさん、会いたい人に会えない、やりたいことができないという経験をしている。

そんな今だからこそ、原発事故によって、会いたい人に会えない、帰りたい場所に帰れなくなってしまった福島県の相双地区の人の痛苦に、痛苦によってつながることができるのではないでしょうか。

日常というのは、決して特別な時間ではありません。

日常を営む自宅というのは、特別な空間ではありません。

けれども、人生の大半は、特別な時間ではない、ありふれた日常で成り立っているわけですよね。

その日常の中で、美味しいコーヒーを飲める喫茶店や、良い本と出会える本屋や、お気に入りの散歩道を見つける。

小高川沿いの桜並木を散歩していると、みんな北へ帰っていったのに帰らなかった鴨の親子がいるなとか、今日の阿武隈山系は青く見えてきれいだな、青い山脈って言葉は比喩ではないんだなとか、見慣れた風景の中でも新しく発見することはあるんです。

もうすぐ桜のつぼみがふくらんできて春が近づくと、一見枯れ木に見える桜の木の枝がなんとなく柔らかく見えるんですね。

同じ道を歩いても、川や山や空や雲や木や草や花や鳥や虫の美しさに足を止められることがある。

ありふれた時間の中に、キラッキラッときらめく瞬間みたいなものがあり、それを幸せと呼ぶのではないか、とわたしは思います。
コレクターのみなさまへの特典・リターン


柳美里からのお礼のメール
柳美里から御礼のメッセージを送らせていただきます。

柳美里からの直筆メッセージ
柳美里から直筆メッセージを送らせていただきます。

2022年7月上演予定の演目「コロモガエ」の舞台稽古の観覧へご招待(オフラインのみ)
柳美里が手がける演劇「コロモガエ」(2022年7月上演予定)の舞台稽古へご招待します。こちらは福島県現地でのオフラインのみのイベントです。

柳美里のオンライントークイベント「『悲しみの器』La MaMa ODAKA全面改修へのいのり(仮)」へご招待(オンラインのみ)
La MaMa ODAKA全面改修を祈って、柳美里からその思いをうかがうオンラインのトークイベントへご招待します。トークイベントは1〜2月の開催を予定しています。こちらはオンラインのみのイベントです。開催日以降に支援をいただいた方には、追ってアーカイブ映像(のリンク)を紹介予定です。

柳美里が手がけるブックカフェ「フルハウス」開店4周年記念ブックコンサートへご招待(オンライン)
柳美里が手がけたブックカフェ「フルハウス」が2022年4月に4周年を迎えるにあたって、4周年記念のブックコンサートを開催します。そのブックコンサートへご招待します。ブックコンサートは、柳美里の著作の朗読やトークなどを予定しております。こちらはオンライン参加のみのご招待です。

柳美里が手がけるブックカフェ「フルハウス」開店4周年記念ブックコンサートへご招待(オフライン)
柳美里が手がけたブックカフェ「フルハウス」が2022年4月に4周年を迎えるにあたって、4周年記念のブックコンサートを開催します。そのブックコンサートへご招待します。ブックコンサートは、柳美里の著作の朗読やトークなどを予定しております。こちらは福島県現地でのオフライン参加のみのご招待です。

すべての特典・リターン
上記すべての特典・リターンを提供いたします(ブックコンサートはオンラインないしオフラインをコレクター様側でご選択いただければと思います)。

*上記オフラインイベントの現地までの交通費は自己負担となります。
プロジェクトの想定スケジュールと費用内訳
2021年

11月29日 着工

12月1日 屋根・外壁・土間コンクリート他撤去搬出
12月9日 掘削・砕石・捨枠
12月12日 基礎配筋・型枠・アンカーセット
12月18日 基礎コンクリート打設
12月25日 鉄骨工事

2022年
1月5日 差筋アンカー・止め枠・配筋
1月10日 土間・立上コンクリート打設・カラクリート仕上
1月17日 塗装工事
1月19日 屋根葺き
1月24日 建具枠取付
1月26日 外装仕上

2月7日 内装部足場解体
2月14日 客席用平台他復旧
2月28日 竣工引渡し


全体金額 26,400,000円
 建築改修工事費 15,552,783円
 電気設備改修工事費 2,750,000円
 機械設備改修工事費 2,800,000円

 共通仮設費 211,000円
 現場管理費 639,000円
 一般管理費 2,047,217円

 消費税 2,400,000円

想定されるリスクとチャレンジ


クラウドファンディングが目標金額に達しなかった場合でも、プロジェクトを進めていきます。

このクラウドファンディングは、「フルハウス」や「La MaMa ODAKA」や「青春五月党」を支えてくださる協力者の募集でもあります。

何卒、みなさまのお力をお貸しいただけますよう、お願い申し上げます。

新型コロナの感染状況によって改修工事の進捗や、特典・リターンのご提供に遅延が発生する場合が予想されます。

その際は、支援者・コレクターのみなさま方には、ご連絡申し上げます。

プロジェクトのご支援を、どうぞよろしくお願いいたします。

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