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法制史と郵便史 年表つくりコミュのつづき

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1868(明治1)年の明治維新を日本の国民国家成立として考えるとフランスに続く世界で2番目の国民国家となる。日本の場合は1民族1国家であり、言語的統一は1000年以上にわたっている。イタリア半島のヴァチカンをのぞく統一は1870年、ドイツの統一は1871年であるから、すこしだけ先んじている。国民国家はフランス革命の産物であるが、フランスでも、それに先んじる300年ちかい国土統一期間があった。アンリ四世が宗教戦争をおさめたナントの勅令が1598年、徳川家康が勝利をおさめた関ヶ原の戦いが1600年である。
地方の行政組織の一部というのが封建社会における司法の位置づけであった。
近代的司法は国家独占・地方行政から分離を特徴とする。この特徴を完備した近代的司法制度は日本では明治期にはじまる。1868(明治1)年までは、司法が行政から分離されず、各藩でおこなわれていた。ただ、江戸期の安定した時代に国民意識が形成され、前述のとおり、世襲の賄賂をとらず職務を忠実におこなう官僚層が形成され、それが官僚として信頼をおかれることとなる。世襲であれば賄賂は将来にわたっての子孫の地位を危険にするわけであり、賄賂も不正もなしえないことになる。また、藩の財政窮乏化のなかで不祥事をおこした役人は処分されやすかったという役人監視が実効的であった。
世界的に類をみない裁判所の下部職員が公証業務をおこなうことはこれらの官吏に対する信頼に裏打ちされた制度であり、これは日本及びその関連地域以外ではみられない。この官僚群と民衆自治の成立により、下級官吏による効率的な公証が可能となった。

 江戸期の行政における書記官
裁判所の書記に関しては江戸期に実質的に判断をなして判決をなしたうえで奉行に上申する下級管理が発達しており、世襲の名誉ある地位としてつづいていた。それらの官吏に汚職等は考えられなかった。

江戸期の刑事法 犯罪抑制
江戸期の犯罪捜査の過程では一族郎党に嫌疑内容が知られてしまうわけであり、狭い安定した世界のなかでしかいきられない人々にとっては犯罪抑止効果のおおきいものであった。また刑罰も現在と比較して過酷なものであった。
 犯罪捜査の端緒は被害の届出や告発・風聞等で密告の奨励もあった。捜査機関は江戸では町奉行、火付盗賊改配下の与力・同心であるが、実際は同心の私的雇人である目明(めあかし)・岡っ引きが主力であった。
 犯人捜索の方法として親族及び町村役人等に捜索義務を負わせる尋(たずね)があった。期限付きの捜索義務を日限(ひぎり)尋という。この期限内に御尋者を探し出せないときは捜索義務者に過料・急度叱等の刑罰が科され、あらためて永尋(ながたずね)が発せられた。
 無期限の捜索命令ではあるが実際は捜索打ち切りにちかい。

 被疑者は強制逮捕のほか差紙によって奉行所への出頭を命じることもあった。
明治期にも被疑者の捜索及び身柄確保は江戸期の延長として家族からの聞き取り等が重視されたため家族への波及をおそれて犯罪率は低かったとおもわれる。
 強盗・殺人についての重罪は先進諸国の10分の1以下を日本は近代を通じてキープしている。
 
3−3 植民地法制 
3−3−1 外地の司法制度総説
 一般に明治憲法の施行時に日本領土だった本州・四国・九州・北海道・沖縄・小笠原諸島を内地、その施行後に新たな領土となった台湾・樺太・関東州・朝鮮・南洋群島を外地と呼ばれる。外地ではそれぞれの地域で統治のやり方や法令が内地と異なった。法域を異にするわけであり、内地・台湾・樺太・関東州・朝鮮・南洋群島と6つの法域が明治憲法下であったことになる。差出人の名前も民事訴訟の場合で総監府・総督府・裁判所・法院がありうる。訴訟書類は朝鮮・台湾・関東州については確認ずみである。2012(平成24)年現在、樺太・南洋群島・南方占領地について訴訟書類郵便は確認されていない。
朝鮮。台湾については総督府の年鑑があり、訴訟の数は記録されている。

3−3−2 台湾・朝鮮の法院について
3−3−2−1 台湾の法院について
日本では裁判所なのに台湾・朝鮮では法院という名称になっているのは、いかなる理由があってのことであろうか。歴史的経緯をみてみよう。
台湾は明治憲法下で日本が最初に獲得した領土である。1895年(明治28)年、台湾は日本が植民地支配をすることになった。植民地当局である台湾総督府は同年6月17日、台北で始政式を行った。台湾住民の蜂起がやまないため8月6日に軍政を宣言した。総督府は平時の裁判所設置は困難と考え、軍事命令で台湾総督府法院の設置を決め、11月20日同法院が事務を開始した。
当時の日本政府は軍法会議として発足した機関を、すぐに日本法上の裁判所に改めるのは時期尚早と考えていたが、軍法会議的呼称をそのまま維持するのも妥当でないとの判断から斬新な呼称である法院を採用することとした。
1896(明治29)年4月1日、台湾における軍政が終結したのを受け、総督府は同年5月に律令第1号で台湾総督府法院条例を発布し、同条例により一般的司法審判事務をつかさどる総督府法院及び地方法院を各地に設置し、同年7月15日から事務を開始した。
 1898(明治31)年に児玉総督は台湾総督府法院条例(律令16)を公布し、明治29年の台湾総督府法院条例を廃止した。地方法院と覆審法院の2級2審制とした。
1919(大正8)年8月台湾総督府条例中改正(律令4)により覆審法院が廃され高等法院が復活した。高等法院に覆審部と上告部をおいたため2級制ながら3審制がとられた。
1945(昭和20)年、日本は第二次世界大戦に敗北し、ポツダム宣言を受諾して降伏した。同年10月25日、日本政府は台湾における施政権を国民党政権の中国政府(中華民国)に移譲した。ここに台湾総督府法院の半世紀の歴史は終焉を迎えた。
日本統治時期の全期を通じて裁判所構成法は台湾にしかれなかった。台湾における法院は明治憲法60条の特別裁判所にあたることになる。
3−3−2−2 朝鮮の法院について
1905(明治38)年11月、日本は韓国と第二次日韓協約を締結し、韓国の外交権を接収して保護国とした。1907(明治40)年7月には日本は韓国と第三次日韓協約を結んで韓国の内政権を接収した。この協約は第3条で韓国の司法事務の普通行政事務からの独立をうたっている。協約実行に関する覚書では大審院・控訴院3・地方裁判所8、区裁判所113を記していた。1909(明治42)年韓国司法及監獄事務委託に関する覚書により、日本は韓国の司法権を接収した。10月に桂内閣は総監府裁判所令(勅236)総監府裁判所司法事務取扱令(勅237)総監府司法庁官制(勅242)を公布した韓国の司法制度整備に着手した。11月に総監府裁判所設置の件(総監府令28)を公布して裁判所の名称・位置・管轄区域を定めた。高等法院3カ所、地方裁判所を8カ所、区裁判所80カ所が設置された。1911(明治43)年8月29日桂内閣は韓国併合に関する条約を公布し、韓国の国号を朝鮮と改称した。8月29日政府は緊急勅令により朝鮮に施行すべき法令に関する件(勅324)を公布して朝鮮における法制度整備にとりかかった。
 10月に初代朝鮮総督寺内正毅は朝鮮総督府裁判所令(勅令第5号)を公布した。朝鮮の司法制度が裁判所構成法によらないことを示し区裁判所・地方裁判所・控訴院・高等法院という4級3審制を採用した。区裁判所は68カ所に減らされた。
 1912年(明治45)年3月には朝鮮総督府裁判所令中改正の件(制令4)により4級3審制が地方法院・覆審法院・高等法院の3級3審制にあらためられた。それまでの区裁判所は地方法院支所となった。
 
3−4 訴訟書類のフォラランナー関連 司法省という名称
                   
3−4−1 中央政府における管轄――司法省の設立および官民往復制度以前
 江戸期には近代法制の特徴である行政からの司法の分離はなされていなかった。行政からの分離は明治10年までになされていくが、その間はかなり複雑な経緯をたどっている。
明治政府は1867(慶応3)年12月9日、徳川政府の大政奉還を許し、幕府を廃して王政に復し、仮に総裁・議定・参与の三職をおいて暫定的に三職制をとるとともに、太政官制を漸次再興する方針を発した。続いて1868(明治1)年3月14日に維新構想である五カ条の御誓文を宣して新政治体制の構築に取りかかり、4月26日まで三職制をとった後、4月27日「政体」を定め、太政官制をとって太政官に権力を集中するとともに、その権力を立法司法行政の3権に分かつ方針をとり、まず、立法官が行政官を兼ねることを禁じた。続いて中央集権の支配体制の確立につとめ、4月以降徳川幕府から接収した幕府直轄地に順次府県をおくとともに、全国の政体の統一をはかった。しかし、1871(明治4)年7月14日に廃藩置県がおかれるまでは、全国多くの地域で藩の政治体制が維持され(府藩県三治制)裁判所が全国で行政から独立する存在となるのは1867(明治10)年までに遷延した。
裁判事務を所管する中央の組織は目まぐるしく変遷した。
明治元年1月17日〜2月2日までは三職の参与の下におかれた刑法事務科および内国事務科が民事裁判および刑事裁判をそれぞれ所管した。
2月3日から4月20日までは三職八局制がとられて刑法事務局および内国事務局が民事裁判および刑事裁判をそれぞれ所管した。
4月21日から1869(明治2)年4月8日までは太政官の下におかれた刑法官および民部官が所管した。7月8日の省制採用による刑部(ぎょうぶ)省および「民部省」が所管した。
その後1871(明治4)年7月9日、廃藩置県により明治政府が全国を直轄することとなり、刑部省および弾正台を廃止して司法省を設立した。
 
司法省は当初刑事事務のみを所管したため、裁判事務は1871(明治4)年7月9日から7月26日までは司法省および民部省の所管となり、7月27日に民部省が大蔵省に求償され、司法省および大蔵省の所管になった後、9月14日に大蔵省の聴訟事務が司法省に移管され、司法省が刑事、民事の両裁判を包括的に所管することとなった。司法省は裁判のほか刑部省からひきついだ警察業務も1874(明治7)年に引き継ぐまで所管した。

司法省は1871(明治4)年7月9日の発足なので理論的には日本切手の最初期の龍文切手貼付の司法省差出しもありえるが、現在のところ岡本コレクション第2リーフの1873(明治6)年の桜切手貼付が最古のものとなっている。当時は近距離の連絡では使用人による無切手書状による連絡がふつうになされており、郵便による連絡自体がこの当時ほとんどおこなわれていなかったものと推測される。
 3−4−2 静岡県の裁判所の謎
 法制史的には1876(明治9)年9月に各地方裁判所をおいて施行されたことになっているが、実際には静岡の裁判所では同年11月から県庁内の裁判所から国が管轄する裁判所に移管していることになっている。岡本作品第2第3リーフはこの年の9月段階では移管していないことを示しているようである。この時期京都地方裁判所への移管の混乱については浅古弘「京都地方裁判所の摂津」・石井紫郎・青山善充編「明治前期の法と裁判」信山社・2003年にくわしい。

3−5 各裁判所の訴訟取扱件数  第2次世界大戦の裁判所の被害
 一般的には史料は廃棄や毀損される率が年をおってたかくなるために古いものほど珍しくなる。ところが、日本関連の訴訟書類の場合、1945−1948(昭和20−23)年にかけてのものが1891(明治24)年よりも集めにくい事態が生じている。
訴訟書類郵便の最大の供給源である一審民事訴訟の数であるが、区・簡易裁判所では1890(明治23)年64166件であり、1940(昭和15)年まで6万件をきることはない。ところが1943(昭和18)年には37994件、1944(昭和19)年には17996件、1945(昭和20)年には1月から4月までの件数で2676件、3倍しても8000件に満たない)、1946(昭和21)年には7227件、1948(昭和23)年には8311件、1949(昭和24)年には5197件、1950(昭和25)年には5153件である。その後1951(昭和26)年に2万件台を回復し1955(昭和30)年以降は6万件をくだることはなく現在にいたっている。
 地方裁判所の受理件数は1890(明治23)年の17884件をかわきりに1万5000件をくだる年はなかったが、1944(昭和19)年に1508件、1945(昭和20)年に2577件(統計に資料がないと注がある)、1946(昭和21)年13176件、1947(昭和22)年5826件、1948(昭和23)年1921件、1949(昭和24)年3607件、1950(昭和25)年4851件、1951(昭和26)年7909件、1952(昭和27)年6987件であり、1951年の独立回復後は1万件の前後で8000件をわることはなくなっている。
 控訴院・高等裁判所は1890(明治23)年の2739件を皮切りに1942(昭和17)年までは3000から6000のあいだである。1942(昭和17)年までは地方裁判所の6分の1程度の新受件数である。1943(昭和18)年には1866件、1944(昭和19)年は控訴制限が強化された影響か、172件、1945(昭和20)年には資料がなく、1946(昭和21)年370件、1947(昭和22)年は237件、1948(昭和23)年には1921件となり、1951(昭和26)年に7909件になってからは6000件をくだることなく、平成になってからは1万2000件前後である。
 大審院・最高裁判所は1890(明治23)年の627件を皮切りに500を下ることはなく1931(昭和6)年には3786件のピークを記録している。高裁事件の5分の1程度である。1945(昭和20)年には1月から4月までで180件、1946(昭和21)年は93件、1947(昭和22)年は35件、1948(昭和23)年は182件、1949(昭和24)年は364件、1950(昭和25)年は458件、1951(昭和26)年に954件となり、その後は1000件を切ることはない。
 1945(昭和20)年は戦災の影響、1946−1948(昭和21―23)年にかけては紙の質が悪いことから風化してしまうため残存数がすくない。
 昭和20年から25年にかけてのアイテムは貴重なことになる。
 成田弘コレクションでは36−40、常田勇次コレクションでは53−61リーフがこのもっとも収集困難な時期にあたる。

3−6 昭和憲法の成立と司法の改革、その郵便への影響
 昭和憲法下の裁判所法(昭和22法59)は、第3条で、裁判所は「一切の法律上の争訟」を裁判すると定めている。これは、昭和憲法第76条第1項の「すべての司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」をうけたものである。
一方、明治憲法下の裁判所構成法(明治23法6)は、第2条「通常裁判所ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラス」として、通常裁判所の行う司法権の範囲を民事事件・刑事事件に限るとともに、特別裁判所(皇室裁判所、軍法会議など)の行う裁判を通常裁判所の範囲から外した。これは、明治憲法が第60条で特別裁判所の存在を是認したためである。明治憲法は、さらに、第61条で行政裁判所の設置を定めた。第61条は、この行政裁判所に対して、通常裁判所を司法裁判所と称している。
明治憲法は、第57条第1項で司法権の行使を通常裁判所に委ねながら、第60条で特別裁判所の存在を是認し、第61条で行政裁判所の設置を定めた。明治22年発行の伊藤博文著『憲法義解』は、特別裁判所として軍法会議をあげるとともに、将来商工のために商工裁判所を設置すればそれも特別裁判所であると記している。この『憲法義解』は、憲法が行政裁判所を設置した理由として、第一に司法裁判所(通常裁判所)に行政の当否を判定する権限を与えるなら、行政官は司法官に隷属することを免れないし、第二に公益の保持を優先する行政の事宜に慣熟しない司法官にその事宜を判定させるのは、危道たることを免れないと記している。
特別裁判所として、?人の特別管轄をもつ皇室裁判所、軍法会議、?事物の特別管轄をもつ警察署長らによる違警罪の即決(仮処分)、特許局審判官による工業所有権争訟の審判、?土地の特別管轄をもつ領事官の裁判がある。
 これら特別裁判所は昭和憲法によって廃された。
 明治憲法と裁判所構成法のもとの裁判所と異なり、裁判所が最高裁判所を頂点とする自律的司法機構として司法省から独立した。ただし、裁判官は終身官ではなくなり下級裁判所の裁判所は任期10年となった。
裁判所法により?裁判所法が司法省より完全に独立、?最高裁判所の国法上の地位の強化、?裁判所と検事局の分離がおおきくかわった。4級3審制は踏襲された。簡易裁判所の権限は区裁判所より縮小された。
1948年(昭和23)年家事審判所が家事の審判をおこない、1949(昭和24)年には家庭裁判所が創設された。家事審判所の訴訟書類・特別送達とも未見である。
郵便への影響としては差出人として特別裁判所がなくなり、最高裁判所・簡易裁判所・家庭審判所・家庭裁判所が増加したことになる。

参考文献 参考文献 
王泰升著・松平徳仁訳「旧台湾総督府法院司法文書の保存と利用」林屋礼二・石井紫郎・青山善充編「明治前期の法と裁判」信山社 2003年425頁以下
最高裁判所事務総局「裁判所百年史」 1990年
 兼子一=竹下守夫「裁判法 第4版」 有斐閣 1999年
 浅古弘・植田信廣・神保文夫・伊藤孝夫編「日本法制史」 青林書院 2010年
新井勉・蕪山巌・小柳春一郎「近代日本司法制度史」信山社 2011年
 鈴木正裕「近代民事訴訟法史・日本」有斐閣 2004年
 園尾隆司「民事訴訟・執行・破産の近現代史」弘文堂 2010年

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