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≪The哲学≫コミュの1.日本語の哲学(西田哲学・吉本隆明の思想・廣松科学哲学について)

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1.日本語の哲学
(西田哲学・吉本隆明の思想・廣松科学哲学について)

いつも思うのは、ドストエフスキーの社会主義が、
空想的社会主義や無政府主義であって、マルクス主義ではなかったことです。
もし、それが、マルクス主義や共産主義論を念頭、主題に据えていたとしたならどうなっていただろうか?
それを思わずにはいられません。
それは、ドストエフスキーの後継者たる文学者の仕事となるのだろうけれども、サルトルにしても、「収容所群島」にしても、
まだまだ、ドストエフスキーの文学には、ほど遠いものを感じずにはいられません。
それは、何故かと言う事は、また、別の主題となりますので、
場所を改めて語りたいと思います。

西田哲学は、日本で最初のオリジナリティを持った哲学であるのは確かです。
西洋哲学と東洋哲学の折衷?を思考していたのでしょうか?

しかし、ベルクソンなどから多大に、影響を受けて、
西洋哲学の問題点、ヘーゲルその他にも
念頭におかれていただろうと思います。

しかし、物足りなさは、上記のドストエフスキーと同じく、
マルクスを主題として言及されるものでもなく、
欲する回答として、西田哲学は、一直線に答えているものではないだろうと
言う事です。

ヘーゲル哲学についても本当に、世界的認知の中で、展開されたと言われているのでしょうか?


現代にとっての西田哲学への興味は、
日本語で、書かれた、ただ、翻訳的だけである西洋哲学の輸入のままではないこと、
日本語で、そして、その土地にあった哲学として、再構成し、オリジナルな原初であるだけのように思えます。

西洋哲学は、どこまで行っても、「翻訳」であり、
よそよそしさを東洋人であり、日本と言う辺境に生まれた私たちの土壌として、本当の意味では完成されていないといえます。

しかし、哲学、ギリシア以来の自然学的展開としての哲学は、
西洋にしかなく、
東洋には、儒教や仏教があろうとも、問題意識としては、
まだ、念頭におかれていないものがあり、
現代人である私たちは、西洋哲学の問題意識に魅せられていると言う事実もある中で、西田哲学は、
何をもたらしているのか?

哲学を翻訳ではなく、自分たちの言葉にする作業とはなんであるのかの原初を辿るなら、やはり、西田哲学が、和洋折衷として、
手ごろに、戻られる場所であるのは、確かであろうと思います。

しかし、ドストエフスキーにも感じた現代的主題点として、マルクスが主題とされていない欠如が、あり、それをどう補っていくのかが、
私たちの共通の哲学的宿題の様にもなっていようと言う事ではないかと
私自身も考えているわけです。

マルクス、弁証法的唯物論からのヘーゲル批判、その全体から、実存、構造主義的展開に対して、、西田哲学は、何であるのかを
果たして、黒田寛一氏が、
どれだけ、展開できていたかの問題となってくるのではないかと
考えます。

黒田氏が、西田からも影響を受けていたとしても、
どれだけ精力的に、それを語っていたのでしょうか?


ゆえに、ケンケンさんの西田の弟子の展開が、恨まれる。
継承不能な孤高の哲学となっている面も歪めないのではないかと
私も思うのです。

継承されない哲学と言うよりは、思想的と言う意味では、吉本隆明氏も同じ位置にあるでしょう。

廣松渉氏は、本来、どっぷり西洋哲学的であり、科学哲学的であるのだから、
本来は、継承され、展開されるべき哲学であるはずなのですが、
こちらは、別の意味で、
独創的で、早すぎた哲学となっていると私は、考えています。

西田、吉本、そして、廣松の科学哲学論までを念頭に置いて、
本来、それぞれの「風土」にあった、
哲学とは何か?

日本語としての哲学としての体系的完成はどうあるべきかに、言及をしていきたいと考えます。



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