大熊猫蔵コミュの武霊モノ EP.1 夜桜⑤

　千歳の腕をひっつかみ、後部座席に転がり込むように乗りこんだ。その様子を見て察したのか馬場も急いで空いている助手席へと座る。尻をさすっていた運転手あほうだが一番最後に乗り込んで、そしてハンドルを握る。
「何やってんだよっ！　あほうだ、早く出せっ！」
　桜瑠は後部座席から運転席のシートをガンガンと蹴飛ばす。しかし、まだ事態を飲み込めていないあほうだは穏やかに答えた。
「なんかさぁ、エンジンがかからないんだよね」
　キュルルルル、キュルルルルと、持ち主同様に空回りの音を出す車。こともあろうにその持ち主はくるりと振り向くと満面の笑顔でこう言った。
「夜桜まだ見てないしさ、これってさぁ、もうちょっとここに居てちゃんと夜桜を探しなさいっていうお告げとかだっ」
　全てを言い終わる前に桜瑠の伸ばした指先があほうだの額に触れ、痛そうな音のデコピンが炸裂した。本人に悪気がないのは桜瑠にもわかっている。単に空気を読めないだけ。しかし空回りもいいところのあほうだ越しのフロントガラスに、桜瑠は「咲く」ところを直に見てしまった。
　桜瑠の目の前で、一つ、また一つ。フロントガラスに赤い花が咲いてゆく。桜なんかよりもずっと濃い色。いや、この色この形、桜なんかじゃないのは誰にだって分かる。その咲いてゆく「花」は、子供の血まみれの手形にしか見えなかった。
「わああああああぁぁぁぁぁぁぁっ！」
　桜瑠の絶叫が車内に響いた直後、ドルンとエンジンがかかる。桜瑠は後部座席から運転席を力いっぱい蹴飛ばした。その勢いに気圧されたのか、あほうだもようやく前を向いて運転を始めた。
　
「ね、桜瑠、落ち着いた？」
　うつむく桜瑠の頭をなでながら千歳がたずねると、桜瑠は返事をしないまま顔を上げ、フロントガラス以外の周囲を見渡した。
　あほうだが車を停めたのは、これまた辺鄙なところだった。あの場所から峠二つは越えているものの、自販機がぽつんと立っているくらいの小さな駐車場。なんとか園とかいう画数が多い名前と動物の絵の看板が立っているところを見ると、昼間は何か動物と触れ合える施設があるようだ。あくまでも昼間は。
「なんでこんな寂しいところで停まるのさ。コンビニとかファミレスとかもっとさ」
　桜瑠はおさまらない不安やイライラをあほうだにぶつける。しかしあほうだは笑顔のまま車を降りてしまう。もちろん、桜瑠が荒れている原因になど全く気付いてはいない。
「ごめんごめん。尿意が待ってくれなくて……ほら、あそこ。隅っこに公衆トイレあるし？」
　そそくさとあほうだが向かっていく先には、確かに小さなトイレがある。蛍光灯が切れかかっているのかチカチカと点滅しているけ公衆トイレ。遠ざかってゆくあほうだの背中を車の中で見守っていた桜瑠はため息をつく。あんな状況の後で、走りはじめても消えないフロントガラスのアレに気付かず運転し、しかもオバケ電気状態な寂しげな公衆トイレに一人で行ける肝っ玉。これこそあほうだクオリティ。
「ね、千歳」
「なに？」
「蛍光灯が交換されていないってことはさ、滅多に人が来ないってことだよね？」
　桜瑠は人がたくさん居る場所へ早く移動したかった。あんなものに遭遇した後でこの３人はどうして平気なんだろうかと桜瑠は独り不安になってゆく。助手席の馬場ちゃんは以前より「幽霊は筋肉がないから興味ない」とか言っており彼こそホンモノの零能力者っぽいのだが、そういう分野に妙に詳しい千歳が特に何も反応していないっていうのは……いやいや、逆だ。千歳が反応していないから、これは気のせい。そう、きっとさっきのも、フロントガラスのも気のせい。きっと偶然あんなカタチに汚れただけ。桜瑠がポジティブ・スルーを発動させようと必死になっていると、千歳が口を開く。
「夜には人が来ないから、切れているのに気付いてない、っていうだけのことじゃない？」
　そう言いながら千歳は車内にあったティッシュボックスを桜瑠に手渡した。
「なにこれ？」
「なんかさ、フロントウィンドウがちょっと汚れているみたいなんだよね。曇っているっていうか」
　曇り？　桜瑠は自分の中に必死に創ろうとしている「現実」と、千歳の発言が一致していることに一瞬喜び、そして戸惑った。いままで彼女と一緒に過ごしてきた経験が、この状況での「一致」を素直に受け入れ難いと考えている自分に気付いたから。
　桜瑠は眼鏡を外して目をこすり、あえて裸眼のままでフロントガラスをチラ見する。そうそう、曇……眼鏡を再びかける前だと言うのに、なぜかそれが「手形」にしか見えなかった。手形が、フロントガラスではなく自分の眼球につけられたのではないかと思えるほどくっきりと印象づいたまま。桜瑠は手の中のティッシュボックスに視線を落とす。「あれ」を拭くということはティッシュごしとはいえ「あれ」に触るということ。大腸菌ですら何枚にも重ねたティッシュをすり抜けて指に到達するというのに……桜瑠はぶるぶると首を左右に振る。
「桜瑠？　さっきも寒いって言っていたけど……そんなに寒いの？」
「あ、違う。今のは寒いわけじゃなくって」
「だよね。じゃ、お願いね」
　千歳はまたもや完璧な笑顔を浮かべる。
「じゃ、じゃなくって。ほら、千歳。かよわい女子二人の他に筋肉自慢の男子が一人いませんこと？　ね、窓拭きって力しご」
　すると千歳は微笑みながら人差し指を一本、すっと立てた。その指はすーっと桜瑠に近づき、その唇の前で止まる。桜瑠は思わず、口を閉じた。千歳の指は桜瑠の唇からすーっと離れ、今度は助手席を静かに指さした。
「あっ！　こいつ！」
　桜瑠が声をあげた途端、千歳の指がまた桜瑠の唇の前まで戻ってくる。
「眠らせといてあげようよ。馬場ちゃん、バイトであんまり寝てないらしくてね」
　バイトなら自分だってしてたよと言いかけた桜瑠は、バイトから帰宅したあと深夜までぐっすり寝ていたことも思い出して何も言わずに唇を軽く噛む。こういうとき、変に律儀な自分に歯がゆさを覚えながら。と同時に、桜瑠は手に持っているものが急に重くなったのを感じた。千歳がバッグから小さな袋を取り出してティッシュボックスの上に置いたのだ。
　
　
　
（続く）
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