「もしもーし。みんな居るんだ？」
桜瑠の声が聞こえないのか、受話器の向こうではなにやら囁き声の応酬。それでも目を閉じた桜瑠の脳裏には「あいつら」がそこに居るかのような情景が浮かぶ
「ほら貸してっ……あー。ごめんね桜瑠、こんな夜中に」
桜瑠の脳内では千歳があほうだから電話を奪うシーンが容易く再生される。この雰囲気は本当に久しぶり……久しぶり？ 桜瑠は携帯を耳から離し、もう一度携帯の画面を見た。五月……いつの間に五月になっていた？ 四月はいつの間に終わっていた？ 桜瑠は軽く震えた。
彼らと最後に会ったのは高校を卒業した三月の末日、このアパートへの引っ越しを手伝ってもらった時。その後、彼らと会わない日々が一ヶ月以上も続いていたということが桜瑠にとっては信じられなかった。中学、高校と、彼らと一緒じゃない日はなかったと言ってもいいほどそこに居るのが当たり前の、良い意味で空気みたいな存在だった彼らと一ヶ月も会ってなかったことに自分が気付いていなかったことがショックだったのだ。確かにこの一ヶ月は忙しかった。初めての一人暮らしという不慣れな新生活、大学の勉強、それから生活費の足しにするためのバイト、そういった諸々に振り回されていた日々。桜瑠にとっての日常はいつの間にか、彼らではなく疲労そのもので満たされていたことに今更ながら気付いたのだ。
「桜瑠？」
「うん、千歳……でもさ、ちょっと夜中過ぎやしない？」
彼らの非常識さ、おかまいのなさが、桜瑠の頬をさらにゆるませる。それを許しあえる間柄、安心感。
「ごめんごめん桜瑠。でもさ、あほうだ曰くこの時間じゃないとダメらしいの。ね、今から花見行こう！」
花見？
桜瑠は眉をしかめながら、携帯画面を再度確認する。
『５月５日 １：１３ あほうだ』
花見という提案に桜瑠はどこからつっんだもんかと絶句する。この時間に花見ってのはおかしいのと、そもそもこんな時期……ゴールデンウィークに花見だなんて不自然なのと……そういえば北海道の方では今頃に桜が咲くんだっけと考えつつも直後、こんな関東の郊外からまさか車で北海道とかバカなこと言い出さないよねと不安にもなる。だけど実際そういうことを言い出しかねない連中だからな、と桜瑠はひとり肯いた。
「ね、桜瑠、聞いてる？」
「き、聞いてる」
桜瑠は確かに聞いていた。千歳の声の向こうに響く音をも。ジャリッジャリッと砂利の上を歩く音。その音は桜瑠が日々よく聞く音に似ていた。そして次はコツコツと……おそらくコンクリートの上を歩く音。その音にも聞き覚えがあった。
「もしもし、桜瑠？」
「うん、聞いてるって」
桜瑠は廊下につながる襖を静かに開けた。廊下とは言っても右側はすぐに行き止まり、左側は台所へとつながり、向かいには洗面所へとつながるドアがあるだけの狭く短い空間。その廊下を桜瑠は迷わず台所へと向かう。キッチンシンクの横がすぐ玄関になっている、この規模のアパートにはありがちな造り。桜瑠は音を立てないようにドアへと近づき、覗き穴からそっと外を覗った。
「ねー、桜瑠ってばー」
千歳の声は二重に聞こえていた。一つは携帯電話から。もう一つはこの玄関ドアのすぐ向こうから。桜瑠の読み通りだった。覗き穴の外が真っ暗なのは夜だからではなく、千歳が指で塞いでいるからに違いない。視界が閉ざされていることそれ自体が千歳の存在を告げていた。
「ねえ、千歳。怒らないから今どこに居るか言ってみ」
「桜瑠としゃべるのに電話が要らない場所」
ドアの向こうから、くふふと笑いまじりの囁きが返ってくる。桜瑠は一呼吸置いてから玄関のドアを勢いよく開けた。目の前には案の定、笑顔の千歳が立っている。
「千歳ってば中学生の頃さ、門限十八時とか言ってなかったっけ？ なのにどうしてこんな時間にここに居るのさ？」
しかし千歳はその問いには答えず、おもむろに両手を突き出すと桜瑠の胸元をくわっと鷲づかみにする。
「よしよし。ちゃんとブラしているね。桜瑠ってばすごい。もう出かける支度できてるじゃなーい」
桜瑠は千歳のいやらしい手を払いのけつつ自分の姿をちらりと確認する。ジーンズにＴシャツ、それはすなわちバイトから帰ったときの格好のまま。
「これは……出かけるための格好じゃなくって、帰って来たときの格好であって」
そんな言い訳は無駄な抵抗とわかっている桜瑠ではあったが、一応訴えてはみた。だが千歳は小声でうりうり言いながら桜瑠の体をしつこくまさぐり続ける。
「うわっ！ くすぐったっ！ ちょ、千歳！ 暴れるならドアの外じゃなく」
バタン。
深夜だからここでは騒がないでって言おうとした桜瑠の口が閉まる音……ではなく、桜瑠の背後でドアが閉まった音。しかもその直後にガチャリという音まで聞こえた。桜瑠は慌ててジーンズの後ろポケットを確認したが既に遅かった。千歳はもう数メートルも離れていて指先でチャリチャリと何か小さなものを振り回している。
「桜瑠はいつもお尻のポッケに鍵しまうよね。座ったときに痛くない？」
千歳はそう言い残すとこの建物の一番端まで行き、口をパクパクさせる。それだけでも桜瑠にはそれが「待ってるから」だと分かる。そして桜瑠が返事をする前にあっさり角を曲がってしまう。そっちの方向にあるのはアパート併設の駐車場。
あっという間だった。桜瑠はすっかり忘れていた。そういう連中だってことを。桜瑠は頭をくしゃくしゃと掻きむしると、玄関にため息を一つ残し千歳のあとを追いかけた。
（続く）
→ http://
目次：http://
桜瑠の声が聞こえないのか、受話器の向こうではなにやら囁き声の応酬。それでも目を閉じた桜瑠の脳裏には「あいつら」がそこに居るかのような情景が浮かぶ
「ほら貸してっ……あー。ごめんね桜瑠、こんな夜中に」
桜瑠の脳内では千歳があほうだから電話を奪うシーンが容易く再生される。この雰囲気は本当に久しぶり……久しぶり？ 桜瑠は携帯を耳から離し、もう一度携帯の画面を見た。五月……いつの間に五月になっていた？ 四月はいつの間に終わっていた？ 桜瑠は軽く震えた。
彼らと最後に会ったのは高校を卒業した三月の末日、このアパートへの引っ越しを手伝ってもらった時。その後、彼らと会わない日々が一ヶ月以上も続いていたということが桜瑠にとっては信じられなかった。中学、高校と、彼らと一緒じゃない日はなかったと言ってもいいほどそこに居るのが当たり前の、良い意味で空気みたいな存在だった彼らと一ヶ月も会ってなかったことに自分が気付いていなかったことがショックだったのだ。確かにこの一ヶ月は忙しかった。初めての一人暮らしという不慣れな新生活、大学の勉強、それから生活費の足しにするためのバイト、そういった諸々に振り回されていた日々。桜瑠にとっての日常はいつの間にか、彼らではなく疲労そのもので満たされていたことに今更ながら気付いたのだ。
「桜瑠？」
「うん、千歳……でもさ、ちょっと夜中過ぎやしない？」
彼らの非常識さ、おかまいのなさが、桜瑠の頬をさらにゆるませる。それを許しあえる間柄、安心感。
「ごめんごめん桜瑠。でもさ、あほうだ曰くこの時間じゃないとダメらしいの。ね、今から花見行こう！」
花見？
桜瑠は眉をしかめながら、携帯画面を再度確認する。
『５月５日 １：１３ あほうだ』
花見という提案に桜瑠はどこからつっんだもんかと絶句する。この時間に花見ってのはおかしいのと、そもそもこんな時期……ゴールデンウィークに花見だなんて不自然なのと……そういえば北海道の方では今頃に桜が咲くんだっけと考えつつも直後、こんな関東の郊外からまさか車で北海道とかバカなこと言い出さないよねと不安にもなる。だけど実際そういうことを言い出しかねない連中だからな、と桜瑠はひとり肯いた。
「ね、桜瑠、聞いてる？」
「き、聞いてる」
桜瑠は確かに聞いていた。千歳の声の向こうに響く音をも。ジャリッジャリッと砂利の上を歩く音。その音は桜瑠が日々よく聞く音に似ていた。そして次はコツコツと……おそらくコンクリートの上を歩く音。その音にも聞き覚えがあった。
「もしもし、桜瑠？」
「うん、聞いてるって」
桜瑠は廊下につながる襖を静かに開けた。廊下とは言っても右側はすぐに行き止まり、左側は台所へとつながり、向かいには洗面所へとつながるドアがあるだけの狭く短い空間。その廊下を桜瑠は迷わず台所へと向かう。キッチンシンクの横がすぐ玄関になっている、この規模のアパートにはありがちな造り。桜瑠は音を立てないようにドアへと近づき、覗き穴からそっと外を覗った。
「ねー、桜瑠ってばー」
千歳の声は二重に聞こえていた。一つは携帯電話から。もう一つはこの玄関ドアのすぐ向こうから。桜瑠の読み通りだった。覗き穴の外が真っ暗なのは夜だからではなく、千歳が指で塞いでいるからに違いない。視界が閉ざされていることそれ自体が千歳の存在を告げていた。
「ねえ、千歳。怒らないから今どこに居るか言ってみ」
「桜瑠としゃべるのに電話が要らない場所」
ドアの向こうから、くふふと笑いまじりの囁きが返ってくる。桜瑠は一呼吸置いてから玄関のドアを勢いよく開けた。目の前には案の定、笑顔の千歳が立っている。
「千歳ってば中学生の頃さ、門限十八時とか言ってなかったっけ？ なのにどうしてこんな時間にここに居るのさ？」
しかし千歳はその問いには答えず、おもむろに両手を突き出すと桜瑠の胸元をくわっと鷲づかみにする。
「よしよし。ちゃんとブラしているね。桜瑠ってばすごい。もう出かける支度できてるじゃなーい」
桜瑠は千歳のいやらしい手を払いのけつつ自分の姿をちらりと確認する。ジーンズにＴシャツ、それはすなわちバイトから帰ったときの格好のまま。
「これは……出かけるための格好じゃなくって、帰って来たときの格好であって」
そんな言い訳は無駄な抵抗とわかっている桜瑠ではあったが、一応訴えてはみた。だが千歳は小声でうりうり言いながら桜瑠の体をしつこくまさぐり続ける。
「うわっ！ くすぐったっ！ ちょ、千歳！ 暴れるならドアの外じゃなく」
バタン。
深夜だからここでは騒がないでって言おうとした桜瑠の口が閉まる音……ではなく、桜瑠の背後でドアが閉まった音。しかもその直後にガチャリという音まで聞こえた。桜瑠は慌ててジーンズの後ろポケットを確認したが既に遅かった。千歳はもう数メートルも離れていて指先でチャリチャリと何か小さなものを振り回している。
「桜瑠はいつもお尻のポッケに鍵しまうよね。座ったときに痛くない？」
千歳はそう言い残すとこの建物の一番端まで行き、口をパクパクさせる。それだけでも桜瑠にはそれが「待ってるから」だと分かる。そして桜瑠が返事をする前にあっさり角を曲がってしまう。そっちの方向にあるのはアパート併設の駐車場。
あっという間だった。桜瑠はすっかり忘れていた。そういう連中だってことを。桜瑠は頭をくしゃくしゃと掻きむしると、玄関にため息を一つ残し千歳のあとを追いかけた。
（続く）
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