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ブルース・リー リサーチコミュのジュンファン・グンフーおよびジークンドー創始の歴史 3

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第3期:截拳道(ジークンドー)創始
1966年、グリーン・ホーネットに準主役で出演のためカリフォルニア州、ロサンゼルスへ移住。同年、第1回カリフォルニア州カラテ選手権大会にてデモンストレーションを行なう。

1967年2月9日、チャイナタウンに第3の振藩國術館を開設する。生徒の約9割はダン・イノサント氏がケンポー・カラテの師範代であった事により、ケンポー・カラテの道場から連れてきた人達であった。

そしてこの日を境にジークンドー継承の将来を決定付ける出来事が起こった。それは将来唯一人のジークンドー継承者となる、テッド・ウォン師父がこの日のデモンストレーションと説明会に参加したことである。

この日デモンストレーションされたものは改良され進化したジュンファン・グンフーである。

同年5月、師祖は自らの意思でテッド・ウォン師父を家に招き、プライベート・ステューデントとする。テッド・ウォン師父がその理由を尋ねると師祖は「君がナイス・ガイだから!」と答えたという。

テッド・ウォン師父はこの時点ではまだ武術の初心者であったが、プライベート・レッスン、スクール・レッスン、セルフ・トレーニングにての努力により次第に実力を付け、師父のトレーニング・パートナー及びスパーリング・パートナーになるのである。

同年5月、ワシントンDCインターナショナル・カラテ選手権にてデモンストレーションを行なう。

同年6月、マディソン・スクウェア・ガーデンにて行われた全米カラテ選手権にゲスト出演する。

同年7月、ロングビーチで行われたインターナショナル・カラテ選手権において、デモンストレーションを行なう。このとき初めて全身防具を着用したフルコンタクト・スパーリングを、イノサント氏及びジェームズ・リー氏を相手に披露したが、ジークンドーの定義となる”インターセプション”を見事にパフォーマンスしている。

同年7月、師祖はジュンファン・グンフーとは別に新たな理論で創始している武術に、JEET KUNE DOと名付け、その名を使い出した。その理論とはフェンシングの“ストップ・スラスト”からインスピレーションを得たものである。

1968年、ワシントンDCナショナル・カラテ選手権でデモンストレーションを行なう。

1969年、スクールレッスンにて教伝(ジュンファン・グンフー)に次第に熱意がなくなり始め、レッスンをダン・イノサント氏にほとんど任せ、あまりスクールに行かなくなる。その分プライベート・レッスンがほとんどとなり、テッド・ウォン師父を実験台にして自らのインスピレーションと鍛錬にて創始した、ジークンドーの技法をさらに進化・精錬させていく。又、この時期にランキングシステムも廃止してしまう。

1970年1月、シアトル・オークランド・ロサンゼルスの3ヶ所の道場を閉鎖してしまう。理由はスクールの生徒達がジークンドーには何か特別な技法が有り、それを学びたいと幻想していた事によるものである。

師祖の考えではジークンドーはあくまでも1対1のレッスンで教伝されるものであり、多くの人数に教えても修得出来るものではないと思っていた。又、ジークンドーには特別な技法など一つもなく、ただひたすらに長期間の努力による精錬が必要であると説いた。

同年8月、ウォーム・アップなしでいきなりグッド・モーニング・エクササイズをやったため、第4番仙骨と周辺の神経を損傷し、約半年間の入院状態となってしまう。

初期段階ではベッドに寝たきりの状態であったため、多くの本を熟読してそれを知識とし、多くのメモを書き残した。この期間は常に内面(意識/心/精神)の強化に努めたのである。

次第に回復し始めた頃から少しづつトレーニングを再開し、肉体と意識の調和を会得する。

同年、息子のブランドンを連れて香港へ。ゴールデン・ハーヴェスト社と映画出演の契約をする。

1971年、香港に移住。「ドラゴン危機一髪(The Big Boss)」「ドラゴン怒りの鉄拳(Fist Of Fury)」に出演し、またたく間にスターダムにのし上がる。又、テレビ出演にてデモンストレーションし、ジークンドーのその驚異的なスピードと破壊力を視聴者に見せ付ける。

1972年、「ドラゴンへの道(The Way Of Dragon)」「死亡的遊戯(The Game Of Death)」2本を主演と同時に製作する。

1973年、「燃えよドラゴン(Enter The Dragon)」に主演、及び武術指導する。

同年5月、「燃えよドラゴン」のアフレコ中に意識を失い、病院に搬送される。
 同年5月、アメリカにて精密検査を受けに来た際、テッド・ウォン師父に最後のプライベート・レッスンを授ける。

この時師祖は3mの距離を不動の状態から、まばたきの速さで縮める事が出来る程の機動力を有していた。テッド・ウォン師父はこれを体験した時、「これが武術の究極なのでは!?」と思ったそうである。

この時点でジークンドーはほぼ90%まで完成しており、師祖本人の研究メモによると、私が教える武術は“ブルース・リーのスタイルである。”と書き残している。つまり最終的にブルース・リーズ・ジークンドーは師祖が創始したスタイルとなったのである。

同年7月20日、ブルース・リー師祖、香港にて死去。死因は脳浮腫と発表された。

1964年の事件がきっかけでジークンドー創始の構想が生まれ、様々な研究と実践の繰り返しによって徐々に進化を遂げていった訳だが、一番重要な事は師祖がどのような思考を持って、どのようなやり方でジークンドーを創始していったかである。

ジークンドーを創始していくにあたって師祖は特に、フェンシングとボクシングに注目した。この両方の西洋的格闘技は形式を重んじる中国武術や寸止め形式試合の空手と違って、真に相手を打ち倒す実戦的なものであったからである。

又、師祖は科学的及び哲学的な原理・原則をリサーチし、己の求める武術を創始、進化させるために様々なトレーニング用具及びトレーニング方法を考案、開発した。

1967年に行なわれたロングビーチ国際カラテ選手権でのデモンストレーション中にフルコンタクト・スパーリングを観察すると、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用している事が判る。ブルース・リーズ・ジークンドーにおいて最重要とされる技法である。

まだこの時点では高機動のフットワーク、ブロークン・リズム、様々な戦略法は開発されていないが、フィルムを見る限りではすでに基礎構造とインターセプションの概念は出来上がっていたと判断できる。

1973年には神技とも言える事を修得し、真に達人の境地に居た師祖だが、テッド・ウォン師父の話によると、1969年〜1970年頃にはそれに近い事はすでに出来ていたとの事である。多くのインスピレーションを受け、多くの時間を費やして努力し続け、多くの時間をテッド・ウォン師父を実験台にしながら実践し、研究を積み重ねていった結果が全てを物語っている。

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