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ブルース・リー リサーチコミュのジュンファン・グンフーおよびジークンドー創始の歴史 2

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第2期:振藩功夫(ジュンファン・グンフー)創始
1959年、シアトルの地を踏んだブルース・リー師祖は、通っていたエジソン・テクニカル・インスティテュートのクラスメートへ無償で詠春拳を教え、その実力は瞬く間に広まることとなった。

このとき知り合い、後にジュンファン・グンフー伝承者となるのがターキー・木村氏である。

1962年、ターキー木村氏の勧めで月謝制の本格的な武術スクールを開設する。

技術的な核は詠春拳であったが、他の武術/格闘技の経験も取り入れられ、実戦向きに改良されていったため、振藩功夫(ジュンファン・グンフー)と名づけられた。ゆえに武術スクールの名称も「振藩國術館(ジュンファン・グンフー・インスティテュート)」と名づけられた。

同年、日本人空手家(黒帯)より挑戦を受け、Y.M.C.Aシアトルのジムにて実戦試合をし、わずか11秒でK.Oした。この時有効となった技術は、詠春拳の“ジク・チュン・チョイ”というストレートの連打攻撃法である。しかし、このとき師祖はチュン・チョイで床に倒れた相手の頭部に蹴りを入れたので、空手家は完全グロッキー状態となってしまった。

1963年、自費にて「基本中国拳法」を出版する。内容的には中国武術に関する原理/原則、基本功、鍛錬法であるが、技術の使い方に関しては、ジュンファン・グンフーが写真として掲載されている。また、本文中の直筆による絵のモデルは、中国大陸において”神拳大龍”として知られている華拳の伝承者、蔡 龍雲老師が出版した本より描写したものである。

1964年、カリフォルニア州オークランドへ移住し、1962年より弟子となったジェームズ・リー氏の家に住みつつ、第2の振藩國術館を開設する。同年7月、ケンポー・カラテ創始者のエド・パーカー氏より招聘され、ロングビーチで行われた「インターナショナル・カラテ・チャンピオンシップス」においてターキー・木村氏と共にジュンファン・グンフーのデモンストレーションを行う。

このきっかけにより、ダン・イノサント氏及び”アメリカテコンドーの父”と呼ばれたジューン・リー氏と出会い、交流が始まる事となる。同年末、伝統を重んじる地元の中国武術家達からのクレームを受け、それに反発したため挑戦者ウォン・ジャックマン(白鶴拳)と実戦試合をする事となる。

結果は師祖の勝利に終わったが、ジク・チュン・チョイで猛攻に攻めたために相手が逃げ廻り、それを追いかけて捕まえ、倒すまで約3分間もかかってしまった。

この事件がきっかけで、師祖は心肺機能向上の必要性と機動力向上の必要性を痛切に感じ、又、中国伝統武術の技術にも疑問を抱くようになった。そしてこれらの思いがジークンドーを創始していく引き金となったのである。

始祖がシアトル入りして1964年頃までに様々な中国伝統武術を研究している。蟷螂拳(北派・南派)・鷹爪門の摛拿・洪家門の虎拳と鶴拳・少林拳系の技術・楊式太極拳・その他兵器など。

これは師祖の研究ノートを見て取れるものである。しかし、これらのほとんどは本から学びえた事ではあるが、直線的且つ短打である詠春拳に曲線的な技法を加え、見事なまでに振藩功夫として昇華させている。

当時のフイルムを見ても理解出来るが、師祖のスピードはこの時点から既に速かった。特に1964年末の事件以降は更なる進化を追及し、西洋の格闘技(ボクシング・フェンシング・サバット)を書物などで研究している。ジューン・リーと交流した際もテコンドーの足技を経験し、それを独自の考えで改良した事実がある。

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