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通州事件コミュの日本人皆殺しの地獄絵

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コメント(27)

通州事件の惨劇 (Sさんの体験談) 日本人皆殺しの地獄絵・其の一


1937年(昭和12年)7月29日。73年前の昨日、北京の西の通州において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。大東亜戦争の一つのきっかけになったとも言われる通州事件です。通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生により、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。さらに支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみの心もなく、その屍体までもいたぶっているのです。

かけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状であったそうです。支那人は南京で日本軍が大虐殺を行い、妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き殺すなど、悪逆非道の限りをつくしたとデッチあげて日本を非難していますが、通州事件を見ますと、日本軍が行った行為と言っているのは、つまり、支那人自身が行ったことに他ならないことが解ります。

通州事件は、殆どの日本人から忘れ去られようとしていますが、日本人居留民の無情な殺され方を、そして支那人の持つ残虐性を私達日本人は決して忘れてはいけません。通州における惨劇は、多くの人が証言していますが、実際の体験者であるSさんの話を、拙ブログで採り上げ、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。大変長い話ですので、何回かに分けて掲載させて頂きます。

----------- Sさんの体験談 -----------

6.
私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

5.
このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。
4.
でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。それは昭和九年の初め頃だったのです。Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

3.
通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。そして、商売の方もうまく行くようになりました。Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人にとってはとても便利なんです。Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。
2.
ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

1.
只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。 (次回につづく)
(続き) 其の二 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1

9.
こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

8.
そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。行商に歩いていると日本人に出会います。私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。私はあまり心配だからあるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

7.
それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。私はTさんには悪かったけれど、紙一杯に委しくこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さいということを書いておきました。この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。
6.
昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に「日本時は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

5.
三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はびっくりしました。それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。しかし日本に帰るべくT山河にほんの状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

4.
日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。
3.
Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない」と申すのです。それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

2.
そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。支那人達が大騒ぎをしているのです。何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。私はびっくりしました。そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。この頃でした。上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。どこかへ戦争に行っていたのでしょう。
1.
七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。突然私はTさんに烈しく起こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。町には一杯人が出ておりました。そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているやらさっぱりわかりません。只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。私はTさんと一緒に逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。そして「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。それは日本人の血といか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。 (次回に続く)
とりあえず、其の一&其の二、は以上です。
また改めて、其の三&其の四。
そして、其の五、をアップさせていただきます。 <(_ _)>
全然関係ないですが、この方、文章旨いですね。
ほんとうに小学校中退のみなのでしょうか???
仮にそうだとしたら、そう言う方がこれほどの文章を書ける
当時の日本社会に&この方のその後の精進に感服します。
読んでいて、すらすら読めるんですよね。たらーっ(汗)
関係ないことを、すみません。明日以降に、其の三&其の四を載せます。
一気に読める方は、リンク先に飛べば仕舞なんですけどね(笑)。ダッシュ(走り出す様)
シナに日本人が14万人、オスプレイ配備しても全員救出は難しいでしょう。

通洲事件という歴史を忘れてはならないです。
ちょっと一息として、コメ11&12、に動画を掲示させて見ます。v

●1. 日本思想と中華思想の根本的相違    (岩倉具視使節団のお話の切り取り)
http://www.youtube.com/watch?v=W2pgxa9oksw
福沢諭吉の卓見性:

●2. 「脱亜論」 原文と現代語訳
http://www.youtube.com/watch?v=mssh51EvNS8
日本を含めて北東アジアの諸国、つまり日本+特定アジア3、を理解するのに、私たちは自国日本を含めて、へたに賢こぶって「今は昔と違うから・・・」という認識を持たないほうが良いでしょう。そういうカシコぶるかたのパターンは「自国に関して自虐史に何の疑問も持たず、特定アジアに関しては”日本が悪うございましたすみません”姿勢」を死ぬまで続けるわけですから。民族のDNAというのは不変と考えてよいと私は見ています。日本は約束をしっかり守る民族。特アは、己の利のためには約束なんて在って無きが如しの民族。もちろん歴史認識に関しても人様の命に関しても同様。

マイミクさんのつぶやきで次のようなのを見ました。法倫功系の「新唐人TV」の記事⇒これが現代中国。 【女子大生二人 腎臓を盗られ死亡】http://www.ntdtv.jp/ntdtv_jp/society/2011-12-01/428766383178.html &このマイミクさんは、つぎのキーワード 検索結果が興味深いと追加コメントを書いている。

なくならない中国の人食い文化 知られざる危険な中国産
⇒http://ameblo.jp/margarita01/entry-10188393791.html

このつぶやきsにどなたかが次のコメントを書いていた。
⇒大陸に関しては1000年前の人間が携帯とPCもってる国、てのは正しい認識と思います。文化大革命の時にも散々人肉パーティーをやってたみたいですね。南京の暴虐も実は大陸の連中がやった蛮行を日本軍になすりつけて残虐だなんだと怒ってるようです。処置なしです。。。
コメ14のような心象を受けて、次のミク日記を今日書きました。


題:クズをけなすより、自らの理解に努めると、心を鎮められる。

日記本文:(下記ミクニュース、引用日記)
■中国公船5隻が接続水域航行=「パトロール業務」と応答―海保警戒 (時事 29日 20:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=2204574

まずは己自身を知ることですよね。それを知りもしないから野蛮人が吼えるとすぐに揉み手をして「ここはどうぞ丸く治めて下され。ついてはこういうものを手土産に盛ってまいりましたので」とのクズな対応に終始し続けるのですよ。で、彼らを増長させ続ける。

まず、中共を何故シナと呼ぶか。
それは「秦(しん)」からきているようです。 
『万里の長城』を造った『秦の始皇帝』の秦です。

『万里の長城』(wikipedia)より:
秦の始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E

英語では「支那」を「China」と書きます。 
この綴りでラストの「a」がなければ、
日本人でも「シン」って読めますよね。

で、面白い動画と出会いましたのでご覧下さい。2本で1パック。 題して、
『国家「君が代」の本質、日本人の宗教観、日本における皇統&天皇』

●権威ある天皇1
http://www.youtube.com/watch?v=vrX0ZZwcgzk

その2は、次のコメに・・・。(動画貼り付け数制限=1動画/1コメ なので)
●権威ある天皇2
http://www.youtube.com/watch?v=HlKFGvCihEk


&すでに貼り付け表示しましたが・・・。
●1. 日本思想と中華思想の根本的相違
http://www.youtube.com/watch?v=W2pgxa9oksw#t=2m10s
●2. 「脱亜論」 原文と現代語訳
http://www.youtube.com/watch?v=mssh51EvNS8
初めまして。
今日は、通州事件の日。
コミュニティ検索で検索してこちらを見つけたので、参加させて頂きました。
支那は今でも国内外で虐殺と隠蔽を繰り返しています。
日本でも支那人による強盗虐殺事件がありマスゴミによって隠蔽されたと聞いています。
中国人移民が沢山入ってくれば東京大虐殺は現代の通州事件として現実のものとなります。
通州事件は決して過去の事件ではない事、プロパガンダによって隠蔽され南京大虐殺捏造に悪用され続けた事を世界中に知らせ、日本人が決して忘れてはならない事件として啓蒙しなければならないと思います。

支那朝鮮人と反日の悪意によって今も隠蔽され貶められ傷つけられ続ける被害者の方々の魂が本当の意味で成仏される日はまだ先だと思うと同じ日本人として大変悔しい気持ちです。

通州事件によって非業の死を遂げられた方々のご冥福をお祈りします。


虐待されるウイグルの少年と、それを見物する中国人たち。

通州事件の目撃証言でも中国人達はその光景を見物していました。
彼ら中国人の残虐さは何一つ変わっていません。

彼らにとって虐殺は愉快なゲームであり、そのゲームを実行するチャンスを欲している。
日本がどんなに友好的に接してもその全ては無駄でしかありません。
何をしてもしなくても、彼らは単に虐殺という楽しみを実行したいだけだから。
見物する中国人達にとってもまた愉快なショーでしかない。
この残虐性は日本人の想像を絶するものであり、ハイエナが死肉を食らうように彼らの生存本能のようなものです。

なぜ東トルキスタンは地図から消えたのでしょう。
なぜチベットは奪われたのでしょう。
強かったはずの満州人が満州国を失ったのは。。
内モンゴルが奪われ少数民族が弾圧され人権が踏みにじられているのは。

その全ての理由は

集団的自衛権行使ができなかった。
強い軍隊を持っていなかった。

その為に東トルキスタンは侵略され、このウイグルの少年がこんな目に遭う事もなかった。
ウイグル人やチベット人、満州人、内モンゴル人の子供達は中国人に拉致されては人身売買され泥棒や児童買春などを強要されたり麻酔もされず生きたまま臓器を抜かれたりして苦しみと恐怖の中で死んでいきます。

虐殺は隠蔽され、買主に泥棒を強要された少年は中国人の大人達にリンチされ、いずれ虐殺されていきます。

通州事件は決して過去のものではありません。

彼らの残虐性は今も変わる事が無いまま、日本にどんどん入ってきて住み着いています。
それに加え、様々な国から祖国に居られなくなった凶悪な犯罪者達も潜伏し、日本人大虐殺の処刑人はどんどん増加していきます。
もし仮に集団的自衛権を行使できて、国防軍を作り強化しても、彼らを強制送還しなければ、日本政府は日本人の命を守りきれないでしょう。

7月29、30日、通州で日本人が凄惨な虐殺をされました。
亡くなられた霊を弔うには、亡くなられた方々の連名を刻んだ慰霊碑と、二度と日本人がこんな酷い殺され方をしない国創りが必要です。


ウイグルの現状が日本の未来にならないように願います。

侵略された後、虐殺されてもその事実は隠蔽されます。

ネットが普及して通州事件の真実が暴かれるまで、

通州事件そのものが隠蔽されたように。

通州事件は南京や慰安婦の捏造に長い間利用されました。

その事実を隠す為、通州事件も隠蔽され続けました。

日本に必要なのは日本人を虐殺した朝鮮人を讃える記念碑でしょうか?

日韓併合に反対し誰よりも朝鮮半島を思い遣った伊藤博文を殺した朝鮮人を讃える記念碑でしょうか?

いいえ、違います。

通州事件の被害者の慰霊碑こそ日本に必要なものです。

日本政府が責任を持って日本人の命を守らなかった事実がそこにあり、それは戦前も戦後も変わらなかったからこそ、拉致事件は起きた。

歴史は繋がっています。

どんなに残酷な現実でも、その現実は尊い命と引き換えに日本に教訓を与えたはずです。

二度と日本人虐殺を許してはならぬという教訓を。。

日本政府はこの教訓を胸に日本人を守る為の政治を行う責務があります。

7月29日には、多くの日本人が通州事件の犠牲者に黙祷し、政治家達が同じ過ちは繰り返さないと慰霊碑に誓いを立てる日でなければなりません。

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