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キリスト教と聖書 祖父の考えコミュのキリスト教の本質10 聖書はだれに宛てて記されているのか

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聖書は誰に宛てて記されているのでしょうか。
聖書は、聖霊様に満たされた経験をもっている特定の信徒に宛てて、記されている書物でありました。
それですから、聖霊様の満たしを受けてから、読むことができる書物であるのです。
エゼキエル36:27『わたしの霊をあなた方の内に授け、わたしの掟に従って歩ませ、私の定めを守り行わせる。』と約束されていました。この約束は主が主導権を行使して、私たちの霊性と信仰を成長そしてくださる約束でした。
主の定められた掟は、主に全てを委ねてゆくことでありました。
『御霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が全うされるためです。
』ローマ8:4。
『あなた方の(御霊に満たされている)肢体を、神に受け入れられる神聖な生きた供え物として献げなさい。それこそあなた方の霊的な礼拝です。』ローマ12:1。と記されているのです。
これらの聖句は、聖霊様に満たされている人に約束されていました。聖霊様に満たされていない人は、このような聖句を守ることはできないのです。
 聖霊様に満たされている人の霊は聖霊様と一体になって、聖霊様の導きに委ねてくのです。聖霊様の満たされていない人は自分の自由意志で自分の体を用いるのです。すると人間の肉の自我が働くのです。
 人の肉の自我は罪の働きをしてしまうのです。




旧約聖書には、ヘブル語とアラム語で記されている聖書とギリシヤ語で記されている聖書がありました。
ヘブル語とアラム語で記された聖書は、西暦紀元前440年頃エズラの指導の基いて、モーセ5書に士師記、列王記、歴代誌、預言、詩編、哀歌、箴言などが追加されて編纂されていました。
 イザヤ、エレミヤ、ダニエル、エステル、エズラの時代に(西暦紀元前730年頃から450年頃)アッシリヤ帝国からパビロニヤ帝国、ペルシヤ帝国、ネブカデネザル王、クロス王、アハシュエロス王などの時代に、北王国のイスラエル民族はこれらの国に、強制移住させられていました。そして民族が独立できないように、広大な帝国内の街々に少数づつ分散させられて居住していました。
 そしてその街の部族語を使って何代も生活してゆくようになり、ヘブル語もアラム語は死語となりました。

 南王国のユダヤ民族の王室の一族と、高官とエリートたち一万人は、強制移住させられていました。エリートたちは行政についての教育訓練を受けていました。ダニエルと三人の青年の博学は、帝国内の青年たちの群を抜いていました。
 そしてユダヤ国家として民族が独立することは許されませんでしたが、エズラとネヘミヤの時代にユダヤ教の礼拝は許されることになりました。

 西暦紀元前320年頃アレキサンダー王の時代にギリシヤ語が当時の世界に普及していました。西暦紀元前240年頃エジプトのブトレマイオス2世の時代に、ユダヤ人の長老72人がアレキサンドリヤに招かれて、ヘブル語からギリシヤ語に翻訳されたギリシヤ語旧約聖書が作成されました。
 祭司たちはギリシヤ語を学び、ヘブル語旧約聖書からギリシヤ語旧約聖書を解き明かしするために、広大な帝国内を巡り旅行してゆきました。旅人を丁重にもてなししなさい。という教えは、このような祭司たちをもてなすことを意味していました。
キリスト教の伝道活動は、祭司たちの伝道旅行を引き継いでゆくことから始められていたのです

 強制移住させられたイスラエル人とユダヤ人の子孫は、ギリシヤ語旧約聖書によって自分の民族の信仰を回復することができるようになりました。
 ペンテコステの日には、祭司たちによって教えられたイスラエル人とユダヤ人の子孫たちが祖先の国に巡礼者として帰っていたのです。
 初代教会時代の旧約聖書はこのような背景をもっていました。
このように詳しく歴史を記したのは、強制移住させられたイスラエル人とユダヤ人の子孫は、何代も他国のギリシヤ文化の中で生活していたために、ギリシヤ語聖書が記しているヘブル文化の考え方を理解するのは、大きな戸惑いがあったに違いありません。
 
 ラビと呼ばれた祭司たちは、ヘブル文化の生活を理解させることに熱意と忍耐と労苦を惜しまなかった伝道旅行であったことでしょう。それは現代日本の教会が抱えている問題と同じでありました。

 ギリシヤ文化では、人は善い性質と善い心と、悪い性質と悪い心をもって生まれている。悪い性質も悪い心も、善い教育をすることによって、善良な人格者になることができる。という考え方をもっています。それはギリシヤ文化の考え方であります。これは性善説と言われている考え方でありました。

 イザヤ・ペンダサンは、それが日本人の基本的な教えであり、
日本教の宗教はそれを基本にして説いていると記していました。
 日本では『和をもって尊とする。』という思想があります。そのためにとにかく難しいことを言うのは止めて、皆が仲良くしてゆこうではないか。と言う考え方が優先されるのです。

自分が褒められること、教会が褒められることをみんな仲良くしてゆこうではありませんか。
伝道することは良いことです。自分が褒められるし、教会の働きが褒められるので良いことだと考えているのです。
私たちは人の手助けをすると喜ばれるので、神様の手助けをする伝道をすると神様に喜んでもらえると思っているのです。

神様は全知全能のお方ですから、何事も人に手助けしてもらう必要はないのです。福音伝道は神様が行われる御業なのです。

神様は、聖書が記している原理や法則や救いの条件を制定し適用して、私たちを救ってくださいます
従って、私たちは聖書が記している原理や法則や救いの条件を理解しておく必要があります。それはヘブル文化の考え方に基いて記されているのです。

 キリスト教の救いを理解してゆくためには、特に、神様が人に魂を創造して与えられたことを知っておく必要があります。
創世記1:26に『我々に似せて人を造ろう。』と仰せになったことは、2:7に『神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれた。そこで人はいきものとなった。
(そこで人は魂をもつ者になった。英語訳。)と記されていました。
 魂と言うヘブル語の意味を、新改訳聖書辞典を参考にして調べてみました。ヘブル語では、神聖な霊と神聖な永遠の命と、神聖な性質と心と良心と肢体を一体として創造されていたと、言う意味になっていました。

 私たちの肢体の中には、神聖な霊が命と性質と心と良心を導く原動力として働いています。
人が自分の思う通りにしたいと思うと、神聖な霊が働きを停止するのです。それは神様が人の意志を尊重されて、人の思う通りに肢体を用いることを人に譲られるからです。すると、人は自分の思う通りに行動して罪を犯してしまうのです。 

 私たちは自由意志をもっています。仏教に代表される日本の宗教と、倫理哲学は人の意志の働きを重要視しているのです。私たちの自由意志は肢体の善悪の行動を決定する力をもっているのですが、24時間罪に対抗する力はもっていないのです。
 意志は、罪の性質に24時間支配されると、体力も気力も尽きてしまい、罪の思うままになるのです。
 ギリシヤ文化の宗教と哲学論理と倫理哲学は、罪の性質に支配されると、罪の奴隷に化してしまうのです。
 パウロは、哲学を空しい騙しごとであると言い切ったのです。

ローマ8:2に罪と死の原理が私たちの内に働いていることを記していました。その原理はlawと英語で記されていました。
 lawとは、24時間働き続ける法則の力を意味していました。
つまり、私たちの内には罪の性質と心が24時間肢体を支配して、私たちは罪の奴隷とされていたのです。
自由意志は肢体の思考能力と言語の器官と視聴覚の器官を働かせるのですが、罪がその機能と器官が24時間支配しているため、罪の奴隷となって罪を犯させるのです。

私たちは、聖書を一般の書物と同じように読んでいますが、ユダヤ人は神聖な書物として読んでいました。その伝統はキリスト教も受け継いでいました。
私たちはガラテヤ5:22の御霊の実を仏教の戒律と同じように理解して読んでいます。しかし、私たちは神聖な愛、神聖な喜び、神聖な平安、というように、神聖という定冠詞をつけて読んでゆくとき、正しい読み方をしているのです。

日本語聖書には、神聖と言う文字が記されていません。ヘブル語聖書もギリシヤ語聖書も英語聖書も神聖と言う言葉を記しているのに、日本語聖書では、聖とか、聖なると翻訳されているのです。
英語聖書を読んだ人が、なぜ、日本では神聖と翻訳していないのですか。と質問されると、目を白黒しなければならないのです。
ヨーロッパやアメリカでは、クリスチャンとは神聖な人である。と聖書は記しているのですが、日本人のクリスチャンはそのような意識をもって読む人はごく少数なのです。
そのことは私たちの霊性のレベルの問題なのです。

私たち日本人は、聖書は現在自由に買い求めることができますので、全人類のために聖書は記されていると思っています。
しかし、聖書は、聖霊様に満たされた経験をもっている特定の信徒に宛てて、記されているのでした。
それですから、聖霊様の満たしを受けてから、読むことができる書物でありました。
エゼキエル36:26〜27。


1コリント2章では、御霊の啓示を受けて聖書を読んでゆくようにとパウロは記るしていました。
『神の御心のことは、神の御霊のほかに誰も知りません。.....
私たちは....神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。』11〜12。
『御霊のことは(神様のことは)、御霊によってわきまえるものだからです。』14後半。
『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、悟ることができないのです。』14前半。と記されていました。

私たちに御霊様が与えられる目的は、神様ご自身のことについて知るためでありました。
日本語聖書だけを読んで、本当の救いを得ることは困難なことです。聖書はヘブル文化の考え方を適用して読まなくては、救いについて理解することは不可能だからです。

キリストは、『悔い改めて福音を信じなさい。』と言われました。
日本人は悔い改める。と言う意味を知りません。クリスチャンであっても同じではないでしょうか。
 悔い改めることは、心を変えることです。と説明されています。
多くの日本人は、命の中に善い心と悪い心が同居していると思っています。ヘブル文化では、命が換えられなくては心を換えることはできないという定義があります。
 命の中に善い心と悪い心が同居しているという前提をもっていると、心を変えることは悪い考え方をしなければよいのだ。ということになります。
 ヘブル文化では、命と霊と性質と心は一体として造られているという定義をもっています。
ギリシヤ語には、ゾーエー言う神様と同じ命と、ビオスという植物と動物の命があると記していました。アダムは造られたときゾーエーの命を与えられていました。罪を犯したときビオスの命に変化したのです。
救いとはビオスの命から、新しくゾーエーの命に換えられることを意味していました。それは人のビオスの命が滅ぼされて死んで葬られてから、ゾーエーの命が与えられることを意味していました。
命が換えられなくては心を換えることはできない。ということは命が換えられなくては心を換えることはできない。ということは
(ここでいったん途切れています。内容の確認がとれ次第編集しようと思います。)

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