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キリスト教と聖書 祖父の考えコミュのキリスト教の本質9 御霊と人の霊について

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御霊と人の霊について
キリストは『命を与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなた方に話した言葉は霊(御霊)であり、また、命です。』と言われていました。ヨハネ6:63。
 この聖句から私たちは霊について考えさされるのです。
命を与えるのは御霊(プニューマ)です。肉は何の益ももたらしません。わたしが話した言葉は霊(プニューマ)です。また、命です。
と記されていました。
 ギリシヤ語では聖霊様も人の霊もプニューマと記しています。英語では聖霊様をSPRITと記し、人の霊をspritと記すことがあります。それは聖霊様と人の霊を区別することに役立ちます。
 御霊から生まれる者は霊です。ヨハネ3:7。と日本語で翻訳されているのは素晴らしい翻訳でありました。
 ギリシヤ語のプニューマは、神様の霊と人の霊が一体となることを意味していました。創世記1:26に『我々に似せて人を造ろう。』と主は仰せになっていました。神様が御霊であられましたから、私たちにも霊を与えてくださっていたのです。救いとは神様が霊的に三位一体となられていたように、私たちを霊的に一体としてくださることを意味していたのです。
 キリストは『父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らが皆一つとなるようになるためです。また、わたしたちにおるようになるためです。』と御父に祈ってくださいました。ヨハネ17:21。
 私たちは聖書の知識やストーリーや教理や原理や伝統行事を知っていても、霊が与えられなくては神の国に入ることはできません。
そのために神様は御霊様を与えてくださるのでした。『神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神の内におり、神もわたしたちの内におられることが解ります。』1ヨハネ4:13。
 この聖句は、聖霊様の満たしによって霊的に一体とされた経験が私たちの霊と肢体に与えられることを意味していました。






 さて、人は経験していないことを理解することは大変困難なことであります。聖霊様の満たしに導くことができるのは、聖霊様に満たされた経験をもっている信徒だけです。
 聖霊様の満たしを経験していない人は、どんなに地位が高くても、
(ここで途切れています。また確認がとれれば書き加えようと思います)



 そして聖霊様が私に代わって、イエス様に執り成しの祈りをしてくださるお方であることを知りました。イエス様はその祈りを現実にされて御父の栄光を現されることを知りました。
 私にこのようなキリスト教の霊的な世界があることを、主の啓示によって知ることができました。
 現在のキリスト教は、聖書の知識教育によって、信徒の信仰を育てようとしています。その方法はギリシヤ文化の教育方法でありました。日本の宗教はギリシヤ文化の教育方法で教えを説いているのです。
 日本の宗教は、知識が優先され哲学と倫理とある程度の地上の法則(四季の移り変わりを見て、仏教は輪廻転生説を生み出しました。)が働くことを教えています。
 知識を優先する教えは悟りを開くために必要な学問となっています。
聖書は、『自分の悟りに従ってはならない。主から与えられる御言葉に従いなさい。』と教えていました。信徒はレーマと言う御言葉を通して悟りが与えられ、信仰が与えられるからです。
 そのことは日本の宗教とキリスト教の信仰を育てる方法が根本的に異なっていることを教えられるのです。
 キリスト教の信仰は、神様からの賜物であります。それですからキリス
ちは、救いの福音を伝えて聖霊様に満たされる経験に導いたのです。それは聖霊様によって御言葉が解き明かされて悟りが与えて信仰が生まれるからです。
 しかし、現代のキリスト教の入門講座は、聖書知識の習得が優先されているのです。そして、洗礼式の時に「あなたは、父なる神とキリストと聖霊様を信じていますか。」と聞かれると、『はい。信じています。』と言えば信仰があると認められるのです。そのとき『信じています。』と言う意味は知識として知っています。ということでした。
 多くのクリスチャンは、多くの聖書知識をもっていますが、神様と霊的な人格との交わりを通して、神様を知っているのではないのです。 
 キリスト教は啓示の宗教ですから、信徒に啓示を受ける方法を、神学校の教育課程で教えられなくてはならないのです。しかし、教授が知らなかったら神学生に教えることはできないのです。それがキリスト教の本質を失わす原因になっているのです。

 聖書は、私的解釈をしてはならない。と記しています。私的解釈とは「生まれつきの才能を用いて、聖書解釈をしてはならない。」と言う意味です。
 私たちは聖書研究をするとき、生まれつきの才能を用いて聖句の意味を解釈するのです。するとアダムの罪が私たちを支配してしまうのです。マルチン・ルターは、人の自由意志はアダムの罪に支配されて、(24時間)罪の奴隷となっているのです。と説いていました。
私たちは自由意志を純粋だと思っているのです。しかし、ローマ8:2によると、罪と死の原理(24時間働く罪の法則の力)が私たちを支配していることを記していました。その罪から解放してくださるのはキリスト・イエスにある命の御霊(イエス様と一体になって働く聖霊様)でありました。
 人の知恵と聖霊様の全知全能の力は天と地ほどの差があることを私たちは考えようとしないのです。そして人の才能の力に従ってしまうのです。また、ギリシヤ文化とヘブル文化の前提と根本的な解釈は異なっているのです。
私たちはギリシヤ文化の教育を受けているので、ギリシヤ文化の考え方で御言葉を解釈してしまうのです。それが私的解釈となるのです。
すると、本当の聖書研究はできないのです。
パウロは、1コリント2章で主の啓示による御言葉の解き明かしを受けて、正しい解釈を知ることが基本的な聖書の読み方であると薦めていました。

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