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タイ仏教コミュの第三十三項、四聖諦を見る

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対岸が見えず、海の中で漂流している人は依然として波にもまれ浮き沈みしている。
目標もなく、いつ岸に上がれるか分からない。
聖諦が見えない人は、苦海の中、生死が輪廻し永遠に終わりを見ない。

仏教のテーマ
各々の宗教はみな自らのテーマを提唱しています。仏教のテーマは四聖諦です。

四聖諦
四聖諦は高尚な真理と説明できます。またこれを見ることのできた人は、高尚な人の真理になると説明できます。

四聖諦は実際に世間に存在します。ただ誰にも見えません。仏陀が無上の正覚を悟り、各種の真理を知り、眼にすることができ、悟ることができた後、我々のために指摘した秘密とはすなわち

(1)苦諦(くたい):体や心が感じた数々の調子の悪さ
(2)集諦(じったい):もろもろの苦を生みだす原因
(3)滅諦(めったい):苦を滅すること
(4)道諦(どうたい):修行により到達した苦を滅する方法

もし、苦と病痛を比較すると
苦諦はすなわち、病状です。
集諦はすなわち、細菌あるいは病原菌
滅諦はすなわち、病気が治癒し、元気になったことです。
道諦はすなわち、病気を治す薬物です。

世間の人はみな苦痛があります。それは患っている病人のようです。しかし何の原因で病気になるか知りません。またどのように治癒または苦を滅するかを知りません。

四聖諦の中の苦諦
苦は体と心のすべての調子の悪さを指します。仏陀は衆生がみな苦痛の中に落ち込んでいることを発見しました。貧富あるいは尊卑、富豪、首相、社長、国王もみな、それから逃げることはできません。違うのは苦の程度が等しくないだけです。この他自分が十分に智慧を持ち苦の問題ははっきり見るかどうかです。仏陀は苦には大きな11の原因があると指摘しました。これらを2つに分ける事ができます。

それは以下のとおりです。
(一) 自性苦:逃れられない苦です。衆生が生来兼ね備えた自然の現象です。3種類あります。

それらは
(1) 生
(2) 老
(3) 死です。
  
仏教を学んでいない人は、そのうち最も多いのは、老と死は苦であると言えるだけです。しかし、生もすなわち苦なのです。母の胎内にいるときすでに苦を受けています。
生まれる時、子宮により圧迫され、もともと円形だった頭が圧迫により楕円形になります。大変苦痛が大きいため、生まれての第一声は五臓六腑を引き裂く苦痛の鳴き声です。それは本当の痛みです。生はすべての苦の根源です。もし再び生まれないなら、すべての苦もまた再び生まれません。

多くの人はみな、老いの苦脳は60から70歳になって初めて起きるものだと誤解しています。実際は生まれたその瞬間から始まっています。我々とその体内の細胞は老化が始まっています。老いの苦脳は生まれたその時から始まっています。その後だんだん重大になってきます。この一点について、我々は最初から認識しなければなりません。

(一) 数々の苦:各々の体の上に生じます。しかし程度は同じではない苦です。この苦は心の免疫も効果がありません。外から入って来るすべての原因の侵入に抵抗できません。智者は心を訓練し、心の苦を減らすことができます。心の苦は8種類あります。

(1)悲哀:例えば、新生児を仕事に連れて行けず、託児所やメードに預けざるを得な
い母の味気なさ。
(2)涙に駆り立てる悲嘆
(3)病、けがの痛みから来る苦痛
(4)些細なものが肩に触れた時、異常にそれに反応し、腹が立ち、恨みさえ抱く。
(5)絶望:成功の望みを諦めた時の苦しみ。
(6)憎悪:気に入らない、好きでない人や光景を見た時感じる嫌悪感。
(7)別離・喪失による悲嘆:愛している人、物との別離または喪失による悲嘆。
(8)失望:欲しい物が得られないことによる不快感。

仏陀は偉大な名医です。我々のためにはっきりとすべての苦を診断し、その後で薬を処方してくれました。
 
聖諦はすなわち世の人が知らなければならない苦である。

四聖諦の中の集諦
集諦とは、すなわち上記のすべての苦の原因です。修行にまだ精通していない人は苦の病根を探すことができません。通常は、思いついたことについて、文句を言うだけです。
天帝の課した叱責としての罰、すべての鬼の制裁だと思います。しかし悟りを開いた仏陀は智慧の光ではっきりと我々を照らし、我々の苦の原因は欲(経典の中では愛の字を使います)だと述べています。すなわち我々の心の中で思い至ることのできるあの欲望は3つに分類することができます。

(1) 欲愛(よくあい):得たいと思う心や欲の感情。例えば、金銭や財物、金銀、楽しみ、愛人、他人の賞賛を得たいと思うこと。ここの欲愛は、色、声、味、触覚、感覚の方面の満足を得たいと思うことを指します。
(2) 有愛(うあい):ある人になり、ある地位に就きたいという強烈な欲望です。例えば、首相や将軍になりたいということなどです。
(3) 無有愛(むうあい):ある種の状況が自分の身の上に起こってほしくないと考える願いです。例えば、貧乏になりたくない。体が弱く多くの病気がある、年をとりたくないなどです。

我々一人ひとりは欲(愛)があります。欲の海の中に浮き沈みし、すでに欲望の存在に慣れています。それを友とし、それが無い人生は味を失ったようにさえ思います。しかし欲望は偽りの友で、我々に苦痛をもたらします。自分はひそかに傍らに立ち得意げに笑っています。

集諦はすなわち惜しまず投げ捨てるべき苦である。

四聖諦の中の滅諦
滅諦はすなわち、苦を滅することです。心は徹底的に煩悩を断ち切り、欲望の全くない心の自然は煩悩がありません。心の静止は体の中心点にあり、満ちあふれる幸福を感じます。

瞑想修行がとても浅い、あるいは修行の方法が間違っている人は涅槃を悟ること、
本当に苦痛から脱する感覚を体得することはできません。天界に往生し、そこで幸福、すなわち苦痛のない境地を享受することができると誤解しています。事実上、たとえ天界に上がっても、まだ色界にいるに過ぎません、六層の天界の上には、更に十六層の色界天があります。この上には更に四層の無色界天があります。これらはまだ、苦痛を脱しない天界です。
もし本当に苦痛を断ち切りたかったら、完全に欲望が無く、煩悩のない涅槃の境地まで修行をするべきです。

滅諦は世の人が修め、苦を滅する光明である。

四聖諦の中の道諦
道諦、すなわち苦を滅する修行方法です。神を信仰する宗教は苦痛の原因を見出せません。
苦痛は超自然的な力あるいは天帝による処罰だと思われました。このため探し出した方法は間違った方法でした。つまりマラリアにかかった病人がこの病気にかかったのは山中の幽霊による処罰であると告げ、この後彼に山中に行き、幽霊を祭り拝み治癒を求めるようなものです。もちろん我々はこれがもともと正しい方法ではないことを見破ることができます。

仏陀は高名な医者で、病気になる原因をはっきりと見ることができます。その後我々に、苦や病気になるところが完全に欲望(まるで細菌みたいです)によることを指摘します。もし治癒したかったらこの病原菌を取り去らなければなりません。仏陀はわれわれに病気を取り除くよい薬を与えてくれます。それが道諦です。つまり、修行により、心を静止させ、苦痛を根絶することができます。このため八種類の方法で修行することが必要です。

(1) 正見:最も基本は正確な観念の認知です。例えば父母は子供に対して恩があること。
善因を植えれば必ず善果が得られること、悪因を植えれば必ず悪い報いを得ねばならないこと。過去世や未来世が存在することなどです。更に、正確にもろもろの苦の原因、苦を滅する道を見ることができます。

(2) 正思:正確な考え方があることです。欲望の絡み合いから脱しようと思ったら、憎まず、恨まず、他人に煩悩を与えず、他人を傷つけないことなどです。

(3) 正語:嘘を言わず、他人にデマを言い傷つけず、他人を中傷せず、自分を誇示せず、他人をけなさないことなどです。

(4) 正業:正しいことや仕事をします。殺生をしない。盗まない。梵行を修める。淫ら
な事をしないなどです。

(5) 正命:正しい仕事で生活を維持します。違法なことに従事しない、道徳に反する仕
事に就かないなどです。

(6) 正精進:勤勉な向上心があること、まだ起きていない悪いことを生じさせず。すで
に起きている悪いことを徐々に減らし。功徳を修め徳を積むことに勤しみ、今学んでいる法もだんだん進歩させます。

(7) 正念:くだらないことを考えさせず、はっきりとした意識を保ち、時々、心の中の
法身、苦中の苦、法中の法をイメージします。

(8) 正定:心を体の中心点に静止させます。禅定は一歩一歩向上します。色界にある禅心を超世境の境地まで引き上げます。

仏陀の道諦は、もし更に深く説明すると、すなわち仏教の中の「八万四千法蘊」、仏教の中心教義である三学です。

戒学:すなわち、正語、正業、正命
定学:すなわち、正精進、正念、正定
慧学:すなわち、正見、正思
です。

これらの八正道はきちんと修行する必要があります。これは瞑想修行の時、行うことができます。このような修行は、我々に四聖諦に至らせ、苦痛から脱しさせます。これが道理のある修行方法となり、どの神に祈りを求める必要はありません。
 
四聖諦は我々が学ぶべきもので苦を滅する聖道である。

四聖諦を見る
ここまで読んで、我々は何種類もの苦痛があるか、どんな苦痛が、これらの苦痛の原因と苦を滅亡する道を招くかを知っています。または八正道の解脱の方法を学ぶことも知っています。しかしこれは四聖諦を見るとか見えるとは呼ばず、暗誦したと言えるだけです。
四聖諦が見えるとか見るということは、おのおのの聖諦がみな3回ずつ、見えるあるいは見ることで、つまり、全部で12回見るまたは見えることです。これがいわゆる「四聖諦三転十二形相」ということです。

四聖諦を見るということは他の物を見ることと違います。つまり、もし「見える」ことは「できる」ことです。例えば、集諦。すべての原因―欲望―が見えると同時に、欲望を取り除かねばならないこと、どのように取り除くかを知ります。これは一種のとても純粋な考えと見方です。例えば薬ならこの薬を見ると同時に、この薬を飲まなくてはならないということを自動的に認識する。同様に、この薬はすでに服用したということを認識します。

仏陀いわく、四聖諦のいずれかを見ると、その他の三聖諦が見えます。例えば。苦諦を見ると、集諦、滅諦、道諦が見えます。もし集諦を見ると、苦諦、滅諦と道諦が見えます。これは肉眼で見ることができるのではなく、法眼で見ることができるのです。

四聖諦  一順目       二順目        三順目

苦諦   五蘊苦である    苦の原因を      私は苦を
               知るべし       すでに知っている
集諦  欲望はすべての    欲望は        私は欲望を
     苦の原因である    除くべし       すでに取り除いた
滅諦  欲望を除去する    滅諦は        私は滅諦を
               学ぶべし       すでに学んだ
道諦  八正道は滅苦の    八正道は       私は八正道を
     道である       努めて学ぶべし    きちんと学んだ


四聖諦を見ることができる人
(1) 凡夫:一般の欲望に満ちた普通の人。その中には善い人も悪い人もいます。
更に同じ人の体内に良い人と悪い人がいます。

(2) 種姓者:凡夫から聖人に仲間入りをした人。修行により種姓智を悟った人です。煩悩はすでに徐々に減少しています。まるで、左足が地球上にあり、右足が涅槃の中にあるようです。もし向上すれば、一歩一歩煩悩を取り除くことができ、きめ細かい染まらない境地に入ることができ、聖人となります。しかしもし、種姓者が更に瞑想修行に勤しまなかったら、すぐに後退して、欲望が依然として充満している凡夫に戻ります。

(3) 聖人:段取りよく煩悩、欲望を切り除き、完全に当惑から脱したはっきりとしたし修業者です。心はいつもよいこと、善良なことと強いつながりを持っています。永遠に三宝に帰依し、絶対に凡夫には後退せず、悪いこともしません。四つのクラスに分けられます:スダハン、シダゴン、アナゴン、アラハン。

四聖諦を見ることの利益
 
四聖諦は人間の肉眼では見ることができません。法眼でしか見ることができません。見た後、本当の世相が見えます。生命が一種の苦であると分かります。いわゆる楽しみは苦痛が減った時の一時の短い時間に過ぎません。我々は本当に功徳の価値、悪い考えの危険と面立ち、心についてより深い理解を認識します。

我々が間違ったことをした時、悪い考えがいかに心の中に芽生えたかを容易に見つけられます。我々は悪い考えがいかに我々の心を包み、浸食し、汚染し、ついには心を汚れた黒に変えてしまうことが見えます。それはほこりが付着した水晶玉を見るようです。

良いことをし、布施、持戒、瞑想をするとき、心が獲得した功徳により、純粋、明るくなるのが見えます。それは水できれいに洗った後、清潔に輝きを生じた水晶玉のようです。
このようにはっきりと見た後、心は自然に善の方向に向き、八正道を勤勉に学び、心の静止が明るい智慧を生み、世事の真相が見え、もろもろの煩悩が徐々に心の中から取り除かれていきます。そしてついには煩悩のないアラハンを悟り、苦海の生死の輪廻から脱します。
 
無数の世以来、我々は輪廻の苦海の中、四聖諦の真相を知るべくもなかった。そして今、我々は欲望がいかに我々を苦海の中に輪廻させるかを知った。我々は苦を根こそぎ取り去った。これから未来世はない。

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