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タイ仏教コミュの第二十二項、尊敬心

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あるものから利益を得ようとするなら、まず最初にその価値を理解しなければならない。
それと同じように、もし誰かから利益を得ようとするなら、まず、その人に対して尊敬の心を持たなければならない。

尊敬心とは何か

尊敬心とは、ある人の重要性について意識すること、その人に対して感激し、そのよさを認識し、そのよさに対して自然に敬意が生まれ、その後、恭しい言葉遣いや振る舞いで対応し、本人の面前でもいないところでも、常に尊敬心を示すことです。
世界のすべてのものはみな、自己の特質を持っています、もし、我々がこれらの特質を認識すれば、ここから利益を獲ることができます。磁石のように人間も磁石の特質を認識した後、それを使って電流を生み出しました。レーザーの特質を知った後、それを使って癌の治療を行いました。しかし、万物の特質が大変難しいことを認識しようと思ったら、それは知識のある専門家あるいは哲学者の仕事です。

人間も同じです。一人ひとりがみな、各々のよさを持っています。そのよさの量は一定でなく、多かったり少なかったりします、それは人間が各々違うからです。もし本当にこれらの人々のよさを認識すれば、必ずその中から利益を得ることができます。彼らのよさは自らの体や心にもたらされます。しかし他人のよさを本当に認識することも難しいことです。簡単に言うと万物の特質を認識することより、もっと難しいことです。なぜなら、人間の心は煩悩におおわれていたり、その人を軽視する心、ないがしろにする心や傲慢な心を抱くことにより、その人の本当のよさが見えなくなります。こうなると、誰も良い人などいず、世の中には自分しかおらず、自らが一番ということになります。

こうした心が煩悩におおわれた人は、人を見る目がなく、うわべだけを見る人といえます。観察をせず、他人のよさを見ることができません。このようになると、その人のよさが自分の身にもたらされることの重要性が見えません。
このため、無限の知恵を持ち、他人のよさがはっきり見える智者は、大変特別な人です。なぜなら智者は自らの心を向上するだけでなく、自らの傲慢さや自尊心を超越し、心を開け広げ、他人のよさが自らの心の扉に入ってくることを歓迎します。このような智者が心に抱いているのが尊敬心です。

何に尊敬心を抱くか

日常生活の中で、我々と関係のある人、動物、物、事柄および仕事などは数知れません。これらの中で、仏教が必ずよく見なければならず、ないがしろにせず、軽視することないように教えているのは以下7つの人、物、事柄の重要性です。

(1) 仏陀を尊敬すること。
(2) 仏法を尊敬すること。
(3) 僧侶を尊敬すること。
(4) 教育を重視すること。
(5) 瞑想を重視すること。
(6) 油断しない心を尊敬すること。
(7) 客人の接待を重視すること。
 
仏陀を尊敬すること:仏陀の善、我々に対する無値(値のつけられないほど貴重な事)の教えを尊敬すること。それはすなわち、仏陀の無上の智恵、純潔、慈悲を尊敬することです。我々は次の方法で、仏陀に対して尊敬の気持ちを表すことができます。

仏陀の在世時、仏陀に対してこのように無上の尊敬心を示すことができました。

(1) 一日3回、朝・昼・晩、仏陀に拝礼します。
(2) 仏陀が座禅を組む時、靴を履かないように、我々も靴を履いて座禅を組んではいけません。
(3) 仏陀が低い場所で座禅を組むように、我々も高い場所で座禅を組んではいけません。
(4) 仏陀は低い所に座っているよう、我々は仏陀より高い所に座ってはいけません。
(5) 仏陀の視線の及ぶ範囲では、尊敬の心を表すため、両肩を布で覆ってはいけません。
(6) 仏陀の視線の及ぶ範囲では、靴を履いてはいけません。
(7) 仏陀の視線の及ぶ範囲では、傘をさしてはいけません。
(8) 仏陀の視線の及ぶ範囲では、大小の用を足してはいけません。

仏陀の涅槃後は、このように仏陀に対して尊敬の心を表すことができました。

(1) 機会があれば、必ず仏塔に行き、三拝すること。
(2) 機会があれば、仏陀の生誕、無上の正覚を悟り、初めて仏法の教義を説き、涅槃に入った土地に赴き三拝すること。
(3) 仏像に三拝すること。
(4) 本堂の中では、特に礼儀をただし、敬虔で恭しくすること。
(5) 仏塔の中では靴を履かないこと。
(6) 仏塔の中では傘を差さないこと。
(7) 仏塔の中では歩いたり、話したりしないこと。
(8) 本堂に入る前には、まず、靴を脱ぎ、傘をたたみ、恭しくない言動や行動を慎むこと。
(9) 仏陀の教えを日常生活の中で活用すること。

仏法を尊敬すること:仏陀の慈悲深い教えの無価を意識し次の方法で、敬意を表します。
(1) 常に仏法の説法を聞くこと。
(2) 仏法の説法を聞く時は、静かに真面目に聞くこと。
(3) 仏法の説法を聞く時は、居眠りをせず、そばの人と話をせず、妄想をたくましくしないこと。
(4) 仏教の書籍を低い所に置かないこと。
(5) 仏法を軽視しないこと。
(6) 仏法を伝授、ほかの人と仏法について話す時、特別に慎みを持って注意を払い、教え間違えたり、言い間違いをしないこと。

仏教の僧侶を尊敬すること:僧侶は仏教の智慧を引き続いて教える修行者で、このため僧侶の偉大さと重要さを認識し、以下の方法で敬意を示します。
(1) 礼儀正しく僧侶に三拝します。
(2) 僧侶の前ではきちんとした姿勢で座り、膝を抱えたり、ふとももを弓なりにしない。
(3) 僧侶が集まったり、会議をする場所では、靴を履いたり、傘を差したりしない。
(4) 僧侶の前では手足をむやみに動かさない。
(5) 僧侶の依頼がなければ、仏法の知識を勝手にひけらかさないこと。
(6) 僧侶の依頼がなければ、仏法の難題に答えるときは、自慢しないこと。
(7) 歩く・座る・立つ時、僧侶に近づかないこと。
(8) 僧侶を見る時は透き通った心で見ること。
(9) 供物を持って僧侶を供養すること。

教育を重視すること:教育を尊敬し、教育の無価を認識して真面目に学習し、仏法の教育あるいは世間の教育を深く、学び、これに精通し、全力を挙げて、これを支持します。

瞑想を重視すること:瞑想の無価を認識して、規律ある真面目な修行を行うこと。怠けず、油断しないこと。なぜならば、瞑想は善行の基本であり、修行者に本当に仏法を悟らせるからです。仏教の中心教育は三学すなわち戒・定・慧です。仏陀いわく、戒は容易に心を静止に変えることができ、静止は、智慧を生むことができ、智慧は我々に涅槃を悟らせることができます。このため、我々は戒律を守ること―持戒は悪い考えを作らず、濁っていない心は容易に静止し、智慧は静止の中に展開します。静止と瞑想は、まさに一切の善行のポイントであり、悟りに至る道なのです。
 
すべての僧侶は静止に勤しむこと、静止の心だけが一切の真相を見ることができるのです。
 
ある人は、仏教の書籍を読みあるいは仏法の説法を聞くことで仏法を悟ることができると思っています。本当のところはこんなに容易なことではありません。このような方法で仏教を学んでも、たとえ読んだ仏法について事情に通じてたとしても、読んだ仏法をすらすら暗誦できたとしても、本当の仏法を悟ることはできないのです。このようにして得た仏法は仏教の基本知識に過ぎず、明るい智慧の光球を生み出すことはできません。これは真面目に瞑想修行することによってようやく得られるものなのです。

またある人は瞑想は余計なふるまいで、時間の浪費だといいます。このように仏法を見る人とは絶対に交わりを結ぶことはできません。なぜならば、このようなことを言い、このように考える人は、疑い無く自らを高め、仏陀よりも賢いと思っているのです。
 
油断ない心を尊敬すること:仕事をするとき、すっきりした心が背後で自らを支えていることの重要性を意識すること、また瞑想に勤しむることによる静止は、油断のない心に対する敬意を表すのです。
客人の接待を重視すること:こうすれば敵を作ることありません。生活の中で我々はすべてのことで人を満足させることはできません。客人を重視することは、裂け目を補い、人との友好を確立します。その方法は

次の二つです。
(1) 物・物品で接待します。例えば、食事、水、良い接待、客を待たせない。
(2) 仏法で接待します。客と仏法について話を行う。互いに交流し、客人に仏法を紹介します。
 我々自身が客人を接待することを重視する他、家人もまたどのように客人を接待するかを理解しなければなりません。さもなければ、すべて心をこめて行ったことも水泡に帰すことになります。次のようなケースはよく起こります。名声のある高級公務員はどのように客人を接待すればよいかを理解しています。しかし、そのことを家人に教えていません。家の子供や使用人が無礼な物言いをして、客人を怒らせ、憎み、恨みを抱かせ、主人が背後でそうするよう指示していると誤解させます。この後、客人は報復しようと思います。主人は相手がどうして自分を敵視するか全く分かりません。

世間には人や物があふれています。しかし仏陀が特に尊重し、重視しなくてはならないと教えているのは上記の七つの項目です。

―仏陀、仏法、僧侶、教育、瞑想、油断しないこと、客人の接待−
それができれば、我々ははっきりと完全にその人とその物のよさを見ることができます。これまでの他人を批判する悪い習慣もゆっくりと改善されていきます。他人の良いところだけがみえるようになります。そして最後には、他人の悪いことを考えれなくなり、良いところだけが思い出されます。その結果、我々自身はすべての良いことが交わる場所となります。海がすべての水が交わるところであるのと同じです。

尊敬を表す
尊敬を表すことは、尊敬する人や物の本当のよさや利益のあるところを認識することで、純粋な心・口・意により、尊敬し敬意を表します。尊敬する人に道を譲る、立って迎える、席を譲る、話をする時、尊敬の意味を込めて、合掌する、ひれ伏して拝む、敬礼をする、何かをする時、相手の同意や許可を求める、旗を降ろす、銃をささげる、軍隊の敬礼をする、礼砲を放つなどです。
 尊敬を表すことは我々がその人や物の本当のよさや利点を認識し、真心から敬意を示すことです。学生がもし先生が行動面での点数を差し引くからといって、先生に礼をするとしたら、軍人が処罰されるのを恐れて上官に敬礼をするとしたら、それらは尊敬心から生まれたものとみなすことはできず、規律のしばりから出たというしかありません。

留意する事柄
尊敬は人と物のよさや利点を認識することにより表れるものです。こうしたことを認識できる人は智慧のある人に違いありません。また正しいか間違っているかを分別できる人です。
我々が先方に尊敬の意思を表せば、先方も「ああ、この人は高尚な道徳水準のある人で、他人を尊敬することを理解しているで、智慧のある人だ」と知るでしょう。先方も同じように我々のよさを認識し、振る舞いや言葉で我々に対し尊敬を表します。それが我々の尊敬を受け入れたということです。
もし、甲が乙に尊敬の意を示したにもかかわらず、乙がこれに応えず、あるいは尊敬を受け入れるあらゆる意思表示をしなかったら、乙の態度は間違っており、責任を負うべきです。乙は実のところ、自らを安価で売り払うようなものです。

他人に対し、「私は本当に愚か者で、智慧も働きません。あなたのよさが見えません!」と言っているようなものです。
他人に対し尊敬の意を示さない、あるいは他人が自分に対して尊敬の意を示しているにも関わらずこれに礼をもって応えない人は、いつもこうすることで自分の立場を低くし、そうすることで反対に相手の価値を高めると思っているようですが、この考えは正しくありません。

尊敬の心を持つことの利益 
(1) 愛されるべき、敬うべき人になる。他人を尊敬する人は、他人も自分に気を払ってくれる。
(2) 心がリラックスし、幸せになる
(3) 問題を起こさない、障害がない、災いがない。
(4) 相手のよさを自分の身に引き寄せることができる。
(5) 他人が我々を助けたいと思う。他人のよさが我々に伝わる。
(6) 意思がはっきりします、油断しない人になる。
(7) 高尚な智慧を持たせる。
(8) 名門の家庭に生まれ変わる。
(9) 容易に涅槃を悟る。
(10) などなど

仏陀、仏法、僧侶を尊敬することを理解し、瞑想を重視することを理解し、三学、油断しない心を重視することを理解し、客人を接待することの重要性を理解する。これらの七項目の尊敬心がある人は堕落せず、涅槃から遠くはない。

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