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タイ仏教コミュのタイ国における短期出家の体験を通して考えたこと

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人々から尊敬されてこそ僧侶である
―タイ国における短期出家の体験を通して考えたこと―


2009年8月8日からの3週間、私はタイ国タンマガーイ寺院において短期出家し、修行生活を送った。
その間の体験により感じたこと、考えたこと、そして帰国してから調べたことなどを通して、タイにおける僧侶の意義・役割についてレポートする。その中から、日本仏教が学ぶべきものを見出す。

1我々日本人20人の剃髪式・出家式に大勢のタイ人(在家信者)が参列することに驚く

(1剃髪式
剃髪式は寺院の敷地の人口池の脇の芝生に我々日本人出家志願者20人が一列に並んで椅子に座って行われた。着席をすると、目の前には白い服に身を包んだタイの人々がこちらを見て合掌している。女性の姿が多く、子供からお年寄りまでと、年齢は様々である。その数約500人。何の縁もない我々日本人のために、どうしてこのように大勢の人々が集まるのであろうか。

式が始まる。目の前に座っていた人々が、入れ替わり立ち替わり合掌しながら私の髪にハサミを入れる。人々は嬉しそうに幸せそうに少しずつハサミを入れる。
ひととおりハサミを入れ終わると、人々は再び目の前に座って合掌する。そして仕上げに僧侶がカミソリを入れるのをやはり幸せそうに見ている。
剃髪がすっかり終わった私の横に立ち、人々は嬉しそうに記念写真を撮る。

(2出家式

剃髪式の翌日、出家式が行われた。出家式は朝6時から本堂のまわり約300メートルを3周する行進から始まる。我々20人の行進の後には、剃髪式のときと同じような、やはり白い服の人々が続いて行進する。その数はやはり何百人という数であろう。
本堂内での出家式の合間に、別室で信者の人々からの僧衣とお鉢の授与を受ける。部屋は信者でいっぱいである。参加している人々は前日の剃髪式と同じように、とても幸せそうな表情をしている。

なぜ我々日本人の剃髪式、出家式にこんなにも大勢の人々が集まってくるのであろうか。
剃髪式、出家式に大勢の人々が参列する理由は、タイ国における短期出家という習慣に関係していることが、帰国してからの調べによりわかった。

2タイ国における短期(一時)出家の概要

タイ社会では、男子は原則として一生のうち必ず一度は出家して僧侶としての生活を経験し、出家中は戒律を守り、信仰を深めなければならないとされている。その期間は普通雨季の三カ月で済ませることが多く、期間上の厳しい制限はない。出家は義務ではないが、現在でも多くの若者が一時出家をしている現状から見ると、それは彼ら自身が一時出家を望んでいるのである。

また、軍人・警察官は服務期間中も出家できるし、官吏の場合は120日間の有給休暇を認めてくれるということ等もある。これは出家のためであれば仕事を放棄したままであっても非難されることはなく、却って称賛されるということを意味しており、タイ社会が若者の一時出家を期待していることの顕れである。

それではどうしてタイの若者は自ら進んで一時出家し、タイ社会はそれに期待するのだろうか。それは出家することにより第一に当人に功徳が生じ、第二に第三者に功徳が生じるからである。(功徳とは善行を為すことにより人に備わった徳性・果報・利益を言う)

(1)一時出家者当人の功徳

1)タイにおいては僧職は現世における善の最高形態とされている。従って僧侶になることにより当人の功徳が著しく増大し、また僧侶は社会において最も徳のある人と見なされる。

2)タイ社会は、一時出家を大人の地位を得るための必要な通過儀礼と見ている。出家経験のない男子は未熟な人と呼ばれ、出家経験のある人は成熟した人として扱われる。出家は世俗界の放棄という最も高い行為から、ほかの優れた恩恵を引き出す。即ち大きな威信を伴う社会的地位を受け取ることとなる。

3)出家の有無が将来の就職・昇進・結婚等に微妙に影響を与える。
(2)一時出家による第三者の功徳

1)タイでは出家者の両親、特に母親は自動的に最も大きな功徳を得ると信じられている。

2)出家式を後援することは、最も徳のある行為のひとつであり、後援者はそのことによって功徳を護持すると考えられている。出家式の後援者としての両親は功徳の第一の受領者であり、他の参加者は第二の受領者と考えられている。

3)タイでは家族の一員の死に際して、同じ家族の若者を一時出家させる。これによりその遺族と同様に死者にも相当の量の功徳が護持されると考える。

4)出家することで得られた当人の功徳が、還俗した後に社会生活の中に還元される。

以上がタイ国における短期出家の概要である。
我々の剃髪式、出家式に大勢のタイの人々が参列するのは、出家式に参列し、出家する僧侶に僧衣をそして器鉢を布施することが、人々にとって大きな功徳があるからである。         
これがたとえ出家者が見知らぬ人であっても、タイの人々が出家式に参加する理由である。

3托鉢を体験する。再び人々の幸せそうな顔に出会う。

托鉢に行く。タイ人僧侶を先頭に、朝6時に寺院を出発する。寺院の周辺を2時間かけて歩く。小石がはだしの足に食い込んで痛いが、痛いという表情はしてはいけないと指導される。民家の前の道路で人々は食物・飲み物を持って、地面に座り我々を待っている。我々が差し出す鉢に食物が入れられる。人々は合掌し、我々は「祝福のお経」を唱える。人々と我々との間に、静かな安らかな空気が流れる。 


(その日の日記より)

「托鉢に出かける。歩いているうちに、供物を受けているうちに、とても安らかな幸せな気持ちになってくる。タイに来て一番の穏やかな心でいる自分を感じる。瞑想修行ではなかなか得られない、雑念のない安らかな自分を感じた。歩きながらこの気持ちはどこから来ているのだろうかと考えた。

その謎がわかった気がした。それは人々からお供物をいただいているが、実は物ではなくて人々の一生懸命な気持ち、美しく清らかな気持ちをいただいているのだ、それによって自分の気持ちが安らかになるのであろう。それでは、そのいただいた気持ちに自分はどう応えたらよいのだろうか。私は祈った。人々が幸せであるように、このおばあさんが、このおじさんが、この子供がこの家族が安らかで安全な、そして幸せな人生を送られるように祈った。

祈りが通じるかどうかはわからない。でもそうせずにはいられない気持ちになった。自分の心が落ち着いて幸せな安らかな気持ちになって托鉢から帰って来た。」 


4人々はなぜ出家式に立ち会い、僧侶に布施をするのか。

剃髪式、出家式に立ち会った大勢の人々は我々に真剣に手を合わせ、僧衣と器鉢を布施する。托鉢で我々に供物を布施する人々も同じように心から手を合わせる。そしてその表情・姿は何とも言えぬ穏やかで、安らかで、嬉しそうである。一言でいえば人々は「幸せ」そうである。たぶん間違いなく幸せなのであろう。それではなぜ人々は幸せなのであろうか。

それはタイが仏教国だからという訳ではない。人々が仏教を信じているからだという訳ではない。そして単に功徳があるからだという訳ではない。人々にとって僧侶に面と向かい会うことが幸せなのである。それではなぜ僧侶に面と向かい会うと幸せなのであろうか。
それは人々が僧侶を尊敬しているからである。尊敬しているものに向かい会うことによって人々は幸福を得ているのである。  

5タイの僧侶は人々から尊敬されている

タイでの3週間の修行の中身は僧侶としての生活を送ることであった。その生活とは
(1) 朝4時に起床する
(2) 自分の荷物・寝具を常にきれいに整える
(3) 衣を常にきちんと着る
(4) 瞑想と読経と法話にまじめに取り組む
(5) きちんとした食事の作法
(6) 午後は食事をしない
(7) 正しい姿勢で歩く・走らない
(8) 無駄口をきかない
(9) 掃除・洗濯など自分達のことは自分達でやる

我々を指導するときの若い僧侶の立ち居振る舞い(歩くとき・食事のとき・説法をするとき・会話をするとき)は、静かで、美しく、穏やかで、気品があった。それこそ感動的でさえあった。羨ましいほどの、そして尊敬する僧侶達であった。悟りを開いた人とはこういう人のことを言うのかと思うほどである。彼らの振る舞いは僧侶としての生活を送ってきた賜物、すなわち修行の成果であろう。

僧侶達は言う。「私達は信者の皆さんの布施によって生活している。信者さんからの寄進を受け取ることによって、信者さんは功徳を受け取ることになる。だから布施を受け取るに恥じることのない人間にならなければいけない。」

タイの人々は僧侶がどんな生活を送っているかを知っている。僧侶達は欲望を抑え、己を律し、250戒を守っている。剃髪し、眉毛も落とし、規律正しい生活と、瞑想と読経と勉強の日々を送っていることを知っている。自分たちよりも慎ましい生活を送っていることを知っている。俗人にはできない生活を送っていることを人々は知っている。自分には出来ないことをしている僧侶を、人々は尊敬しているのである。

タイ仏教を支えているのは人々から尊敬されている僧侶の存在であろう。

6日本仏教を支えるためには、僧侶が人々から尊敬されるための努力をしなければいけない

日本仏教の将来の存立の危機が叫ばれている。どうしたらよいのか?その答えのひとつをタイでの体験から得た気がする。タイで仏教が盛んなことの理由ひとつは、僧侶が人々から尊敬されていることであると私は考える。日本の僧侶達は是非このことを考えて欲しい。

人々よりも大きな家に住み、人々よりも贅沢な生活を送り、人々よりも豪華な車に乗っていては人々からは尊敬されない。僧侶達が人々から尊敬されなければ、日本の仏教は消滅してしまうことになる。
                       立正大学仏教学科3年
                          中村榮次

コメント(5)

私の教えは教義でも哲学でもありません。頭で推論によって思索したり憶測によって考えた結果ではないからです。教義や哲学であれば、思想家たちが宇宙の本質について、それは火だ、水だ、地だ、風だ、いや神霊だ、などと様々に主張していますし、宇宙は有限だ、無限だ、変化するものだ、永遠だ、とも議論しています。

しかし、真の実在について頭で憶測や推論をしても、ちょうど蟻が鉢の淵を回っているようなもので、いくら歩いてもどこにも到着しないのです。堂々巡りに相違ありません。私の教えは哲学ではありません。それは直接体験の結果なのです。私が説くことは、私自身の体験から出てきたもので、あなたも自分の体験によって確かめることができます。

私はすべてのものは無常であり、他から独立した実体、つまり我をもたないと説きます。これは直接体験から学んだことですが、あなたも自分で体得することができるのです。この世のすべてのものは、それ以外のすべてのものに依存して、生まれ、持続し,消えていく、と説きます。

何ものも単独の根源から生み出されるものではない。私はこの真理を直接体験しました。あなたにもできます。私の目標は宇宙の成り立ちを説明することではなく、みんながそれぞれの直接体験を通して、物事の真の在りようを知る手助けをすることなのです。言葉では実在の真の在りようを語れません。直接体験によってのみ、実在の真の姿を見ることができるのです。
                            釈尊

ケン@Free Tibet さん

なかなかできない貴重な体験でした。
私には毎年の恒例行事となりそうです。

忙しい日本の方には期間が少し長いので、そのため8月12日より18日迄参加できれば短期出家を可としています。ご検討いただければ幸いです。

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