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山口県コミュの山口歩兵第42連隊(旧陸軍)について

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みなさん、はじめまして。タイのパタニという町からお便りします。ちょいと昔の戦争のことで、お尋ねがあります。

陸軍歩兵第42連隊は、今の陸上自衛隊山口駐屯地に本部を置き、主に山口県内から徴兵された兵隊さんから編成されていました。第二次世界大戦では、昭和16年12月8日の開戦初日にマレー半島に上陸し、17年2月にはシンガポールを攻略する武勲を立てます。しかしその後は大きな戦闘に参加することもあまりなく、約8000名の将兵の方たちは、大半が山口県に復員し、戦後の復興に尽力されます。

私が今パソコンに向かっているのは、その42連隊が上陸した地点です。目下、タイ側と日本側の資料を照合している最中です。皆さんのお祖父さんの中で、戦争に行かれた方はいらっしゃいますか。まだ健在の方はおられませんか。戦争の思い出で、孫の自分にこんな話をしていたというようなことを憶えていませんか。日の丸の寄せ書きや軍隊手帳、日誌などが残っていませんか。

何でもいいですから、情報があればお寄せ下さい。よろしくお願いします。

写真は左から、山口にある第42連隊の記念碑、自転車に乗ってマレー半島を進軍する兵士たち、上陸地点のパタニの現在の風景です。

コメント(17)

どうもはじめましてm(__)m
歩兵第42連隊の資料でしたら山口駐屯地の尚武館資料館に行けば色々ありますよexclamation ×2
たぶん一枚目の写真も尚武館前の写真ですよね…
もろさん、はじめまして。早速のレスポンスありがとうございます。
ご推察の通り、一枚目の写真は山口の防長尚武館前にある記念碑です。実は二枚目も尚武館の展示写真で、2年前に山口を訪ねた際に撮らせていただきました。館長の隊員さんは、私一人を相手に懇切丁寧な説明をしてくださいました。

その折に撮った他の写真です。左から尚武館の建物(42連隊の武道場か何かだそうです)、連隊長の写真(この方の手記が東京の防衛研究所に保管されています)、日の丸の寄せ書き。

ただし、第二次世界大戦時の展示品はあまり多くありませんでした。終戦時にすべて焼却したせいのようです。

情報ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。


昨夜遅くに(日本時間だと今朝早くに)トピックを立てて、寝て起きてみたら、もうコメントをいただいていました。また、メールでも何人かの方から情報をいただきました。皆さんありがとうございます。

私が関心を抱いているのは、戦争という出来事が、時間を経てからどう記憶されているのだろう、特に交戦した両側でどう異なってくるのだろうかという点です。山口42連隊の場合、南の島で玉砕してしまうこともなく、元兵士の方たちは、戦後の山口県で体験を語る時間が十分にあったわけです。1988年に連隊史が刊行され、そこに戦争体験が結実しているわけですが、そのほかにも日常で語られていたことは何だったのでしょう。うちのお祖父さんとして、あるいは飲み屋のご主人として、学校の先生として口にしていた戦争の話は何で、語られたものは何、逆に決して語られなかったことは何だったのだろうか、を少しでも知ることができれば、幸いです。

写真は、タイ側が撮影したものです。バンコクから状況調査に派遣された文官を迎えて、タイ軍の将校と日本軍の指揮官(日本刀を下げています)が協議しているところのようです。
懐かしい写真ありがとうございますm(__)m

実は以前私もここの隊員でしたexclamation ×2

今は転勤で北海道に来ていますexclamation ×2

山口を離れて12年になります

駐屯地の近くに寺内親子元帥のお墓もありますよexclamation ×2あまり知られていないかも知れませんが…
私も航空自衛官の息子で、基地の中で生活した時期もありますので、山口駐屯地の雰囲気は懐かしかったです。亡き父に言わせると、パイロット以外の航自はのんびりしているけれど、陸上自衛隊はずっと厳しい訓練をしているということでした。

寺内元帥ですが、私はこの尚武館を訪れるまで、大正時代の朝鮮総督の寺内元帥と、戦争中の南方軍総司令官寺内元帥を同一人物だと思い込んでいました。活躍時期が30年くらい違いますから、ずいぶんと間抜けな話ですが、ここで親子と聞いてようやく分かったという次第です。立派な元帥刀などが展示されていましたが、お墓は気づきませんでした。
> 焼きそうせいじさん

山口市では有名な親子ですが、私は今は北海道の釧路に住んでいますが、ここの駐屯地にも寺内元帥が訪れた時の写真が残っていまして、繋がりにびっくりしていましたexclamation ×2

今も寺内家の子孫が山口市に住んでいらして防長尚武館に当時の遺品を寄付されているそうですexclamation ×2

親子元帥のお墓も山口駐屯地からそんなに離れていない車(セダン)で5分くらいの所にありますよぜひそのお墓の大きさを見て下さい!
もろさん

寺内元帥親子のことを少しネットで調べてみました。旧軍に「元帥」というのは数少なく、名誉称号のようなものだったらしいですが、このお二人は唯一の親子で元帥というだけでなく、親子で総理大臣の可能性すらあったとか。毀誉褒貶いろいろあるようですけれど、栄達という点ではこの上ない人達であったことは確かですね。

「マライ(マレー)のハリマオ」をご存知ですか。1960年代(昭和35年以降)テレビドラマが放映され、その子供たちのヒーローでした。ですから現在50代後半以上の人は必ず知っていますが、それより若い方たちにはなじみが薄い名前かもしれません。それでも「ハリマオ」は『あしたのジョー』や『ルパン三世』にも登場しますし、新しい映画も作られたりしましたから、この名前を聞いたことがある人は多いと思います。



知らない方のために簡単に書きますと、戦前のマレー半島に移住していた日本人の少年が、義賊と化して大暴れし、日本軍が進攻してくるとこれを助けて活躍するという話です。実在の谷豊(たに・ゆたか)という人がモデルです。

山口第42連隊は、このハリマオとつながりがあります。谷豊氏が合流した日本軍部隊がこの42連隊だったのです。連隊長の手記によれば、「土人ト化シマレーノ虎ト呼バレ白昼堂々ト自動車機関銃等ヲ以テ銀行等ヲ襲ヒ戦前英支人ヲ震※シタル大ギャング(実ハ日本人ニシテ将来謀略ニ用フル予定)」(※は判読不能)と書かれています。しかし、42連隊の兵士の方たちの懐古談(連隊史などに収められている)を読む限りでは、このことに気づいていた人は、一般兵士のなかにはいなかったようです。戦後15年して「ハリマオ」のテレビ放送が始まった時に、あれは俺たちと一緒にいた奴だというような話になっていれば面白いのですが、誰も気づいていなかったんじゃないでしょうか。

ちなみにモデルの谷さんは、私が今住んでいる町のすぐそばで暮らしていました。今でもその村に日本人がいたという話は伝わっていますが、非常に地味な存在だったようです。
1年以上何も書かなかったので、このトピックもずいぶん落ちてしまいましたが、来月山口を訪ねる予定もあり、ちょっとまた書かせていただきます。
上のほうでの触れましたが、歩兵42連隊は太平洋戦争開戦当日、1941年12月8日未明(真珠湾より一時間くらい早い)、タイのパタニという町に上陸します。タイ軍との戦闘でタイ側49名、日本側23名の戦死者を出します。この方たちが、太平洋戦争最初の戦死者ということになります。
その小さな戦闘について、タイ人の同僚と共同で論文にまとめました。この程度の小さなことでも、二つの国の歴史でまったく異なった描かれ方がされていることには唖然とし、異なる国民史を統合することは不可能だと再認識しました。
調べるうちに、不思議な偶然が見つかりました。第42連隊を迎え撃ったタイ軍の部隊名も「42大隊」、同じ番号を持つ部隊でした。タイ語の文献を読んだときに、42という数字が並んでいるので、てっきり日本軍の42連隊の話と勘違いしました。
そして、もう一つ奇遇にでくわします。タイの犠牲者49名の中には、軍事教練を受けていた高校生5名が含まれています。兵隊と警官以外の一般人は皆逃げたのに、純真な高校生たちは銃を取って日本軍に立ち向かったのです。彼らが所属していた高校は、現在この県で唯一日本語を授業する高校なのです。そして、ここを卒業して当地の大学(これも上陸地点の海岸に戦後建てられました)の日本語科に進学した学生が一名、この4月から山口大学に留学することになりました。

ここパタニーは、日本からはるか離れた南の海岸ですが、71年前に山口県人8000人がここを通過していきました。そして今、この留学生1名(夏にはあと2名がそちらへ行きます)を通じて、また山口とつながることになります。山口の皆さん、彼女らをどうかよろしくお願いいたします。

前の投稿から3年経ちました。この間に、パタニで戦死した23人の兵隊さんのうちのお一人のお墓参りを、2012年4月に果たしました。山口県平生町にあります。また、42連隊と交戦したタイ国軍の記念式典に参列しました(2013年12月8日)。

その後、私はインドネシアへ転勤になったのですが、スマランという町で1945年10月、つまり終戦後に起きた日本軍とインドネシア独立勢力の武力衝突を調べていたら、ここで42連隊に再会しました。この事件で主要な役割を演ずるのは、42連隊第三大隊です。パタニに上陸してシンガポールを攻略した後、42連隊はインドネシアとオーストラリアの間に点在する島嶼を守っていましたが、終戦前後にジャワ島へ引き揚げて来るのです。そこでこの事件に遭遇します。

ここまで調べて驚いたことですが、42連隊は日本陸軍でも稀有な「負け知らず」の部隊です。戦闘はもちろん、移動中に輸送船が沈められることもほとんどありませんでした。こんなことが日本の軍隊にあったというのは、非常に珍しいです。強いだけでなく、運に恵まれていたのでしょう。
元兵士の方々は、高齢になられましたが、何人かは山口県内でご健在のようです。
はじめまして 山口市に 住むものです 偶然 みつけて 掲載させていただきます

祖父が 42連隊にて ビルマに行き まぁ 無事帰国しました

わたしが 子供の 時は 良く 戦争の事を話してました ただ 転進 転進 ばかり だったと (退却の事)

>>[11]
書き込みをありがとうございます。三ヶ月も経ってから気が付きました。遅くなって、すみません。
「山口歩兵四十二連隊史」では、ビルマへは行っていないことになっています。しかし、部隊間の異動がありましたから、他部隊に配属されて、ビルマに行かれたのかもしれません。
御祖父様が話されていたことを、もう少し教えていただけると、有り難いです。
先日、インドネシアの最果てタニンバル諸島へ行ってきました。かつて42連隊が三年間駐屯していた場所です。お父様たちがここにおられたという息子さんお二人とご一緒しました。
写真左はセラル島の港。イスラム教徒が多いインドネシアでは珍しくキリスト教徒が多数派の島です。この日はクリスチャンの葬列にも出会いました。真ん中の写真は、日本軍の根拠地があったリンガットの村の子供たち。日本軍が造った飛行場や壕も近かったのですが、日没が迫っていたため、やむなく引き返しました。右はヤムデナ島にある日本軍の監視所に掘られた洞窟です。
歩兵第42聯隊なら「日露戦役」が、より有名かもしれません。
寺内元帥親子の墓がある丘の頂上部に陸軍墓地「山崎墓地」がありますが・・・・・
当時の部隊編成で、約2900名の聯隊(平時は約2000名程度。予備役を召集して増員)ですが、1000名以上が戦死、1500名以上が負傷(86%が戦死負傷)という凄まじい被害を受けた部隊です。
ちなみに、聯隊長も戦死されています(堀江不可止)
地元出身の少尉:雲野藤吉少尉も同地に埋葬されています。

またの機会があれば、WW2では幸運だったものの、日露戦役では地獄の一丁目だった部隊を偲んでいただけると幸いです。
>>[15]
3年近く経ってから、ようやくご投稿に気が付きました。遅くなり、すみません。手元にある『山口歩兵第四十二連隊史』の日露戦争の記述を読んでみました。四十二連隊は主要な会戦にことごとく参加していますが、特に奉天大会戦では連隊長以下おびただしい犠牲を出したようでした。戦死者1064名、負傷者1572名との記述は、ドムさんがお書きになっている数と符合します。
ちなみにお亡くなりになっているのは、私の曽祖父の同僚たちです。
ひい爺ちゃんの同僚たちなので、多分幽霊に出会っても「あ、曽祖父がお世話になりました」で済む方々です。
話は父から聞いてましたが、証拠(日露戦争出征名簿)を探しています。

曽祖父の戸籍謄本とってみたら・・・・予備役招集(後備)だと聞いてたのに、おもいっきり現役年齢・・・・
連隊長(一個師団、約1〜1万5千名に4名しかいない)が戦死って「どんだけー」
ひい爺ちゃん、よく生還できたな・・・・・

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