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石城山 〜神籠石に護られし里〜コミュの『神護寺』

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神護寺は、今から1400年前の推古天皇20年(飛鳥時代:612年)に、神籠石構内 石城山頂 に創建されました。
開山は高麗の僧 恵慈大和尚 で、開基は 琳聖太子(大内氏の祖)と伝えられています。

神護寺の名称は「第48代 称徳天皇 が天平神護元年(765年)に 石城山 に立ち寄り、『石城山舎那院神護寺』と命名された」と神護寺の伝記に記載されています。

崇高なる山門(仁王門)が建ち、石城山内に 18の坊 を擁し、里には200余の末寺を有しており、天平年間には“西の高野山”と里の人々に称され、仏教文化の華と賞賛され繁栄していました。

神護寺が建立された事により、8つの道が神籠石に開かれ(石城八道)、毎月1日と15日のみ里人が神籠石内に入山する事を許し、この日は里人で石城山内は溢れ賑わっていたと伝えられています。

幕末維新には「第二奇兵隊」の本陣が置かれていました

明治維新後に成立した新政府が慶応4年(1868年)3月13日に発した太政官布告「神仏分離令」(廃仏毀釈の布告) により、神護寺は明治4年(1871年)平生町の大野の地(松蓮寺)に遷座されました。

この寺は本来「阿曾山明星院松蓮寺」と呼ばれ、唐の僧 恵窓大和尚 により開山され、推古天皇 に創建されています。
明治に廃寺になった石城山の神護寺を継承して、現在は「石城山舎那院神護寺」という名で存続しています。

神護寺跡は、栄華を極めた面影なく寂しさだけが残る平野となっています。

跡地には『第二奇兵隊本陣跡碑』『第二奇兵隊顕彰碑』をはじめ、昭和43年4月に佐藤栄作首相が記した『明治維新百年記念樹碑』が建てられています。



『防長寺社由来』より
 
 石城山由来書  熊毛郡塩田村真言宗 神護寺 

〜縁起伝書〜

仰当山は人王第二綏靖(すいぜい)天皇即位五年初春日金輪際より涌出せる霊地なり、人王第三代安寧(あんねい)帝臨幸の由、当山麓に其旧跡御座候、其後摩(言に可)陀国の天王慈悲大験王大日本仏法東漸の霊地を考、崇神(すじん)天皇即位元年に有縁の地に留るべしとて西天より五剣を降し給ふ、一つは豊前国彦山に留る、一つは周防国石城山留る、一つは紀伊国牟婁の郡に留る、一つは淡路国喩鶴羽の峰に留る、一つは下野国日光山に留る、其後験主本国を去り五剣を尋来り給はんと言て、釈迦、普賢、文珠の三尊、毘首羯磨天(びしゅかつまてん)の作れる木像を持て百済国至石城山、多々羅王に相対し日本の風俗を聞給ひける所に、仏法いまだ東漸なき由を聞給ひて彼仏菩薩の像を百済国石城山にをき給へり、帝供奉の人々入朝有、先彦山に住居有、夫より東国え御幸の砥、竜頭鷁首此山え寄懸り給ふ比、三方海原俄に皆平地となりぬ、竜頭鷁首走事あたはす、此山に四穴を構て家とす、其後熊野え御幸有、人王十四代仲哀天王百済国聖明王と相親て琳聖太子をこふて太子来朝の時、百済国より彼仏菩薩の像を請来し防州山口に鎮座砥、国内臨幸の序当山に駕し、故国百済国の石城山に不異言て件の釈迦、普賢、文殊の三尊を当山に移し、三社大権現と祝し給ふより已来九月九日祭祀の行事相勤来候事、人王三十一代敏達天皇叡聞有て勅して石城山顕額せり、其後人王四十八代称徳帝天平神護元年長州臨幸の時被勅、舎那院神護寺との由縁起伝書御座候、縁記の儀は天正比焼失仕に付、住持宥諦古老の伝説を以、為後代如是調置候事。



神護寺の本尊は 千手観音菩薩・不動明王 を本尊とする真言宗(御室派)の古刹です。
又大聖歓喜天(聖天様)は、病魔退散、夫婦和合、諸願成就に霊験あらたかといわれ多くの参拝者が訪れています。

地蔵堂には県指定の有形文化財である木造の延命地蔵菩薩坐像が祀られています。これは平安後期頃、桧を材料に作られたといわれ、疫病平癒の菩薩として多くの人々の信仰をあつめています。

その近くにある銅鐘は、鎌倉時代末期の代表的な美しい姿形から、優れた工芸品として同じく県指定の有形文化財に指定されています。


春には桜の名所としても有名で、秋の紅葉、銀杏の黄金色が美しい静かな佇まいの古寺です。
予約すると精進料理も楽しめます。

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