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東日本大震災記録コミュの660、一体でも多くの遺体を家族のもとへお返ししたい――。 巨大津波の上空を飛んだ警察官の絶望と絶えぬ執念 ――宮城県警航空隊の成田聡・機長、平仁・操縦士のケース

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 3月11日の震災では、多くの警察官が住民の避難誘導に心血を注いだ。なかには、その最中に津波に襲われ、殉職した人もいる。あの日から半年が経つが、多くの新聞やテレビは彼らについて詳しく報じていない。

 なぜ警察官は、危険を覚悟で避難誘導を行なったのか。当日、その警官らが避難を誘導した地域の住民の行動は、どのような様子だったのか。それらが今も見えてこない。

 今回は、震災当日、宮城県の上空を飛んだ県警航空隊の警察官を取材した。彼らが見た被災地の「生と死」を通じて、当日の実態に迫りたい。

これほど長くて激しい揺れは初めてだ――。
ヘリコプターで出動した警察官の胸騒ぎ

「一体でも多く遺体を家族のもとへお返しする。その遺体を待つ人たちがいる」

 宮城県警の航空隊に所属する成田聡機長(41)が答えた。横で操縦士の平仁氏(31)がうなずく。

 2人の表情が、取材の1時間30分ほどの間で最も厳しくなった。私が訪ねた日の前日は、震災でいまだに行方不明者になっている人たちを、警察などが集中捜索した日だった。

 成田氏と平氏、整備士がヘリコプターに乗り、船が入れない入り組んだ海岸などの上空を飛ぶ。そして、高性能のカメラを使い、遺体を探し出す。それらしきものが見つかると、カメラをズームアップして確認する。

 遺体とわかれば、仙台市にある宮城県警本部へ報告する。県警本部は海上保安庁などへ連絡を入れ、遺体の収容を依頼する。

 仙台市、東松島市、石巻市、南三陸町、気仙沼市などは、地震と津波による大きな被害を受けた。県内の死者は9456人、行方不明は2149人に上る(警察庁・9月10日調べ)。

2011年9月20日
http://diamond.jp/articles/-/14071

 時計の針を巻き戻そう。2人は震災当日、地震が発生した午後2時46分、陸上自衛隊の霞目(かすみのめ)飛行場(仙台市若林区)の敷地内にある、宮城県警航空隊の基地にいた。操縦士である警官6人らは、通常は事件捜査や交通情報の収集、救難救助、災害警備などの活動を行なう。

 その日の揺れは激しく、長く感じたという。室内は棚が倒れ、机の上のものが散乱した。停電になったが、県警本部などにつながる警察無線は無事だった。

 航空隊には、3機のヘリコプターがある。1機は、地震発生よりも前に仙台市の上空を飛んでいた。成田氏らは操縦士らと連絡を取り、市内の被害状況などを聞く。

 午後3時5分には、成田氏、平氏と整備士の3人がヘリコプター「あおば」に乗り込んだ。離陸するとき、高度を上げていくと、仙台湾が見える。まだ津波は来ていなかった。波が荒れている様子もなかったという。

 そして、市の中心部に向かった。ところどころで火災が起きて、煙が上がっていた。交通渋滞になっている箇所もあった。

高性能カメラで被害の状況を撮影
そのとき津波が仙台湾に押し寄せた

 震災時に航空隊は、ヘリコプターに搭載したカメラで被害の状況を写し、それを県警本部に送ることが任務の1つだ。そこから被害状況が東京の警察庁、さらに首相官邸などに送られる。

 平氏が操縦し、横に機長の成田氏が座る。後ろに整備士が乗り込み、高性能のカメラで被害の状況を撮影していく。JR仙台駅上空に行くと、数千人が周辺に立ち尽くしていた。

 県警本部から「もう少し、状況がわかるように画面のサイズを大きくして欲しい」などと指示がくる。それを受けて、カメラを「引き」のサイズにして映し出していく。作業を続けていると、気象庁から津波警報が出された。

 成田氏らは、県北東部に位置する南三陸町方面へ避難誘導のために向かおうとした。もし津波発生の恐れがあれば、県内でこれらの地域が先に襲われる可能性が高い。まず、高度300メートルほどで仙台湾から海岸沿いを北に進むルートを選んだ。

 だが、なかなか進めない。平氏は、「すごい吹雪で視界が悪かった。風も強かった」と語る。

 市の北部へ迂回し、南三陸町方面へ進むルートを探した。しかし、吹雪は強くなる。その後もルートを探したが、吹雪は一段と激しくなる。成田氏は、「あきらめざるを得なかった」とうつむく。

 再び、市中心部の上空に戻る。火災が発生している箇所は増えていた。また被害状況を撮影する。そのとき、「津波が仙台湾に押し寄せた」という一報を受けた。午後4時を過ぎていた。

目に飛び込む「津波に気づかない人々」
使命感に押されて危険な低空飛行へ

 海岸沿いの若林区荒浜地区の上空に着いたとき、巨大な波が海外線から1キロほどの場所までなだれ込んでいた。成田氏は、「それまでに見たことがない光景だった」という。

「海の水全体が溢れ返るかのようにすさまじい勢いだった。仙台市を南北に通る、仙台東部道路のほうに向かっていた。次々と道や家を飲み込んでいった」

 カメラでズームアップすると、波のスピードが非常に早く、水圧が相当強いことがわかった。波のそばを車で走る人は、それがわかっていないように見えたという。

「車の中からは波が平面に見えるため、あの勢いに気がつかないのではないか。上空から見ると、運転手は海が穏やかなときの波と同じ程度に感じているようだった」

 仙台市の上空を飛ぶときは高いビルがあるため、300メートルでも危険が伴うという。しかし、この時点で平氏は上空200メートルほどまで高度を下げた。高度を下げた理由を聞くと、成田氏は当時を思い起こそうとするかのように、目をつぶり話した。

「あの天候で低空飛行をするのは危険だった。だが、私たちなりの使命感があった。下には波に気がついていない人がいた。道で話し合っている人もいた。ゆっくりと走る車もあった。避難を呼びかけるパトカーや消防車も見えた。『このままではひどいことになる』と思った」

 平氏はスピーカーで避難指示を繰り返す。「大津波が来ます。高いところへ避難してください」。成田氏は窓を開けて手を振り、呼びかける。通常、航空隊はこのような避難誘導をしない。だが、そんなことを言っている場合ではなかった。

 整備士は、被害の状況をカメラで写していく。「その映像はテレビ局などで報道されたのか」と尋ねると、成田氏は「それはない」と話した。平氏が答える。

「あのときは、カメラのアングルを考えて正確な映像を撮るよりも、避難誘導を優先した。下で起きていることを見ると、居ても立ってもいられなかった」

そこまで波が押し寄せているのに……。
居ても立ってもいられない「もどかしさ」

 住民らはヘリコプターには気がつく。だがすぐには避難しない。その後も道で話し合っている人がいた。成田氏はうつむき加減に話す。

「私たちの気持ちはわかってくれたのかもしれない。でも、逃げようとしない姿を見ると無力感はあった」。

 津波は地域一帯を飲み込み、仙台東部道路のほうにさらに向かう。ヘリコプターは道路の向こうの町の上空に先回りし、2人は避難を呼びかけた。平氏は、「あの波は道路を越えるような勢いだった。海が溢れ返っていた」と説明する。

 道路を隔てた町の小学校の校庭では、先生と子どもたちが集まっていた。これは“地震の避難”であり、津波のそれではない。2人は、声をそろえる。

「もどかしかった。道路の反対の荒浜地区などでは、大きな被害が出ていた。その波がすごい勢いで迫っている。多くの人が、それに気がついていなかった」

 波は、海岸線から2キロほどの仙台東部道路にまでたどり着いた。そこで一旦は止まった。道路が堤防の働きをしたためだ。

 道路を管理するNEXCO東日本(東京都)によると、地震発生から12日未明までに、仙台若林ジャンクション(仙台市若林区)−名取インターチェンジ(名取市)間で、約230人が道路によじ登って命を取りとめたという(毎日新聞4月8日)。

まさか仙台の中心部まで津波が迫るとは
情報を遮断し避難を遅らせた大停電

 平氏は振り返る。

「道路を隔てた町に住む人たちの多くは、海岸沿いの町で何が起きているのかを把握できていなかった可能性がある。停電が復旧した後、テレビでその様子を見て、『こんなにひどかったのか』と驚く人もいた」

 成田氏は、多くの人の避難が遅れた理由の1つに、大規模な停電があったことを指摘した。

「テレビはもちろん、携帯電話もつながらない。ラジオは聞くことができたが、情報が足りなかった」

 仙台市民の多くは“津波”と聞けば、まずは県北にある気仙沼市や南三陸町などをイメージすることも付け加えた。「まさか、市の中心部に向けて巨大な津波が来るとは想像できなかったのではないか」と。

 午後4時30分には燃料を補給するため、基地に戻った。その後は他の2機も含め、6人の操縦士がローテーションを組んで飛び続けた。成田氏らは2回目の飛行で、まず仙台市の北に位置する東松島市や石巻市に向かった。吹雪は止みつつあった。

 東松島市の上空からは、航空自衛隊の基地が津波の被害を受けているのがわかった。石巻市に着くと、火災が起きていた。さらに北進した気仙沼市では、津波でタンクから重油が漏れだし、大火が発生していた。

 夜中になっても航空隊の活動は続く。暗くて下の様子が見えないため、赤外線カメラを使い、被害状況を撮った。翌日の早朝には、JR仙石線の野蒜(のびる)駅(東松島市)近くで4両編成の列車が脱線していたが、車両近くから9人ほどを助け出した。

 仙台市の死者・行方不明者は、5月下旬ですでに870人を超えた。荒浜地区での犠牲者は約180人に上るという。

津波で死んだ先輩の分も頑張りたい
遺体を待ち続けている家族のために――。

 震災から数日後、成田氏は近所に住む警官が津波に襲われ、亡くなったことを聞かされた。

「2日ほど前に、警察学校でその警官から研修を受けた。講義の最後に握手をした。ショックだった。大事な人を失った……」

 震災で避難誘導などに当たり、殉職した宮城県警の警察官は14人に上った。あの日から半年が経つが、宮城県警による遺体の捜索は続いている。この時期になると遺体は腐敗が進み、発見することが難しくなっているという。だが、海では海上保安庁、さらには漁師が船で操業中に見つけるときもある。

 私が取材で訪れた日の午前中も、2人は海の上を飛んでいたという。西風が強かったようだ。成田氏は言う。

「宮城県民の多くは、自らの家族、友人、知人を震災で亡くしている。この人たちは今も遺体を待っている。それを思うたびに、『よし、見つけるぞ』と自分を奮い立たせている」

“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得

 成田氏と平氏の話から私が感じ取った、今後の防災を考える上で検証すべき点を述べたい。

 1.「行政頼み」の防災意識を問い直す

 2人の証言から、大規模な自然災害が発生したときには、警察の力にも限界があることがわかる。私たちは、地震などに襲われた際に、警察をはじめとする行政の「限界」を日頃から心得ておくべきである。

 平氏は、私のこの問題意識にこう答えた。

「警察などの公的な機関は、当然全力を尽くす。しかし、たとえば地震直後から津波が来るまでの間に、交差点で警察官が誘導をしても、それは “点”でしかない。そこで広報できることは限られている。『自分の身は自分で守る』という意識を持ってこそ、多くの人が助かる可能性がある」

「全国の警察など、公的な機関が行なう救助の実態を知って、いざというときにどれくらいのことができるかを把握して欲しい。『災害に巻き込まれたとき、自分は救助されるだろうか』と具体的に考えてもらいたい。自ずととるべき行動が見えてくる」

 この連載で述べてきたとおり、今回の震災で被害が大きくなった一因として、住民の避難意識のあり方にも問題があったと私は考えている。「行政にできることには限界がある」という現実を知るところから、その意識は変わるのではないだろうか。この震災で、「行政頼み」の防災の時代は終わったのだ。

 2.災害に対する「リアルな理解」を心がける

 2人が「もどかしかった」と繰り返したのは、津波の横を車でゆっくりと走る人や、そのすぐ近くの道で話し合っている人たちが多かったことだ。おそらく、この人たちには状況がよくわかっていなかったのだろう。

 津波が押し寄せているという情報が足りないことも、その一因だと思われる。さらに日頃から、「地震→津波」という“公式”や津波の実態を押さえた理解ができていなかった可能性もある。

 今後は小中学校の教育現場を始め、企業での防災や地域社会の話し合いの場でも、津波の波の高さだけでなく、その早さ、水圧、破壊力、想像でき得る被害、対処法などについて、一段と具体的に考えることが必要だ。この姿勢があれば、避難訓練はリアルなものになり、人々のリスク意識は高くなる。その繰り返しによって、自然災害に強い文化が作られていく。

 3.避難指示や勧告を決して軽んじない

 成田氏は、昨年のチリ地震津波で仙台市沿岸に大津波警報が発令されたことを引き合いに出した。「あのときも、津波が市内に押し寄せることはなかった。だから『今回もきっと来ない』と思い込んだ人がいるのかもしれない」という。

 当時、仙台市は避難指示を出した。ところが、避難所へ避難した住民の数は、指示が発令された地域全体の対象者数の10%を切ったと報道されている。

 この避難率の低さは、今回被害が大きかった三陸地域の多くの市町村で、かねてから指摘されてきた。これらの地域では、過去幾度も津波警報が発令されてきたが、それらの多くは「当たらない警報」とされてきた。

 だが、3月11日はその警報どおりに、いや、それ以上の大津波が襲いかかった。私が取材した石巻市の医師は、この状況を「イソップ物語のオオカミ少年の話に近いものがある」と話していた。

 成田氏もそれを認めつつ、「避難指示や勧告が出たら、すぐに避難する。それでたとえ津波が来なくとも『助かってよかった』と言い合える気持ちを互いに持ちたい。そのような時代になって欲しい」と願う。

 平氏によると、4月7日、夜12時近くに仙台市若林区で震度6強を観測する地震が起きた。停電も発生したが、このときは住民の避難はスムーズに行なわれたという。「この姿勢が3月11日にもあったなら……」と悔しがる。

 4.過去の想定や常識に囚われない

 私が航空隊の基地に向かう際に乗ったタクシーの運転手は、荒浜地区の生存者から伝え聞いた話として、このようなことを話した。

「荒浜地区の田園地帯では、津波の到達直前まで、多くの人が農道で海のほうを眺めていた。その後、津波が押し寄せた。その住民たちは避難する間もなく、波に飲まれた可能性がある」

 この証言は、上空で避難誘導をしていた航空隊員2人の証言と重なるものがある。この地区の一部の住民は、航空隊や消防団などの避難誘導を聞き入れ、すぐに避難したとは考えづらいものがある。

 荒浜地区は、高さ6メートルほどの防潮堤で守られてきた。1978年の宮城県沖地震や、昨年2月末のチリ大地震津波でも、被害はなかった。これらが住民らに、「この地区は津波に襲われない」という“過信”を与えていたのかもしれない。自然災害は、これまでの想定や常識を覆すことがある。改めてその意味を考えてみることが必要だ。

 私は警察官らによる震災当日の勇気ある行動、そしてその後の執念とも言える遺体捜索への熱意を、読者に知って欲しかった。新聞やテレビで活躍する有識者は、警察を批判することはあっても、称えようとしない。彼らの多くは、実は警察を取材していない可能性がある。

 防災に強い社会を作るためには、私たちが警察官を支えることも必要なのだ。今回の震災で殉職した警察官に感謝の念を伝え、ご冥福を祈りたい。

http://diamond.jp/articles/-/14071?page=9

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