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東日本大震災記録コミュの659、大臣の失言と裏を読みたがる人々

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 今回は、つい先ごろ辞任した鉢呂前経産相の発言について考えてみたい。
 その話題はもううんざりだと思っている方もおられるだろう。もっともだ。私自身、報道が始まった当初は熱心に追いかけていたが、二日後には飽きた。現在は、うんざりしている。

 とはいえ、鉢呂前大臣の発言と、その言葉をめぐる報道の背景については、記憶が薄れないうちに記録しておくべきだ。それに、私自身がうんざりしている現今の状況についても、これ以上うんざりして、一言も語りたくなくなる前に、きちんと文章にしておいた方が良いと考えている。だから書く。とてもうんざりしているけれども。

 伝えられているところによれば、鉢呂経産相(当時)は、9日の閣議後の記者会見で、前日に視察した福島県の東京電力福島第1原発などについて感想を述べる中で、「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子ひとりいない『死の町』だった」と語ったことになっている。

 この発言について、同日の共同電は《「死の町」との表現に配慮を欠くとの批判も出そうだ。》と伝えている。
 さらにこの発言に先立って、「放射能をうつす」という趣旨の発言があったとされる。

 放射能発言について最初に報じたのはフジテレビ(FNN)のニュース(9日夕方のテレビニュース)で、この時、FNNでは大臣の様子を《福島県内の視察を終えた8日夜、着ていた防災服の袖を取材記者になすり付けて、「放射能を分けてやるよ」などと話した》というふうに報じている。

 で、このニュースを機に、新聞各紙も10日付の朝刊(ウェブ配信では、9日深夜から10日早朝にかけて)で鉢呂前経産相の一連の発言を大きく取り上げたわけだ。

 鉢呂前大臣本人の時系列での動向は、以下の通り。

・8日深夜の記者との懇談:「放射能をうつす」趣旨の発言。および記者に近づく(あるいは防災服をなすりつける)行為。
・9日午前の記者会見:「死の町」発言。
・9日午後:野田佳彦首相が、「死の町」発言について、「不穏当な発言だ。謝罪して訂正してほしい」と不快感を表明。これを受けて、鉢呂氏は「思いはみなさんにご理解いただけると思うが、被災地のみなさんに誤解を与える表現だった。真摯(しんし)に反省し、表現を撤回したい。大変申し訳ありませんでした」と陳謝した。
・10日夜:鉢呂氏は、野田佳彦首相と会談。辞任を申し出て了承された。

 新聞各紙の報道の順序や、ニュアンスの違いなど、細かく検証すれば突っ込みどころはまだまだある。が、現場にいたわけでもない私が、今になって報道をほじくり返したところで、たいして意味のある仕事はできない。それに、その種の検証記事はウェブ上のメディアで、既にいくつか発表されている。興味のある向きは、そちらを参照してほしい。

 現在の段階で私が疑問に感じている点はおおまかに言って次の2点だ。
 一つは、「死の町」発言が、職を辞するに値する問題発言だったのかどうかについて。
 もう一つは、「放射能発言」の真相が結局はっきりしていない点だ。

 まず一つ目について。「死の町」という表現だけを取り上げると、たしかに無神経な感じはする。心ならずも離れて暮らしている自分のふるさとを「死」という言葉で表現された被災者の気持を忖度すれば、彼らが反発を感じるのは当然だ。

小田嶋 隆2011年9月16日(金)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110915/222654/?mlh2&rt=nocnt

 しかしながら、鉢呂氏は、被災地を「死の町」と決めつけて切り捨てたわけではない。前後の言葉を含めたそのままの形で採録すると、鉢呂氏は、以下のように語っている。

《大変厳しい状況が続いている。福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ、そこから出発すべきだ。
 事故現場の作業員や管理している人たちは予想以上に前向きで、明るく活力を持って取り組んでいる。3月、4月に入った人もいたが、雲泥の差だと話していた。残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から、「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。》

 ごらんの通り、「死の町」という言葉を再生を投げ出したニュアンスで語っているのではない。視察した町村の現状を語る文脈の中で、厳しい状態を描写したということに過ぎない。好意的に見れば、見たままの状態が「死の町」であるという厳しい現状認識があるからこそ、徹底的な除染と再生に向けた対策を打ち出して行くことができるというふうに見ることも可能だ。

 とすれば、この表現のどこが問題なんだ?
 私個人の感想を率直に述べるなら、この程度の言葉づかいを問題にされたのでは、政治家はやっていられないと思う。

 で、9月11日付のツイッターで、私は、
《「死の街」という描写は被災者の心を傷つけた。だから大臣は辞任した。ということはつまり、被災地を描写するにあたって「被災者を傷つけない言葉」を見つけることができなかった人間は被災について言及することが許されない。実質的な言論タブーの成立ですよ。》
 というツイートを配信した。

 このツイートは、9月15日現在で1513回リツイートされ、402人によって「お気に入り」に保存されている。

 ついでに言えば、同じ時に、
《新聞記事が主語(つまり記者)を明示せずに論評(「批判が集まりそうだ」「なりゆきが注目される」)する形式は、実は、ネット論壇における匿名批評と同じものなのだと思う。ミシマ社の連載の中で「新聞の主語」について触れています。乞うご参照。》

 ともつぶやいたが、これも214rts、164favを記録している。
 ミシマ社の連載のリンク先についても、ぜひあわせて参照していただくとありがたい。新聞と主語の関係について、詳しく書いてある。ここでは繰り返さないが、重要な論点なので。

 「大臣たるもの、単語を文脈から切り離した形で引用されることは含み置いた上で発言しなければならない」とする見方もある。その立場からすると、悪意の有無は別にして、鉢呂氏の発言は、そもそも、政敵に付け入るスキを与えた時点で「無神経」ないしは「お花畑」だったということになる。それ以上に「閣僚として脇が甘かった」と評価されても仕方がない。おそらく、新聞の政治部の人間はそういうセンスでものを考えているのだと思う。その彼らの感覚からすると、言葉の選び方に関して脇の甘い人間に大臣の職責を担う資格は無いわけだ。で、辞任はやむなしと、そういう話になる。

 私自身は、こういうところで変に大人ぶって「脇が甘い」だのという言葉を使う態度に、もうずいぶん前からうんざりしている。
 その種の「政治センス」に不潔さを感じていると言い替えても良い。
 青くさい言い方をするなら、私は、政治家は、臆病であるよりは、率直であるべきだと思うし、特に混乱期のリーダーは、事にあたって及び腰であるよりは、時に言葉が過ぎるタイプの人格の持ち主であった方が望ましいとさえ思っている。

 とすれば、生命の存在を許さないレベルの放射線が降り注いでいる被災地の現状を「死の町」と描写するのは、その再生にあたる人間である以上、当然の覚悟だとも言える。いったいどこの誰が徹底的な除染無しで、生きたままその町に住むことができるというのだ?

 さてしかし、公平を期して言うなら、メディア各社は「死の町」発言を単独で取り上げて問題視したわけではない。
 報道の経緯からすると、「死の町」という描写が問題にされたのは、最初にフジテレビのニュースが「放射能を分けてやるよ」発言を報じてから後のことだ。

 つまり、「死の町」は、「放射能」発言とセットで問題になったわけで、おそらく単独では辞任マターにはならなかったということだ。事実、記者会見の場でも、記者の側から「死の町」という表現について真意を質す質問は出ていない。

 ということは、むしろ大きな問題だったのは「放射能」発言の方だったということになる。
 ところが、この発言については、正確な言い回しや当該の発言の前後の経緯が、結局のところ、明らかになっていない。
 当初から、大臣のこの発言についての報道は、ばらばらだった。
 高橋洋一氏が紹介しているところによれば、各社の報道ぶりは、こんな感じになっている。

「放射能をうつしてやる」(産経新聞 9月9日 23時51分)
「放射能をうつしてやる」(共同通信 9月10日 00時07分)
「放射能をつけちゃうぞ」(朝日新聞 9月10日 01時30分)
「放射能をつけたぞ」(毎日新聞 9月10日 02時59分)
「ほら、放射能」(読売新聞 9月10日 03時03分)
「放射能をつけてやろうか」(日経新聞 9月10日 13時34分)
「放射能を分けてやるよ」(FNN 9月10日 15時05分)
(「現代ビジネス」高橋洋一「ニュースの深層」 9月12日付より)

 その後の朝日新聞による検証記事でも、大臣の言葉は確定されていないし、第一報を報じたフジテレビの記者が、現場にいたのかどうかについても、鉢呂前大臣本人とフジテレビの間で見解が分かれたままだ。検証も、どうやらこれっきりで終了。既に「終わった話」になっている。要するに、「放射能発言」については、大筋において同趣旨の発言があったという点で一致しているものの、発言の前後の経緯がはっきりしていないのである。ボイスレコーダーも残っていない。「防災服をなすりつけるしぐさ」についても、「記憶にない」(鉢呂前大臣)、「一歩近寄った」「袖の部分をなすりけた」と、証言者によって話が違っている。結局、なにひとつはっきりしていないわけだ。

 この程度のものを、記者は記事にするものなのだろうか。
 だとしたら、彼らの仕事ぶりはあまりにも恣意的だということにならないか?

 今回の、この「新聞辞令」について、ネット上では批判が渦巻いている。
 やれ、マスメディアの思い上がりだ、とか、政治部の記者の特権意識だとか、記者クラブメディアの横並び体質だとか、様々な議論がいまだにくすぶっている。中には、新聞各社が鉢呂経産相を辞任に追い込もうとした背景には、大臣が、就任以来脱原発を公言(「既存の原子力発電所の敷地内での新たな原発建設もできないだろう。基本的には原発はゼロになる」などと発言している)してきたことがあるという見方をしている人々もいる。つまり、彼は、原発の維持ないしは推進を目指している経産官僚の意を受けた記者クラブに「ハメられた」というのだ。

 私はこの種の陰謀史観には与しない。
 考え過ぎだと思う。
 ただ、この度の一連の騒ぎを眺めていて、新聞の役割が変わってきていることをつくづく感じている。
 なので、この先は、新聞の変貌について書こうと思う。

 新聞は、簡単に信用してもらえないメディアになっている。
 新聞のせいなのか、読者のせいなのか。それとも時代や社会の変化がそうさせているのか。理由は簡単には特定できないが、とにかく、新聞は裏読みをされる。そういうメディアになってしまっている。

 ほんの10年前まで、新聞は、文字通り社会の木鐸だった。
 日本に住んでいるほぼ全世帯の日本人が、何らかの新聞を定期購読していたし、そうやって宅配されてくる新聞は、ほとんどすべの国民に信頼されていた。
 20世紀の新聞が現在の新聞よりも優れていたと言いたいのではない。
 あの時代は、新聞をはじめとするマスコミの役割が今よりもずっと大きかったということを私は言おうとしている。
 昭和の時代にはインターネットも無かったし、携帯電話もSNSも無かった。ということは、マスメディアを相対化する情報源がそもそも存在すらしていなかったわけで、それゆえ、新聞とテレビのプレゼンスは、現在とは比べ物にならないほど巨大だったのである。

 であるから、昭和の庶民は、「テレビでCMを打っている会社は信用して大丈夫だ」と考えていたし、「新聞が書くことは基本的には本当のことだ」というふうに思い込んでもいた。
 実際にも、昭和の時代にテレビでCMを打っている企業は、信頼のおける一流企業に限られていた。現在とは大違いだ。

 新聞広告についても同様だ。かつて、クオリティーペーパーに広告を載せている企業の商品は、ほぼそのまま信用することができた。現在は、そういうわけにはいかない。ある程度疑ってかからないとひどい目に遭う。

 で、その巨大な信頼に対応する形で、マスメディアの側にも、一定の緊張感があった。読者および視聴者は、自分たちの配信する記事をほぼ鵜呑みにしている。そのことを踏まえた上で報道せねばならない、と、だから、昭和の記者は、現在の記者さんたちと比べてより慎重だったかもしれない。まあ、現在の時点で、それら二つを並べて見比べてみるわけにもいかない以上、本当のところはわからないが、とにかく、現在の新聞に比べて、昭和の新聞がより信頼されていたことはたしかだったのである。内実はどうあれ。

 新聞に対する信頼は、料金を支払って購読しているところから生じていた可能性もある。
 普通に考えれば順序は逆だ。人はある商品を信頼するからこそ、その商品に対して対価を支払う、と、そう考えるのが自然だ。
 が、実際には、必ずしもそうではない。
 人は、自分が代金を支払っているということを理由にその媒体を信頼していたりする。

 新聞の場合はおそらくそうだったはずだ。
 新聞の経営基盤を支えていたのも、そうした「信頼」と「定期購読」という巨大な安定収入だった。
 それゆえ、新聞社は、世界各地に支局を置き、特派員を養い、部門別に専門の記者を育て、情報の裏取りに許す限りの時間と費用をかけて、記事の信頼性を担保してきた。

 それが、インターネットが普及して、無料で読めるウェブ上のニュースメディアが充実すると、若い世代は新聞にカネを払わなくなる。紙の新聞なんて、無くても間に合うじゃないか、と、彼らはモロにそう考えている。

 と、毎日タダで新聞を読んでいる彼らは、いつしか記事に対して昭和の人間が抱いていた「天然の敬意」を喪失する。
 それどころか、「情報は疑ってかかるのがリテラシーだぞ」ぐらいな一種ひねくれた感覚が、ウェブにぶらさがっている人間たちのデフォルト設定になってしまっている。彼らは、マトモに書かれた記事をマトモに読もうとしない。やたらと裏読みをしたがる。素直に読むよりは、裏を読む方が高度な読み方なのだと、彼らは半ば本気でそう考えている。のみならず、書かれていることより、書かれなかった部分に真実が宿っていると考えていたりする。ゴルゴ13に出てくるモサドの工作員みたいに。

 たしかに、記事によっては、行間に真実が隠されている場合もあるのだろうし、ある種の芸能情報や国際関係の報道では、書かれた事実よりも、オミットされた情報により致命的な真実が宿っているものなのかもしれない。

 とはいえ、世界中がゴルゴ13の論理で動いているわけではない。
 大部分の世界は、真面目な記者が真面目に書いた記事に最も近い形をしている(はずだ)。少なくとも、私はそう考えている。

 昭和の時代でもたとえば、ジャニーズ関連の記事には裏読みが必要だった。
「マッチと××の◯◯って、あれ実質的には△△だよな」
 と、われわれは、顔を合わせると、芸能記事の裏読みを競ったものだった。

 それが、現代の読者は、あらゆる記事を裏から読もうとする。どうかしていると思う。
 私のような旧世代の人間から見ると、マスメディアや記者クラブの悪口を並べてさえいればツイッターや2ちゃんねるで人気者になれる現在の状況は、昭和の時代とは逆の意味で病んでいる。

 無論、マスメディアに腐敗が無いわけではないし、記者クラブにだって言われているような特有の弊害があるはずだ。とはいえ、長年積み上げてきた彼らのやり方にはそれなりの実効性がある。でなくても、これだけの情報資産を全否定して良いはずがない。

 マスメディアの情報が鵜呑みにされすぎて来た20世紀の反動だとは思うのだが、それにしても、この数年、あまりにも陰謀史観が幅をきかせすぎている。フジテレビの「韓流推し」問題にしてもそうだし、今回の「鉢呂発言」に対する分析でも同様だ。メディアの報道に、行き過ぎや偏向を見出すところまでは理解できるとして、それをただちに「陰謀」だと決めつける態度は、やはりどうかしている。

 ウェブ上の新聞記事を有料化する動きは、徐々にではあるが、確実に進んでいる。
 で、その動きに伴って、新聞各社は、無料配信の記事の中味を少しずつ薄っぺらにしてきている。5年前と比べてみれば明らかだ。新聞社が提供している無料サイトは、もはや新聞のタダ読みを許すページではなくなっている。検索エンジンの会社やポータルサイトにニュースを売る場合を除けば、あとは、有料ウェブ版への導入路にしたいという意図がはっきりしている。

 結果、学芸欄の記事や、有名人のインタビューや、よりきめの細かいニュースネタや、過去記事の検索といった魅力的なコンテンツは、有料化版に引き上げられつつある。まあ、彼らだって商売なのだから当然といえば当然ではある。

 現在は、過渡期にあるということなのだろう。
 紙の新聞がかつて担っていた「社会の木鐸」(あるいはメタ情報)の座は、「空位」になっている。
 といって、電子版への移行は、遅々として進んでいない。
 で、われわれの前には、ツイッター発のデマと、2ちゃんねるに蝟集する排外的なレイシズムと、メールを装った無数の詐欺広告が横たわっているわけだ。

 今後、既存の新聞社なり新たな情報メディアなりが、確固たる木鐸の地位を築く(そんな時代は永遠に来ないのかもしれないが)までの間、混乱は続くだろう。
 と、疑ってかかることがリテラシーだとする卑しい人間観がわれわれを毒していくことになるのだろう。
 今回は、オチが見つからない。
 うんざりするところから始めたので、うんざりして終わりにしたいと思う。
 来週は明るい話題が見つかると良いな(笑)。

(文・イラスト/小田嶋 隆)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110915/222654/?P=5

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