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東日本大震災記録コミュの565.メディアが報じ切れない被災地の意外なパワー 「憂いの町」で盛り上がる確かな復興への“熱” ――茨城、福島、宮城、単独縦断ルポ

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5月上旬、筆者は北茨城から福島、宮城へと被災地を回る機会を得た。震災発生以降、毎日のようにメディア上に地名が踊る被災地もあれば、今日までほとんどマスコミに触れられることのない被災地もある。未曾有の大震災発生からおおよそ2ヵ月――。実際に降り立った現場で感じ得たのは、復興へのはるか遠い道のりとは裏腹に、力強く息づく北関東・東北地方の人々のエネルギーだった。メディアが報じ切れない「確かな復興への熱」を、現地からお伝えしよう。
(取材・文/友清 哲、協力/プレスラボ)

震災前とほとんど変わらない姿まで復興?
仙台を訪れて実感した「災害報道の偏り」

「今年のゴールデンウィークは、冷やかし半分で被災地を見に来る人も大勢いると問題になっていますが、私はそれでもいいと思っているんです。報道されているイメージに比べ、仙台が今どれほど元気か、より大勢の人に知って欲しいですから」

 そう語るのは、仙台市に住む会社員の女性だ。確かに筆者の周辺でも、仙台を訪れた人の多くが、「震災前とほとんど変わらないので、かえって驚いた」と口々に語る。

 実際に、仙台は元気なのだ。駅舎こそすっぽりと工事用の幕で覆われ、大規模な修繕工事が行なわれていることを思わせるが、これも先の地元女性によれば「震災後も見た目には特にダメージがなかったので、むしろ私たちがびっくりしています」という。

 仙台は東北最大の都市である。街を歩けばまだまだ修繕中の建物が目に付くし、商店のいくつかには「建物の安全が確認されるまで閉店します」との痛々しい貼り紙も見られた。しかし、何よりもこの街で働き、消費し、生活する人々の熱は確実に戻ってきている。

2011年5月20日
http://diamond.jp/articles/-/12340

正直に告白すれば、筆者自身、実際に仙台に降り立つまでは、物流も商業活動も滞り、大きな余震に頻繁に揺すられるもっと悲愴な雰囲気を想像していた。関東以西の人は、誰しも同じような印象を持っているのではないか。

 しかし、それゆえに「東北旅行」という選択肢がゴールデンウィークから消えたとなれば、これもまた深刻な風評被害である。

 今回改めて痛感したのは、被災者とそうでない者の視点・立場の差だ。物見遊山でも構わない――といった意味合いのコメントは、東京在住の筆者には、たとえ思っていても口に出せるものではない。これは東北在住者が発してこそ、深い意義を持つ言葉だと感じた次第である。

報道が少ない茨城で見た残酷なコントラスト
全壊家屋と無傷の店舗が向かい合う違和感

 今回の東北取材は、北茨城から始まった。報道される機会の少ないエリアだが、海に近く、大きな河川が流れる磯原町もまた、津波被害を被っている。気仙沼や女川のように広域が等しく激しい被害を受けているわけではないが、だからこそ、日常と被災のコントラストが震災の生々しい爪痕を感じさせる地域だ。

 道路一本を隔てて、全壊した家屋と通常通りに営業している店舗が向き合う姿は、まさしく異様。津波に襲われて半壊した家屋もあれば、生垣1つによって被害が抑えられ、泥土に塗れる程度で済んだ家屋もある。

 もともと海辺の静かな街であり、商業活動の活発な地域とは言い難い。しかしそれでも、生活手段が残された人々は、かつての日常を取り戻そうと懸命だ。

 取材の最中に出会った、この地で商売を営む男性は、「“助かった!”という想いに安住するのではなく、1人ひとりが自分のやるべきことに力強く取り組まなければ復興は叶わない」と語った。

 その原動力となっているのは、あれほど恐ろしい目に遭った自分よりも、はるかに大きな被害を受けている人々が大勢いる現実だという。住居も仕事も家族も失った被災者に比べれば、「やるべきこととその手段が目の前にあることは、何よりの宝であり使命である」というのだ。

原発付近の2自治体が同居する大規模避難所
「いつか帰る」という想いの行き着く先は?

 次いで訪れた福島県随一の都市・郡山は、仙台とは対照的に、まだ被害から完全に立ち直ったとは言い難い印象を受けた。人々の生活は十分に成り立っているが、ハード面の傷は今なお深い。

 駅舎こそ通常通りに営業し、休日の昼下がりとあって人出も多く賑やかだったが、隣接するファッションビルはいまだ再開できずにいる。近隣にも、半壊したビルや休止中の商店が多く目についた。原発による風評被害もあり、地産商品が思うように流通しない現在、せめて経済活動のベースとなる郡山の都市機能の復旧は急務と言える。

 そんな郡山市で、今も1000人以上が生活する避難所「ビックパレットふくしま」を訪ねた。ここには、2つの自治体の役場機能が収容されている。原発からほど近い、富岡町と河内町だ。

 都市圏の大規模施設ということもあり、物資は順調に配備され、医療機能も整いつつある。自衛隊による仮設浴場もある。しかし、避難者の間に燻り続ける、「家も車も無事なのに、どうして戻れないのか」という不満が、管理者を悩ませている。

 原発問題は、解決の糸口がいまだにはっきり見えてこない。段ボールで居住空間を区切って暮らさなけれなならない避難者の心情は、推して知るべしである。

 2つの役場機能が同居するこの避難所では、収容人数の多さも相まって、煩雑な作業が多く発生しているという。避難者だけでなく、激務による管理スタッフの疲弊も激しい。運営側が倒れるようなことがあれば、これもまた二次災害と言えるだろう。

 しかし、「合併の形をとって、せめて役場機能を統合するわけにはいかないのか?」という筆者の提案じみた疑問への回答は、明快だった。「いつか必ず自分たちの町へ帰る。そういう気持ちでいますから、現状、合併は選択肢としてあり得ないですね」

 原発の暴走が、すでに取り返しの付かない段階に達して久しい。原発至近の故郷に住民たちが立ち入ることができるのは、果たしていつの日か。行政の責任は、あまりにも重い。

瓦礫の山から無機質な荒野へ――。
陸地に取り残された魚たちの腐臭

 その後、仙台経由で石巻、女川の被災地に入る。瓦礫の山と化した町は、荒野へと変わりつつある。これが“前進”であるという現実を、一体どれほどの人々が受け入れているのだろうか。宮城県沿岸の瓦礫処理には、向こう3年を要するとの試算もある。

 漁港周辺は、津波が引いた後も冠水に悩まされ、震災後しばらくはアスファルトの上を多くの魚が泳ぐ異様な光景を見せていたという。完全に水が引いた現在、一帯では陸地に取り残され、そのまま朽ちた魚介類の腐臭が鼻を突く。

 多くの住宅が建ち並んでいたはずのエリアは、重機が通る通路が確保されたことで、なんとか「区画」という概念を取り戻していた。しかし、元通りの復元を目指すのか、それとも全く新しい、ゼロベースの街づくりに取り組むのか、現状で明確なプランは示されていない。

 足もとを見れば、眼鏡やCDといった生活の残骸が、瓦礫と粉塵に塗れて落ちている。基礎ごとリセットされてしまった、誰かの住居であった場所。そんな風景の片隅に、きれいに整地され、セメントで塗り固められた一角を見付けた。

それでもたぎる復興への熱き思い・・・・・・。
瓦礫にそびえる『がんばろう! 石巻』の看板

 真っ平らに整えられた地面に立てられているのは、横長の大きな看板。そこに大きくペイントされているのは、『がんばろう!石巻』の文字だった。

 いくつかのニュース番組でも取り上げられたが、かつてこの場所で水道工事業を営んでいたという男性は、津波から逃げ遅れ、松の木によじ登って一夜を明かしたという、凄絶な体験を明かす。水が引くと同時に自宅の消失を知り、愕然としたというが、幸いにも夫人はレスキュー隊に救助されており、夫婦は無事の邂逅を得た。

 絶望の後に残ったのは、新興への意欲と希望だった。もちろん、事業再開のめどがついたわけではない。それでも夫婦とその仲間たちは、まず自らの土地を整え、将来へ向けて『がんばろう!石巻』と力強く宣言する行動を選んだのだ。

 38メートル級の津波を受けた女川では、ビルの屋上に乗り上げた自動車や、横倒しになった大型ビルなどが、今もなお手付かずのまま、片付けられるのを待っている。そうした東北一帯の“深手”を改めて認識しつつも、復興への「確かな芽吹き」を感じることができたのは、収穫だった。

「東北の人々は我慢強い」とは、陳腐なおべっかかもしれない。しかし、雪解けの春を待ち、それから大きく動き始めることは、この土地に住む人々の得意技でもあるはずだ。眼前に問題は山積みだが、復興、新興への脈動はこれからますます強くなっていくに違いない。

http://diamond.jp/articles/-/12340?page=5

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