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吉備邪馬台国コミュの造山古墳など吉備の古墳を論じる

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造山古墳は応神天皇陵である可能性が高い
   母親の神功皇后は新羅など三韓征伐をしたと日本書紀にあるが、むしろ朝鮮半島勢力だと考えられる
   西から東へ、多くの政治勢力が流れてのが、弥生時代から古墳時代の実態
   この場合、征服というわけでなく、いわば傭兵軍団みたいなもの
   応神天皇は邪馬台国の王都のあった吉備だからこそ、列島支配のシンボルとして造山を作ったのではないか
   日本書紀に応神天皇陵の記載がないのは、のちの編纂者にとって吉備では都合が悪かったからだろう
   応神天皇が吉備の御友別に吉備を支配させて、それぞれの子に分国統治させたとあるのは当然
   完成した時には日本最大の古墳であった、履仲天皇陵は仁徳天皇陵、応神天皇陵は允恭天皇陵
   そして日本最大の仁徳天皇陵は雄略天皇陵である

雄略天皇は百済王族の昆支王、欽明天皇は百済の聖明王の可能性が高い
    5c後半の大和と百済は、対高句麗戦略で利害が一致
    一方、吉備は秦氏(新羅系)の力が強く、若干利害対立があった
    吉備の田狭の反乱伝承では、田狭は新羅に逃げている

岡山の古墳をちゃんと掘ることはとても大事なのだが、どこかでそれをいやがる勢力がいる
しかし我々は自分たちの先祖、風土をちゃんと知る義務があるのではないか。それが誇りにもなる

コメント(2)

吉備古墳における寿墓と被葬者 
 私は吉備古代史をテーマにした「勾玉の首飾り」という小説を平成4年から二年間連載したこともある。主人公・吉備尾代は日本書紀にたった一箇所出で来る人物である。そしてその人物は吉備の上道田狭の弟という設定であり、吉備の伽耶の臣の創設者にした。
 田狭は雄略天王にそそのかされて、百済救援に行っている間に、稚媛という妻を雄略天皇に寝取られたと日本書紀に書いてある。雄略天王は一晩に七回も出来たという位の精力絶倫だったから(こんなことをちゃんと日本書紀に書いてある)、そんなことも納得できる。妻を寝取られた田狭は、雄略天皇と対立していた新羅に入っとも書いてある。おそらくは田狭は新羅出身の親をもっていたと私は推測している。
 その田狭の作ったと思われる古墳が、赤磐市にある全長192mの両宮山古墳だ。吉備には前例の無い二重の堀を巡らせていることが近年発表された。時代的には5世紀後半いうことで、田狭お墓として時代は合う。そればかりか、どうも埴輪が巡っていない。当然のことながら古墳の本体の造営が終わってから、穴をあけて埴輪を立てるわけだから、埴輪がないということは本体が造営された直後に、何かあって埴輪を立てなかった可能性があるというわけ。両宮山は寿墓であり、新羅から戻らなかった田狭のお墓ということだ。
 さてこの古墳、石室はどうなっているのかなどまだ発掘もされていない。私は田狭の古墳だとすれば、本人は葬られていないのではないかと思う。掘ればすぐわかることなのだが。多くの考古学者は田狭の墓だと思っているだろう。問題は「寿墓」、つまり生前にお墓を作るということである。いまでも寿墓は作られ、自分の名前には赤い色を入れるではないか。ところが当時の古墳は造営に時間がかかる。伝仁徳天皇陵古墳(大山古墳、私は雄略天王陵と考えている)は、試算によれば20年かかったという。問題はいつその被葬者が寿墓の造営を決意したかということだ。当然のことながら自分はいつ死ぬかわからない。当時の日本は豪族たちがこぞって巨大墳墓の造営を競った変な時代だが、それにしても冬場の雇用対策など複合的公共事業の性格もあったにせよ、まずはその造営に必要な多人数の労働者を支配、あるいは指揮監督する権力をもたなければならない。
 ある豪族の一族の長になることでさえ、当時も今も決して安泰というわけではない。その人の能力性格も加味されて、必ずしも先代の長男が跡取りになるわけではないのは当たり前である。だから日本書紀を読んでいて、在位期間の短い履仲天皇とか、反正天皇のお墓が大きいというのは、ちょっと考えにくい。僕は現履仲天皇陵は私は仁徳天皇陵だと考えている。なぜなら、まずは強大な権力を獲得し、その権力が確たるものになるだけの時間が経過して、富の蓄積、安定感がなければ、巨大な古墳は造営できないと思うのである。当然ほとんどは寿墓ということになる。
 そうしてみてくると、私は吉備の造山古墳は応神天皇陵、その子の仁徳天皇陵は現履仲天皇陵、そして現応神天皇陵は允恭天皇陵、さらには現仁徳天皇陵は雄略天皇陵だと思うのである。考古学と文献史学を総動員すると、少なくともあまり矛盾はない。現在天皇陵になっているところは、宮内省の管理になっているから簡単に調べられないということで、日本の古代史研究の大きなネックになってきた。逆に言えば、これらを全部掘っていれば、邪馬台国論争なんてなかったかもしれない。宮内省という役所はそういう意味ではひどい役所だなと、中学時代から感じている。だって自国の歴史を調べさせないという、誇りのない人々の集団だと僕は思える。まあただ、掘るとまずいことが一杯あるのも予想できる。確実なのは、万世一系の天皇制が崩れるということである。
 まあしかし考えてみれば、そう恐れることはない。古墳時代の日本は、200年前からのアメリカのようなもので、大陸がいろんな人々が逃げてきたり、移民に来たりと随分グローバルな社会だったみたいだから。そういうなかで、桓武天皇あたりで唐の衰退がはじまり、ある意味鎖国して日本国を確立したのだからね。
 話をもどそう。両宮山古墳は田狭のお墓、そしてその弟という設定の尾代のお墓は、山手にある「寺山古墳」だと思う。全長120mで広い周濠もあるようだ。さしあたり吉備の造山、作山、両宮山、寺山の4古墳を掘ってみれば、楯築遺跡のように日本の古代史を激変させるだろう。逆に言えば、邪馬台国大和説やら九州説やらを含めて多くの古代史研究学者たちは掘ってほしくないだろうなあ。邪馬台国は吉備だったと証明できるかもしれないからだ。当然邪馬台国時代には吉備の楯築あたりは倭国の都だったのだから、その後100年ほどして応神天皇が旧の都に巨大古墳を造営したのは当然だろう。だって日本書紀に兄媛を追っかけて楯築の少し北の葉田葦守の宮に来たと書いてあるじゃないか。で、妻の一族に吉備を分割相続させたともね。つまり応神天皇は朝鮮半島あたりから最新の武器と大量の馬に乗って、旧倭国の吉備に乗り込んで入り婿になったというわけだよ。まあ神武天皇じゃないが、吉備に7年はいただろうな。その後息子たちと河内大和の征服にでかけたのさ。だからひょっとすると造山古墳を造営中に現履仲天皇陵古墳を作り始めたかもしれない。全く瓜二つの設計プランだものね。で、それを息子が使った。仁徳天皇のお孫さん、という触れ込みの雄略天皇は、その隣にもうちょっとでっかい古墳を作って、「どうだ、南朝宋から大将軍に任じられたオレハすごいだろう」と自己主張したのさ。人のやることは今も昔も違いはしない。小沢天皇は、どうも雄略天皇に似ているよな、やがてまわりがずだずたになる。人材登用はうまいが、孤独で側近しか信じられない。人を殺しすぎるとそうなるものよ。それが小説家もどきの僕の結論だ。

注記:最近発掘された岡山市の湊茶臼山古墳には、埋葬主体部がないことがわかった。つまり寿墓として造営中、よそで、たとえば朝鮮半島で主が亡くなったか、あるいはよそに新たに墓を造営した可能性が考えられる。古墳造営は、大規模土木工事だから、ある種の失業対策事業であったかもしれない。エジプトのピラミッドについても最近はそういう考え方も提示されている。為政者は何だかのこうした事業を作って経済を活性化させてきたのは、現在も同じである。

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