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吉備邪馬台国コミュの吉備邪馬台国説を論じる

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吉備邪馬台国説は、なぜ無視されてきたか                    岡將男
101年    巫術者・許聖、長江で反乱、漢に討伐され、降伏し江夏に強制移住
172年    許昌・許詔の反乱を孫権討伐、江南の許氏・卑弥呼日本列島・伊都国に亡命か、伊都国王受入
173年 倭の女王卑弥呼、新羅に使者派遣(新羅本紀・阿達羅尼師今20年)
          伊都国などの説得により、倭国大乱終結、卑弥呼吉備に移る
184年 黄巾の乱勃発、阿達羅尼師今(背高、鼻高、異相、加羅国王首露混同)死去
新羅伐休尼師今(巫術者)即位
東北の雄・檀石槐死去で遼東で公孫度が遼東太守となり、高句麗・烏丸を攻める
  公孫度は襄平(遼寧省遼陽市)で自立し、遼東候・平州牧を自称
204年    公孫度死去、息子の公孫康が後継
207年 魏の曹操、袁尚を追って遼西遼東の攻め、烏丸を攻めた。公孫康は袁尚を殺し首級を曹操に送る。
          公孫康は後漢の左将軍襄平候に任じられる
          公孫康、百済北方に帯方郡設置。倭韓は帯方郡・公孫康に属する。
       公孫康死去、弟の公孫恭が後継となる
220年 曹否、禅譲により魏文帝となる、公孫恭を車騎将軍とする。
228年 句麗東川王即位、高氏のため初めて国号を「高句麗」とする
公孫恭の弟、公孫淵が地位を簒奪、魏の明帝は淵を遼東太守に任命
229年6月  孫権、呉王になり、蜀と協議して幽州を呉の領地とする
230年    孫権、夷州(九州)と亶州(種子島)に兵1万出兵、失敗し将軍2名を処刑
          公孫淵への牽制で列島を支配下にというもくろみ
233年3月  孫権、公孫淵に燕王に任じる使者派遣
       公孫淵は使者を殺して首を儀に送り、使者持参の兵士財宝を奪う
       魏の明帝は公孫淵を大司馬に任命し楽浪公に封じたが、孫権は怒り狂う。
       呉の使者の一部は玄莬郡に幽閉され、逃亡して高句麗の東川王に匿われる。
       東川王は使者を手厚くもてなし、贈り物をして呉に帰国させる。
       呉の答礼の使者は遅く、その上、東川王が魏の毌丘倹と内通していると邪推し使者を捕える。
          毌丘倹は魏の明帝の側近、司馬懿とはライバル関係
          東川王は謝罪し、呉の使者に馬数百をあがなった。
234年    東川王が魏に使者を送る
235年 青竜3年銘の方格規矩四神鏡、丹後半島の京都府弥生町太田南5号墳出土(東川王→東倭?)
          同型鏡が狗邪韓国の大成洞18号墳からも出土
236年 司馬懿は、諸葛孔明が死去したので、公孫氏討伐に向かう
          幽州を自領とする呉は東川王との連合を模索するも、東川王は使者を斬って魏に送る
          東川王は孤立し、東倭(倭国の丹波・出雲か大和)との連合を重視
237年 魏の明帝、幽州刺史・毌丘倹に命じて公孫淵を魏都に召還。
          公孫淵は毌丘倹に勝利し、燕王と自称
   3月  魏は暦を改定して、4月とする(239年景初3年の11月12月に二回を12月として戻した)
   12月  景初2年1月、明帝は司馬懿に公孫淵討伐の詔勅を下した。
238年5月  景初2年6月、倭の女王は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、天子に献上品を申し出
          帯方郡の太守・劉夏は護衛をつけて都まで送らせた
       司馬懿。遼東に到着。卑弥呼は公孫淵滅亡を予期して魏に使者を送ったか。
8月  景初2年9月、司馬懿は公孫淵を襄平で包囲し、父子を殺害
          東川王は司馬懿に千人の救援を派遣
          慕容氏、司馬懿に同行して遼西に定着、勢力を拡大し始める
   11月  明帝は卑弥呼に詔書をもって「親魏倭王卑弥呼」と金印紫綬を仮授
          大夫難升米を卒善中郎将、次使都市牛利を卒善校尉に任じ、銀印青綬を仮授
          献上品は男生口4人、女生口6人、班布二匹二丈
          絳地縐粟罽(ペルシャ絨毯)十張、青絳五十匹、紺青五十匹、
          紺地句文錦三匹、細班華の毛織物五張白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚
          真珠、鉛丹五十斤
   12月  明帝死去
239年    景初3年銘三角縁神獣鏡が出雲神原神社古墳から出土(東川王→東倭?)
240年正月  東倭(丹波・出雲?)が晋に朝貢(「晋書」宣帝紀正始元年)、鮮卑、焉ぎらと朝貢
       正始元年、太守の弓遵が使者を倭に遣わして倭王に任命。金や錦、刀、鏡を下賜
242年    東川王、鴨緑江下流の西安平(丹東市東北)を攻める
243年 正始4年倭王は(帯方郡太守弓遵を通じて)大夫の伊声耆と掖邪狗ら8人を遣わし
生口・倭錦・絳青縑・布帛・丹・短弓矢を献上、掖邪狗らは卒善中郎将と印綬を拝した
       この年、少帝元服、各国はお祝いの使者を派遣は当然
       この頃、極東では毌丘倹と高句麗東川王が熾烈な戦闘中、列島も影響を受ける
       12月、倭の女王卑弥呼が(毌丘倹を通じて)魏に使者を遣わして献上品を奉じた
244年 毌丘倹は玄莬郡太守・王頎と兵1万で高句麗攻略、沸流水で合戦し丸都攻略落城。
          東川王は妻子と嶺東の濊の不耐王の元へ逃げる
245年5月  王頎は濊の不耐王城を攻め、勝利の銘文を残す
東川王19年条(高句麗本紀)に「東海の人が美女を献じて後宮に入れた」
濊を追われた東川王は竹嶺に南下、買溝の北沃祖に逃亡、王頎軍は追跡し記念碑を残す
魏志倭人伝に「倭に詔を賜り、難升米に黄幢が郡(王頎)に付して仮授された」
245年10月 東川王、辰韓の北辺を攻撃。毌丘倹と難升米は同盟の確認
       東川王は辰韓の于老破れ、南平壌(長寿山城)に城をつくり定着
246年8月  毌丘倹と劉茂が弓遵と馬韓の臣濆沽国を攻め、弓遵は殺害される。
       毌丘倹、楽浪郡太守・劉茂が東川王を攻める
247年2月  東川王は南平壌を去る
       正始8年、王頎が帯方郡太守に着任。
倭の女王と狗奴国が交戦。載斯・烏越等が帯方郡に来て報告。
塞曹掾史の張政等らを派遣して、詔書と黄幢を拝受した難升米に檄文で教示
       「以って卑弥呼死す」。径百余歩の大塚、葬礼使役の奴婢百余人
       倭に男王立つも、国中服さず、相互に千余人が殺される
       卑弥呼の宗女13歳の臺與を王として治まる。張政は檄文で臺與を教え諭した
          臺與は倭大夫の掖邪狗(東倭)ら20人に張政に送らせた、
男女生口30人・白珠五千・孔青大句珠2枚・異文雑錦20匹を献上
248年2月  新羅は高句麗に使者を派遣して講和した。「高句麗本紀」「新羅本紀」
          この頃高句麗は滅亡しているのでは(小林説。東川王は列島を支配)
253年 倭国から辰韓への使者・葛那古が于老の客館に滞在中、
于老は「近いうちにお前の王を塩奴にしてやる」と放言
倭王は于道朱君を大将に攻撃。于老は倭軍に謝罪するも柴を積んで焼殺した。
当時既に毌丘倹は司馬師によって対呉戦のために配置転換
255年 毌丘倹、司馬師に対して反乱して殺される、高句麗再興か。
259年12月  高句麗中川王、魏と鴨緑江の支流で戦って勝利。晋と高句麗は以後国交断絶
264年2月  新羅王未鄒(金氏)は東部に行って海を見た
   3月  未鄒は千部の黄山に行って馬韓方面を慰撫
265年 司馬炎が晋を建国
266年11月  太始2年、晋書本紀に「倭人が来て貢物を献じた」
280年 呉、滅亡
286年 慕容廆、晋の武帝(司馬炎)に反抗して夫余に侵攻。夫余王自殺、一族は沃祖に逃亡。
          高句麗は夫余を保護し、以後100年間に渡って鮮卑の慕容氏と対立
          慕容氏は百済を支配
298年     晋の武帝(司馬炎)が死去、素九室の子・孝恵帝が即位するも、皇后の賈氏一族に実権
9月  百済に漢(劉氏・劉曜か)が貊人(高句麗人か)と侵攻して、責稽王は防戦したが死去。「百済本紀」
    百済の王子・温羅(出雲の振根)は救援のため半島に出陣

この頃    飯入根が神宝を崇神天皇の命で献じたのを、出雲振根が怒り、飯入根を殺害
       崇神は武渟河別と吉備津彦を派遣し、出雲振根を討伐(吉備津彦、温羅を討伐)
          ヤマタノオロチの韓
    劉曜は北九州に上陸、伊都国を支配、のちの怡土の県主五十跡手(長門の穴門を支配)
299年     司馬氏一族が反乱し、賈氏を幽閉
300年     賈氏一族を誅殺(八王の乱)
306年 孝恵帝は八王に追われ、鄴から長安など流浪、この間周辺民族が対等し侵入。匈奴の劉氏大単于に。
          武帝の25番目の子・孝懐帝が洛陽で即位
308年    匈奴の劉淵、平陽で新王朝・「漢」を建国、中国皇帝を名乗る、年号・永鳳
310年 劉淵死去、後継は劉聡
311年 劉聡は一族の劉曜と王弥(毌丘倹の部下、王頎の孫、山東半島)を洛陽にやって陥落させ、大略奪。
孝懐帝と妃、一族と伝国六爾を奪う。実質晋は滅亡 「永嘉の乱」、孝懐帝殺害される
          洛陽では武帝の孫・孝愍帝が即位
316年11月 洛陽を劉曜が包囲。孝愍帝を降伏させ、翌年殺害。
318年 劉聡死去。一族を排して劉曜即位。国号を「趙」と変更。胡族の出身と思われる
          劉曜は趙襄子を自認し、半島に関係があるはず、半島の殉死の風習を踏襲

邪馬台国九州説   東大中心
邪馬台国吉備説   無視
邪馬台国大和説   京大中心

しかし邪馬台国直前の日本最大の弥生墳丘墓「楯築遺跡」の発見で劇的に状況はかわっている
   大量の朱、中国式の木槨墓、弧帯紋石(御神体)、砕かれた弧帯紋石、前方部、特殊器台
いずれも大和の初期古墳につながるものばかり、つまり吉備勢力が初期大和政権の中核との評価
   しかし現実は、大和説の強化に使われ、恣意的に最初の巨大前方後円墳「箸墓」の時代を操作

寺沢論文の価値、しかし本人はなおかつ大和説
   前方後円墳の諸要素の7割は吉備から
   鯉食神社が卑弥呼の墓である可能性もある

少なくとも吉備説を無視してきたのが日本の考古学界、文献史学界であることは間違いない

邪馬台国吉備説、狗奴国大和説 なら、すべてうまく説明できる
●日本書紀には、邪馬台国を説明できない、無理やり神功皇后に充てているが、時代が合わない
●狗奴国は強国で、邪馬台国は軍事的に悲鳴をあげて魏の援助を求めている
●日本書紀には、吉備津彦の吉備征服説話があり、また温羅伝説も地元に残っている
●卑弥呼の死後、吉備の祭祀を取り入れて、ある意味平和的に邪馬台国が大和に組み込まれた
●だが一部勢力は統一に参加せず、温羅伝説になったのかもしれない
●その統一のシンボルが箸墓古墳と考えた方が、時代が合う
●浦間茶臼山古墳は箸墓の丁度1/2のサイズ、九州の石塚山古墳もほぼ同サイズ
●つまり前方後円墳体制を通じてゆるやかな日本統一がなされたのは、崇神天皇時代

コメント(5)

たまたま町の図書館で「邪馬台国吉備説 神話篇」(廣畑輝治著 神無書房刊)見つけて借りて今日読み終えました。これは「こんな本読んだよ」と言うトピでも立てて本コミュにアップせねばと思っていたんですけどこのトピの#0を読むと何か同じような説だったのでこちらにアップしました。

少々証拠となる神社のピックアップが恣意的かなという気はしました。でも確かに面白かったです。日本の中心が北九州→吉備・讃岐→大和と移動していったという点、大和朝廷の最初は北九州と吉備邪馬台国が神武天皇の擁立して建てた葛王国であったとか、興味引きました。しかしその反面、廣畑説では3世紀後半弥生時代終末期に開化天皇治世に吉備・讃岐邪馬台国は征服され滅びることになっているがその後なおかつ吉備が独自の勢力を保っていたことに対する説明がつかない、そこが少し弱いかなと思いました。
またまた邪馬台国吉備説の本を読みました。
「吉備の邪馬台(やまと)国と大和の狗奴国」(若井正一著 歴研刊)

#1の本よりかは説得力はあったと思います。特にヤマトという地名を固有名詞てではなく普通名詞(都という意味)で捉えている点とか新鮮でした。
この説に寄ると
盾築弥生墳丘墓の被葬者は卑弥呼の前の男王
鯉喰神社墳丘墓の被葬者が卑弥呼だそうです。
千足古墳関連の記事探していたらこんなニュース見つけました。

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011061823400097/
あっちゃん、そうなんですよ。本当は吉備邪馬台国と思ってるかもしれないですよ。今週土曜日には、岡山県教育委員会にいた柳瀬昭彦さんを呼んで、話を聞きます。上東遺跡や百間川遺跡を掘った人です。
イベントの方でコメントしましたが柳瀬先生は知っています。本当は行きたいんですけどね。千足古墳の現説の後参加というのは垂涎のパターンですよね。

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