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聖ファシズム宣言コミュの三、命のファシズム

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「二、涙のファシズム」において、ファシストは、
どんな「社会」からも「社会的アイデンティティ」からも放逐された、
けれども実は誰もが隠し持ちながら封印している、
「涙の領域」「不可触賎民の領域」「絶対的弱者の領域」に、
立脚するのであると言った。

さてそれでは、その一切の権利の存在しない「涙の領域」、
「内なる外部」の闇の中において、
私達はどのような存在としてあるのであろうか?

たとえば「二、涙のファシズム」において取り上げた
「悪霊」のマトリョーショカは、結局は自殺してしまうのだが、
その直前に言葉もなく、スタヴローギンに抗議する。

その抗議の身振りと表情を、
後にスタヴローギンは毎日のように幻視するようになるのだが、
それは、次のような身振りと表情である。

「私に向かって顎をしゃくりながら、
小さな拳を振り上げていたあのときと同じように、
げっそりと痩せこけ、
熱を持ったような目を輝かせているマトリョーショカを。
いまだかつて何一つとして、これほどまで痛ましいものを、
私は目にしたことがない!
……(中略)……あの身振り、ーーつまり、彼女が私を脅そうとしたことが、
私にはすでに滑稽なことではなく、恐ろしいことだったのである。
……(中略)……私は犯罪のことを、彼女のことを、
彼女の死のことを悔やんだのではない。
ただただ私はあの一瞬だけが耐えられなかった。
どうしても、どうしても耐えられなかった。……」

少女のマトリョーショカには、法や常識など様々な社会的アイテムを使って、
「権力ゲーム」内でスタヴローギンと勝負する才覚などあろうはずもなく、
またたとえそこで勝ったとしても、彼女は全く救われなかったであろう。

彼女はまさに「涙の領域」「不可触賎民の領域」「絶対的弱者の領域」にあり、
絶対的に無力な存在である。
だがそれでも彼女は、熱をもったように目を輝かせて、小さな拳を振り上げる。

そしてスタヴローギンにとって耐え難いほど「恐ろしいことだった」のは、
彼女を犯してしまった自分の罪でもなければ、彼女の自殺でもなく、
この「無力なる抗議」だったのである。

なぜ罪よりも死よりも、「無力なる抗議」の方が「恐ろしい」のか?

それはたぶん、どんな絶対的な無力の中でも決して弱まることができない、
むしろ無力であればあるほど強くなってしまう、抗議への意欲、
どんなに言葉を奪われても、決して弱まることのできない、
むしろ奪われれば奪われるほど強くなってしまう、表現への意欲、
そういった意欲の不条理の、恐ろしさなのではないだろうか?

それは、「命」というものに刻印された、無限の意欲的性質であろう。
「命」とは「無力」の内へと閉じ込められれば、
それに従って「無」になるというような性質のものではなく、
むしろ「無力」度が増せば増すほど、
その内に無理矢理閉じ込められた、
命のエネルギーの圧力=テンションは無限に強まり、
恐ろしい「激痛」として、爆発的なまでに高まるものなのである。

このことの好例として私は、
アガンベンが「アウシュビッツの残り物」の中で引用している、
レヴィという人の文章の中のフルビネクをも、
ここに取り上げておきたい。

「(唖の)フルビネクは無であり、死の子であり、アウシュビッツの子だった。
……(中略)……しかし、彼の目は、
痩せこけてやつれた顔の中に没しそうになりながらも、ものすごく鋭かった。
要求に満ちあふれ、主張に満ちあふれ、爆発しようとする意欲、
唖という墓石をぶち割ろうとする意欲に満ちあふれていた。」

ここに現れているものも、無力と死の中における「命」の、
無力と死の中に閉じ込められているがゆえに、無限に強まった、
爆発的なテンション・エネルギーであると言えるだろう。

ところで私は、特にここでアガンベンについて語るつもりはないが、
アガンベン等をある種の仕方で信奉する、いわゆる「極北の思索者」的な人々が、
フルビネクら、アウシュビッツの囚人であるところの
「回教徒」等を重要視するあまり、
あらゆるヒューマニズムや救済や革命や超人の思想や、
それどころか「善ー悪」について考えること自体についてや、
希望や尊厳を語ることについてまで、
「安易」で「甘ったるく」て「おめでたい」思考として、
厳しく告発し、糾弾していることについては、触れておこうと思う。

なぜなら私は往々にして、彼ら「極北の思索者」達が、
まさにマトリョーショカのような人間が、小さな拳を振り上げ、
「悪! 悪! 悪!」と、顎をしゃくりながら悪そのものを名指そうとする時に、
「悪を名指すなど、安易で甘ったるいことだ。
本当の絶望を知る者にとっては、善ー悪の区別など無い。」と、
まさにマトリョーショカのような人間をこそ糾弾としてしまうという、
そんなとんでもない残虐な光景を、
何度も何度も、目にしてきてしまったからである。

また私は、彼ら「極北の思索者」達が、
まさにフルビネクのような人間が、爆発的な要求と主張と意欲ゆえに、
「救済! 尊厳! 革命! 私はある!」と、獣のように叫ぶとき、
「本当の絶望の領域には、救済も尊厳も革命も私の存在などという物も、一切無い。
安易で甘ったるいことを、言うものではない。」と、
まさにフルビネクのような人間を前にしてこそ、諭してしまうという、
そんな耐え難い残虐をも、何度も何度も目にしてきた。

だが、考えてもみるがいい。ヘレン・ケラーが最初に言葉を発したのは、
「ウォーター!!」という叫びだった。
「本当の闇の中においては、言葉などというものは、存在しないのです。」
などと、喋り出したわけではないのである。

そんな、「ウォーター!!」とまさに叫んでいるところのヘレン・ケラーに向かって、
「本当の闇を知る者にとって、言葉などというものはナンセンスだ。君は、甘い。」
などと言うことの破廉恥さといったら、そっちの方が余程甘いだろうと思うのだが、
そんな破廉恥なことが日々行われているのが、この世の現状なのである。

私が思うに、本当に善も悪もない領域に突き落とされてしまった人間が、
まさにその領域の只中で、語り始めようとする時には、
恐らくその人はまず「ウオ、ウオ、ウオ、」と獣のようにうなり、
そして拳を突きつけながら、
あるいは誰ともしれぬ何かに向かって懸命に顎をしゃくりながら、
「悪! 悪! 悪! 悪!」と、声にならない声で、叫び始めるに違いない。
涙や鼻水や涎や、あるいは回教徒達のように、糞尿をまで垂らしながら。

語らない回教徒達が語り始める時があるとすれば、
それはそのように始まりはしないだろうか?
「善も悪も、そんな区別はないのである。」と語り始めるのではなく、
むしろ何よりも確かな悪の中の悪を、
空を指さし、飛び出さんばかりの目で見据えながら、
「悪! 悪!」と、名指し始めるのではないだろうか?

そう、従来の意味での善も悪も無くなった領域でこそ、
本当の善ー悪が、怒濤のごとく立ち現れてくる。
絶望の中でこそ爆発的な救済への意欲が、
無力の中でこそ無限のテンション・エネルギーが、
全ての尊厳が奪われた場所にこそ強烈な尊厳の輝きが、
徹底的な自我崩壊の中にこそ絶対的に揺るぎない自己が、
全ての人間らしさを奪われた非ー人間(最下人)の中にこそ、
真実の人間(超人)が、生まれ出てくる!

そのような肯定的主張を、獣の悲鳴のように叫んでしまうことは、
そんなに「安易」で「甘ったるく」て「おめでたい」こととして、
告発・糾弾されねばならないことなのであろうか!?

それにしてもなぜ、ある種のアガンベンその他の思想の信奉者達、
いわゆる「極北の思索者」的な人々というのは、
日々「絶対的弱者」や「不可触賎民の領域」について語りながら、
その「絶対的弱者」や「不可触賎民」であるような存在を目前にしたとき、
それがまさに「絶対的弱者」や「不可触賎民」そのものであると気付かず、
「安易」だとか「甘ったるい」だとか「おめでたい」だとか、
告発・糾弾してしまうのだろう?

そのことについて私は、ずっと胸を痛め続けてきたあげく、
彼らがそのようなとんでもない残虐な大間違いをしでかしてしまうのは、
彼らが「絶対的弱者」や「不可触賎民」であるような者達のことを、
「尊重すべき他者」として、誤認しているからではないかと、思い当たった。

そして更に彼らは、その「尊重すべき他者」と自分とは、
決定的に切り離されているのだと誤認し、
「彼らの無力に較べたら、自分は物凄く恵まれている。」だとか、
「他者の絶望をわかったかのような気になるのは傲慢」だとか、
妙な自戒を自身に課し、
だから「尊重すべき他者」を尊重するためには、
「自己主張」を放棄しなければならないのだと、感じている。

そして彼らはそのような自己主張放棄の「自己犠牲」によってこそ、
「権力ゲーム」の外側に出ることが出来ると信じ込んでいるために、
「自己犠牲」どころか強烈な自己主張の叫びによって、
「権力ゲーム」自体を破壊しようとするような人間を見ると、
それがたとえ「絶対的弱者」や「不可触賎民」そのものであるような、
そんな人間の叫びであっても、そうと気付かず、
「安易!」「甘ったるい!」と、告発し始めてしまう。

だが実際には、彼らのその告発こそが、
まさに「権力ゲーム」内の権力そのものであり、
彼らは「権力ゲーム」の外側に出ようとして「自己犠牲」に励むがゆえに、
かえって権力に取り込まれてしまっているのである。

だから権力に取り込まれないためには、私達はむしろ、
「絶対的弱者」や「不可触賎民」といった存在を、
「尊重すべき他者」としてではなく、
「これこそが私だ!」「私こそが、絶対的弱者であり、不可触賎民だ。」
「私はマトリョーショカだ。」「私はフルビネクだ。」とこそ、
認識せねばならないのである。

というのも、真に無力を感じ抜くというのは、
どこまでも「一人称的な体験」なのであって、
たとえ他人の無力を耐え難く感じる場合でも、
それは「私が耐えられない」のであり、
そのような「無力なる一人称の領域」から離れてしまっては、
人は真に「無力の感触」を、感じているとはいえないからである。

そしてこの「無力なる一人称の領域」こそはまさに、
「涙の領域」「不可触賎民の領域」そのものなのである。

けれども二人称・三人称的な「他者」の尊重は、
この「無力なる第一人称」としての「私」を、それらの領域から引き離し、
「他者の尊重」という権力性を帯びた意味アイテムを掲げる「私」、
「権力ゲーム」内に取り込まれた「権力的な第一人称」としての「私」へと、
「私」自体を変換してしまうのである。

そのような「私」の変換を避けるためには、私達は、
徹底的に純粋に、「自己中心的に」ならねばならない。
それは、お金のためにも、権利のためにも、
二人称・三人称的他者のためにも、物理的生存のためにさえも、
決して「自己犠牲」しないということ、
つまり、お金や権利の主張・獲得や、他者をも物理的生存をも放棄して、
純粋純潔な剥き出しの「絶対的自己中心性」に、目覚めるということである。

そう、この純粋純潔な剥き出しの「絶対的自己中心性」こそが、
つまり、物凄いテンションで高まった、爆発的な「自己主張の意欲」こそが、
「涙の領域」「絶対的弱者の領域」=「無力なる一人称の領域」に立脚する者の証、
真に「権力ゲーム」から放逐された、権力放棄者の証なのである。

そしてそのような「絶対的自己中心性」に目覚めた者は決して、
マトリョーショカやフルビネクのような、
爆発的な自己主張の意欲に取り憑かれた「絶対的弱者」を前にして、
「安易」だとか「甘ったるい」だとか糾弾してしまうような、
そんなとんでもない間違いは犯すまい。

なぜなら、自身がまさにマトリョーショカやフルビネクがそうであるような、
「絶対的弱者」「不可触賎民」「無力なる一人称」そのものなのであるから。

そして、「涙の領域」「絶対的弱者の領域」「無力なる一人称の領域」に、
立脚した者のみに目覚める、
剥き出しの「絶対的自己中心性」「爆発的な自己主張の意欲」こそが実は、
「命」そのものの偽らざる姿なのだ。

つまり、全ての人間の奥底に封印されている、
普遍的・絶対的な「生命原理」そのものなのである。

だからこの剥き出しの「絶対的自己中心性」において、
全ての人間、それどころか全ての生きとし生けるもの達全てが、
「痛み」と「切なさ」の爆発的テンションの只中で、繋がっている。

私達ファシストは、
「涙の領域」「絶対的弱者の領域」「無力なる第一人称の領域」に立脚し、
権利の獲得のためにも、二人称・三人称的他者のためにも、
物理的生存のためにさえ、決して「自己犠牲」することなく、
真の権力放棄の証であり、また「命の原理」そのものであるところの、
「絶対的自己中心性」に、目覚めるものとする。

そして、普遍的・絶対的な「命」の「痛さ」や「切なさ」の、
激越なテンション・エネルギーの只中で、
生きとし生けるもの全てとつながり、
目を輝かせ、小さく無力な拳を振り上げながら、
純粋無垢な剥き出しの「自己主張」を、試み始めんとするものである。

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