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ラブストーリーをチェーン小説でコミュの小説「蒼い森」

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 鳥の鳴き声で、目が覚めた。そうだ、ここは東京ではなかったんだ。夏休みに入り、伯父の別荘に母と妹と三人で来ていた。何日経っても、目覚めたときには場所の感覚がわからなくなってしまう。

「薫(かおる)、碧(みどり)、朝食ができたわよ」という母の大きな声が聞えた。僕は階下のダイニングまで降りた。
「よく眠れた?」
「うん」
 少し遅れて妹の碧も降りてきた。目玉焼きと野菜サラダ、それにトースト。朝食のメニューは東京の自宅で食べるものと変わらなかったが、ここは空気が澄んでいるせいか不思議と食欲が湧いてくる。
「今日は銀座まで行きたい。お母さんも一緒に来て!」
「またおねだりでしょ」
「ばれたか」
「まぁ、いいわ。私も買いたいものがあるから」
 母と妹の会話を聞きながら、僕は目玉焼きを丸ごとほおばった。母はここに来てからすこぶる機嫌がいい。都会の雑踏から離れ、豊かな自然に囲まれた軽井沢に来ているからだろうか。一人残してきた父が気の毒といえば気の毒だが、あのひとはなんだって一人でできるのだから大丈夫だ。

 実際、軽井沢の自然は素晴らしかった。白樺に囲まれた一本道を歩いていると、心が落ち着く。別荘のテラスの木製ベンチで静かに本を読むこともある。ゆるやかな風の清涼感と木々のざわめく音、そして名も知らぬ鳥たちの囀り。僕は、心が生き返るような感覚を味わった。

 大学一年生の僕が母と妹と旅行だなんて、数ヶ月前の僕だったら考えもしなかっただろう。伯父の別荘は、軽井沢銀座と呼ばれる大通りから離れたところにあり、僕と同年代の若者と会うことはめったになかった。正直言って、今は同じ年代の人間とはしばらく会いたくなかった。

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 こんな風に僕が季節はずれの五月病のような症状になってしまったのにはわけがあった。
 端的に言えば、失恋というやつだ。元カノの麻衣とは、中学三年のときからの付き合いで、付き合い始めてからかれこれ四年の月日が経っていた。中学、高校と同じ学校だった。それが大学で別々になり、彼女は同じ大学のサークルの先輩に熱を上げてしまった。

 女ってヤツは残酷だ。夏休みに入る直前、「薫、ごめん。あたし好きなひとが出来ちゃったの」と打ち明けられた。その一言で僕達の四年あまりの交際はジ・エンドとなった。あっけないものだ。僕は何も言い返せなかった。
 大学に入ってから、こういう時期が来るような嫌な予感はしていた。それでも、僕は麻衣を愛していた。二人で行った海岸で、麻衣が脱ぎ捨てた白い小さなサンダル。それがさっきから僕の瞼にちらついている。ここは森なのに不思議だと思った。

「薫、何してんの?早く食べてよ。片付かないじゃない」という母の声で僕は我に返った。慌てて、冷めたトーストを口に運ぶ。東の窓から朝日が入るダイニングは明るかった。木の匂いがほんのりと漂う。母と碧はここに一週間居るつもりらしい。僕は、もう少し長く滞在しようと思っていた。軽井沢に何があるというわけじゃない。ただ、東京に戻りたくないだけだった。

 そのとき突然携帯の着信音が鳴ったので、びっくりした。携帯電話の電波は、この木々に囲まれたエリアも十分にカバーしているらしい。一瞬、麻衣からかと思ったが、画面には「祐二」という表示が出ていた。電話に出ると、「おい、薫!」という野太い声が聞えた。
「なんだよ、また合コンか?」
「そうだ。よくわかったな」
「だって、おまえそういう時しか電話かけて来ないじゃないか」
 僕は茶々を入れたが祐二は構わず話を続けた。
「実は、今週の土曜、名西女子大の女子とビーチパーティをやることになっている。男が一人足りないので、おまえに電話したんだ。おまえが麻衣と別れたばかりだから寂しいだろうと思ってさ」
「ウソつけ、散々当たってダメだったから僕にかけてきたんだろう」
「当たらずとも遠からずだ」
「僕は、軽井沢に居るので行けないよ」
「おまえどうして軽井沢なんかに居るんだ?麻衣に振られて、ヤケクソか?」
 その通りだったが、そんなことは口が裂けても言えない。癪に障ったのでこう答えた。
「いや、伯父が軽井沢に別荘を持っていて、母と妹が行くと言ったので一緒に来ただけだ。東京は暑いからな」
「以前のお前だったら家族となんか旅行に行かないくせに。大体、大学に合格した年の夏ってのは女とどっかにいくもんだ」
 祐二の指摘があまりにも的を得ていて、段々腹が立ってきた僕は、「とにかく行けないので、誰かほかを探してくれ」と言って、電話を切った。

 祐二と僕は高校三年の時同じクラスだった。麻衣とのことも知っている。高校時代はさほど仲が良かったわけではなかったが、同じ大学の同じ学部に入ったので、たまに合コンに誘われる。声が太いのは、高校のとき応援団にいたからだろう。それが原因かどうかは知らないが、祐二は女には縁遠かった。
「この夏は絶対に彼女を作る!」
 というセリフは耳にタコができるくらい聞かされた。
 その祐二の電話だからまた合コン話だろうと思ったら、当たりだった。それにしても、麻衣の名前を出すあいつの無神経さにはホトホト嫌気がさした。
「お兄ちゃん、一緒に出かけないんならアメリアと散歩行って来てよ」

携帯を見つめ呆然としている僕に碧が話しかける。
そして碧の「さんぽ」という声にアメリアが反応する。しかし、顔を少し動かしただけて何も気付いていないようなふりをする。ただししっぽの動きを隠すことまでは出来ていないのだけれども。

アメリアというのはうちで飼っている大型犬だ。この軽井沢の別荘にも一緒に連れてきた。
ちょうど麻衣とつきあい始めたころ、碧が拾ってきた子犬だ。そう、そのころは子犬だったのだ。手のひらに乗るぐらいの。
その子犬は一年もたたないうちにどんどんと大きくなり、今では小柄の女性の大人と同じぐらいの大きさの大型犬に成長してしまった。
拾ってきた犬だからおそらく雑種だろう。ただ雑種のわりには性格はおとなしくあまり吠えることはない。
ただしおとなしいのは僕以外の人に対してなのだが。

「嫌だよ。アメリアは碧が最後まで面倒を見るっていう約束で飼うことに決めた犬だろう」
僕の嫌そうな声に反応しアメリアのしっぽの動きが止まる。
「そりゃそうだけどさあ、たまにはいいじゃん。アメリアはお兄ちゃんのことが大好きなんだし」
・・・大好き。これが問題なのだ。
なぜかアメリアは僕のことが大好きらしい。大好きなのはいいのだが、あの体の大きさで飛びかかってきたり、引きずり回されるとこっちの体が持たない。
最近ではアメリアの方でも僕に注意されることが分かっているのであまり近寄ってこないが、いま僕と散歩に行けるのかもしれないということを耳にし、ちらりちらりとこちらをうかがっている。
「ねえお兄ちゃん、たまにはいいでしょう?」
まあそうだなあ、アメリアに悪気があるわけじゃないんだから少しかわいそうな気もするし、
「よし分かった。アメリア、今日は僕と散歩するか、あ」
僕がそれを言い終わらないうちにアメリアが飛びかかってきた。僕はアメリアの体を支えることが出来ずに椅子ごと後ろに倒れこんだ。そしてアメリアは倒れた僕の上にのしかかり僕の顔全体をペロペロとなめまくった。

「よ、よせ。嬉しいのは分かったから離れろよ、アメリア」

「あ、薫。昼食は一人で適当に取ってね。私と碧は銀座で食べるから」
 朝食が済むと、母と碧は僕とアメリアを残して出かけていった。

 アメリアはさっきから散歩をせがんで僕の周りをグルグルと回っている。本当は、今日はゆっくり本を読もうと思っていたのだが、アメリアのリードを取り、散歩に出かけることにした。

 軽井沢の朝は素晴らしい。なんといってもその空気のおいしさだ。緑の鮮やかさは東京の比ではない。アメリアは、うれしさで嬉々として走り出した。僕は必死で彼女について行く。アメリアに引きずられるようにしてやって来た通りは初めて見る道だった。その通りは教会へと続いていた。とんがり屋根の木造建築が、白樺の木々の間に現れ、気がついたら僕は教会の建物の前まで来ていた。

 教会の戸口の前に女性が一人立っているのが見えた。華やかな服装から結婚式の出席者だと思われる。しかし、ほかには誰の姿も見えない。結婚式が始まる時間にしては少し早すぎるような気がする。

 気になったので、僕はアメリアをおとなしくさせると、その女性の方を見た。青い光沢のワンピースドレスが似合っていた。年は二十代半ばから後半といったところだろう。結婚式に参列するにしては寂しげな表情をしていた。

 女性は僕に気づくと、ちょっとバツの悪そうな顔をして、軽く会釈をした。僕も軽くお辞儀をした。アメリアがまた走り出したので、それ以上彼女の姿を追うことはできなかった。
なぜだろうか?
なぜだか僕はさっきのワンピースドレスの女性のことが気にかかった。
あの寂しげな表情。
結婚式の出席者としては少し似つかわしくない表情だ。
なぜだか僕は彼女のことが気にかかってしまった。
それはこのさわやかな軽井沢の朝の雰囲気に似つかわしくない表情だからだっただろうか。

多分、多分だけれども、
僕はさっきの女性に自分に似た部分を感じたのかもしれない。
大学1年目の夏、周りの友人達は次々とカップルとなり楽しい夏休みを過ごそうとしている。
僕はまだ失恋の痛手から立ち直れず、ひとり取り残されている。
きっと大学にいたころの僕はあの女性と同じ表情をしていたに違いない。

幸せそうな周りの環境にひとり身を置き寂しい自分をふとかえりみる。
この後彼女の周りに他の招待客が集まれば、きっと彼女は笑顔を作って見せるのだろう。ひとりの時には見せていたあの憂いのある表情を隠して・・・


僕が勝手な想像をしている間、アメリアはどんどんと先に進んでいった。
と、待て。
一体ここはどこなんだ?

いつの間にか思ったより深い森の中に入ってしまったような気がする。


「アメリア、もうストップだ。来た道を戻ろう」


「参ったなー、アメリア。さっき来た道がわからなくなっちゃったよ」
 アメリアは僕の情けない声を聞いて、くぅーんと一声鳴いた。森は明るい緑に覆われていた。白樺の木立の中で僕は大空を見上げた。木々の合間から遠く彼方に青白い空が見える。森の空気は、夏なのにひんやりとしていた。

 そのとき、後ろから足音が聞こえてきた。振り向くと、青いドレスの彼女がいた。
「あのー、さっき教会の前を通った方でしょ。こっちの方角へ行くと迷っちゃうかもしれないと思って追いかけてきたの。一緒に戻りましょう」

 さっきの憂いのある顔は笑顔に変わっていた。こげ茶色の髪はアップに挙げられていて、ドレスと同じ色の青いバラのコサージュが挿してあった。

「なんか変なところ見られちゃったわね。今日は先輩と親友の結婚式なんだけど、こんなに早く来ちゃって……。式は十一時からだからまだ二時間ちょっとあるのよ。軽井沢には子供の頃から何度も来ていて、この教会で結婚式を挙げることは私の憧れだったの。でもね、ここにはもう来ないかもしれない。だから、一人で見納めがしたかったの」

 彼女は僕に話しかけているのだが、独り言のようにも聞こえた。

「あ、ごめんね。聞かれてもいないのに一人で喋っちゃって。あなたどこから?大学生?」
「大学一年です。東京から母と妹とこの犬のアメリアと来ているんですが、散歩に出たらアメリアが走り出してしまって……。どうもありがとうございます。お陰で助かりました」
「私も東京からよ。軽井沢はいいところでしょ。東京は暑いし、人が多すぎるわ。こっちでも軽井沢銀座はよそから来た人たちでごった返しているけど、こんな風に静かなところもわりにあるのよ」

 彼女は歩きながら話を続けた。にこやかに話しているのだが、不思議な緊張感を感じる。その独特な雰囲気に威圧されたような気分になった僕は、相槌を打つだけで精一杯だった。アメリアもおとなしくついてきた。

「ほら、教会に着いた。私はここでもう少し名残を惜しんでいるわ。軽井沢にはあと一週間居るので、もしまた会えたらお話ししましょう」

 そう言うと、彼女は教会の建物の中に姿を消した。中に入れる時間になったようだ。
そして、その名も知らない青いドレスの彼女は去っていた。
彼女が教会の中に入る時、その笑顔が一瞬にして違う表情になったことを僕は見逃さなかった。
それは彼女を見かけた時の最初の表情、寂しげな表情だった。
でも、多分、その表情は誰にも見せないのだろう。
教会の中の新郎新婦にはきっと満面の笑顔を見せるのだろう。
なぜか、そんな気がした。

あの日からなぜか、アメリアと散歩するのが僕の朝の日課になってしまった。
アメリアが味をしめてしまい、目が覚めたら散歩用のリードを口にくわえ、ひょこんと僕のベッドの横で座っている。
ある程度おとなしくしていれば散歩に連れて行ってもらえることが分かったのだろうか。
僕としてもアメリアと散歩することは以前ほどは嫌ではなくなった。
アメリアがある程度僕の言うことを聞くようになったことと、もうひとつはもう一度あの青いドレスの女性と会えるかも、と思ったことが理由だ。

僕はあの女性に自分のことを投影している。

麻衣を失った僕はこれからどうすればいいのか。
祐二の言うとおり、合コンでもして彼女を作るのがいいのかもしれない。でも、とてもそんな気にはなれなかった。
あの青いドレスの女性に合うことでその答えを少しでももらえるような、なぜかそんな気がした。
僕の全くの思いこみなのだろうけれども、きっと僕と同じ境遇かもしれない彼女が、僕に答えを導いてくれるような、そんな気がした。
本当はそんなはずはないことは分かってる。でもなせかそんな気がしたのだった。

散歩のコースはあの日と同じ、あの教会まで行って家に戻るまでの道のり。
教会へと続く白樺の並木道で携帯の着信音が鳴った。画面には「非通知」という表示が出ていた。

落ち着け。

僕は高鳴る鼓動を体全体で感じた。まずはアメリアのリードの先をベンチにくくりつける。そして落ち着くために近くのベンチに座る。
落ち着きながらもその行為を素早く行わなければならない。早くしないと相手が電話を切ってしまうかもしれないからだ。
幸いにもまだ携帯は切れなかった。

「も、もしもし、・・・薫です」

いつものように、電話の先の相手は何も語らなかった。

麻衣を失ったあの日から、だいたい3日に1回ぐらいのペースで僕の携帯電話に無言電話が掛かってくるようになった。
誰かは分からない。
ぼくはそれを麻衣だと感じている。ただそう期待しているだけなのかもしれない。ただの変質者からなのかもしれない。
それでも、もし相手が麻衣だったとしたら・・・。

僕は慎重に言葉を続ける。言葉を選ばないといつものように電話を切られてしまうからだ。
「ねえ。君が、誰なのかは、僕は分かっていないけれども、そして、どうしていつも電話をかけるのかは分かっていないけれど、もし良かったらこのまま電話を切らずに僕の話を聞いて欲しいんだ。」
「・・・」
いつもだったら、話の途中で電話を切られてしまう。だけど今日は電話を切らずに話を聞いてくれていた。
よし。
ここまでは順調だ。そして、ここからが重要だ。もし相手が麻衣以外の悪意を持った人間かもしれないことを想定してここで安易に麻衣の名前を出すわけにはいかない。
僕が次の言葉を探している時、電話の先に小さな深呼吸の音が聞こえた。

麻衣だ!!

僕は確信した。
麻衣は緊張すると小さな深呼吸をするくせがある。
落ち着け落ち着け。相手が麻衣である以上、慎重に言葉を選ばないと電話を切られてしまう。後で電話をかけてもあの意地っ張りの麻衣にしらばっくられるだけだ。
この機会を逃すともう麻衣は電話をかけてこないかもしれない。麻衣と僕を結ぶこのか細い糸を断ち切るわけにはいかない。
その時、急に後ろから聞いたことがある女性の声が聞こえた。

「あれ?あの時の少年じゃない?偶然ってあるんだね。また会えるとは思ってなかったわ」
電話はプツリと切れてしまった。
声の主は教会で出会った女性だった。振り返った僕の表情を見て彼女は何かを感づいたのだろう。

「あ、ごめんなさい。急に話しかけてまずかったかしら?電話してるって知らなかったから・・・」

「・・・いえ。だ、大丈夫です。」

僕は何でもないふりをする。
なぜなら彼女が悪いわけではないのだから。
「何かわけがありそうね。おねえさんでよかったら聞くわよ」
 彼女は、今日は白いTシャツにジーパンというラフな格好をしていた。あのときはアップにした髪とドレス姿だったので随分大人びて見えたが、小柄でかわいらしい女性だ。

「えっと、まず自己紹介ね。私は青木詩織。最近まで都内の会社に勤めてたの。あの結婚式の前日から軽井沢にいるわ」
「僕は立原薫です。実は、僕は夏休み直前に失恋をして、気持ちの整理が全然つかなかったんです。それで、母と妹が軽井沢の伯父の別荘に行くと言ったので、気分転換のつもりで一緒にここに来ました。その母と妹は昨日東京に帰りましたけどね。あのとき、教会の戸口の前に立つあなたの姿が気になって……、なんだか自分の姿を見ているような気分になって、もしお会いできたらお話できないかと思っていました。いきなり失礼なことを申しあげてすみません」

 詩織さんは、びっくりした表情をして僕の顔を見た。やがて深いため息をつき、そして、悲しそうな顔でこう答えた。
「あたりよ、薫君。教会の前であなたに会った時に、心の中まで見透かされているような気がしたのは気のせいではなかったのね。あの日、私は決定的な失恋をしたの。この前の結婚式の新郎新婦は会社の先輩と同期入社の親友で、先輩のことは入社してからずっと好きだったの。私は留学という名目で会社を辞めたところ。九月になったら、アメリカの大学に行くことになってるわ」
 詩織さんの言葉は涙で震えていた。抑え込んでいた感情が爆発して、涙が溢れ出てきたような、そんな感じだった。
「ごめんね。大人なのに泣いちゃって。大人なのに……」
「僕こそごめんなさい。詮索するような真似をして。僕は、大人とか子どもとか関係ないと思います。泣きたいときは泣けばいいと思います」
「ありがとう。薫君を励ますつもりが、逆ね。だらしがないったら……」
 泣いている詩織さんの姿は少女のように見えた。「大人なのに」という彼女の言葉が僕の胸にチクリと刺さった。
その瞬間僕は、喜びと悲しみが入り混じったような不思議な気持ちになりながら、なぜか無意識に思い出の曲を口ずさみ始めていた。



「涙など見せない・・・♪」
彼女は僕が歌を歌い終わると、うれしそうな表情でメモに自分の連絡先を書いて渡してきた。
「これ、わたしの連絡先だから、もしよかったら電話してください。」
僕は、大人の女性の表情に戻った彼女を見ながら、まだ二回しか会ったことがないのにと思いながらも、内心うれしかったので少し照れながらそれを受け取った。
「ありがとうございます・・・。」

別荘に戻ってからも僕は、ベットに横になりながら彼女のことを考えていた。
「なぜだろう、他人ではない感じがするのは・・・。」
それは、麻衣との関係とは違う不思議な感覚だった。
すると、また携帯が鳴り出した。
そのとき僕は、自分の中に変化が起こっていることに気づいた。

んっ?!、いつもならあわてて電話を取るはずなのに・・・。

画面を見るとやはり今度は「非通知」になっていなかった。
僕は彼女からの電話であることを確認すると、無意識に少し微笑みを浮かべ、安堵感に包まれながら電話に出た。
「はい、薫です。」
澄んだ美しい大人の女性の声が響いた。
「今日はありがとう、あの歌いい雰囲気ね。」
僕は、歌にはあまり自信がなかったのでまた照れながら答えた。
「大好きなんですよあの歌・・・。」

電話が終わったあとも僕はまたいつものようにその曲を聴きながら、彼女のことを考えていた。
「多分この曲を作った人と同じような心の持ち主なんだろうな・・・。」
次の日僕は、なぜかすっきりとした気分で目を覚ました。
ベットの上で思い切りからだを伸ばしながら思った。

はあ、久しぶりにぐっすり眠れたな。

今度は、自分の身の回りに起こり始めている異変に気づいた。

んっ?!、いつもだったら僕のからだにのしかかってきて、無理やり起こしにくるアメリアがいないっ?!。

驚きながら、ベットから飛び起きた。

アメリアっ?!

部屋の中を見回すと横からアメリアのくんくんと大人しく鳴く声が聞こえた。
見るとあのアメリアがちゃんとお座りをしながら僕の方を見上げているではないか。
胸をほっとなでおろしながら僕は、ベットから足を下ろすとアメリアの頭をなでてやった。

「何だよお前、びっくりさせるなよ」

アメリアはうれしそうに吠えながら尻尾を振り始めた。
立ち上がって窓を開けると、軽井沢の緑の美しい森には朝霧がうっすらとかかっていて、僕はその素晴らしい景色を見ながら両手を頭の上で組んで背伸びをした。

はあ、なんてすがすがしい朝なんだろう。

全てが充実している気分だった。



僕はいつものように朝食を摂りながら、ため息をついて、また彼女のことを思い出していた。

彼女と一緒に食事が出来たらいいのにな・・・。

アメリアのくんくんと鳴く声が聞こえた。
僕は、アメリアの方を見ながら微笑んだ。

「ふふ、何だよお前、聞いてたのか」

愛読している本に書いてあったことが頭の中をよぎった。

犬は、人間と長い間共存してきたため、悲しみの感情を察知する能力があるようだ・・・か・・・。

散歩に行く準備をして、アメリアにリードをつけるとやはりアメリアの様子がおかしい。

おっおい、どうしたんだよ、いつもなら強引に僕のことを引っ張ってゆくはずなのに・・・。

僕はまた、ちゃんとお座りしながら尻尾をふってこっちを見上げるアメリアを見下ろして微笑んだ。

「ふふ、わかってるぞ、何かたくらんでるんだろ、お前」

一本道を教会の方に向かって歩き出すと、澄んだ空気の白樺の林から小鳥のさえずりが聞こえてきて、僕は大きく深呼吸をすると目を閉じた。

こんな気分になったのは久しぶりだな・・・。

僕は、もう麻衣のことは忘れようと思った。
目を開いてまた教会のほうに歩き出すと、今度は彼女のことが気になってきた。

今日も会えるのかな・・・会えればいいんだけど・・・。

そう思うと、もし彼女がいなかったらどうなるのか考えてしまって、ドキドキしてきた。
僕は立ち止まって考え始めた。

もう会わないほうがいいのかもしれない・・・。

また、アメリアが僕の前にお座りしてくんくんと悲しそうに鳴きながら、こっちを見上げた。
僕はそのアメリアの姿を見ると急に悲しくなって、崩れるように地面に両手をついてアメリアに謝った。

「くうっ!・・・、ごっごめんっアメリアっ!、ぼっ僕はっ僕はっ!、くうっ!・・・」

そのまま僕は、目を閉じて地面の土を握り締めながら、泣き始めてしまった。

「くっくうっ!・・・」

アメリアはそんな僕のほほをやさしく舐め始めた。
僕は、悲しい気持ちを必死にこらえながら、呼吸を整えた。

「はあはあ・・・ごっごめんアメリア・・・わかった・・・わかったよ・・・はあ・・・」

しばらくして僕は立ち上がると、近くにあったベンチに疲れたように腰掛け、ぼ〜っと前を見つめながら、隣にお座りして僕の膝の上に頭をのせたアメリアをなでた。
そうしていると僕は、なぜか安らかな気持ちになってきて、ベンチの背もたれにからだを預けた。

はあ・・・、今のはいったいなんだったんだろう・・・。
結局その時は詩織さんに会うことは出来なかった。

それはそうかもしれない。
散歩中偶然に出会うだなんて、そう何度もあることではないだろう。
帰り道アメリアは何度も立ち止まり振り返って僕を見た。
まるで僕を気遣うように。

家について僕はゆっくりと考えた。
何だろう。
詩織さんに会えなかったことに対して、残念だと思っている自分とホッとしている自分の両方の僕がいる。

麻衣のことがトラウマになっているんだな。

と僕は自己分析をした。
女性との関係を深くすることに対して、自分の中で無意識に拒否感が出ているのだろう。
別に僕は詩織さんとどうにかなりたいと思っているわけじゃない。
ただちょっと気になるだけなんだ。

自分から電話をかけてみたらどうだろう。

そう思ったとき、また急にドキドキしてきた。
待っているばかりじゃいけない、偶然の出会いばかりを期待してはいけない。
高鳴る胸の鼓動を押さえながら、僕は携帯電話を取り出した。
 携帯電話を手にして、着信履歴から詩織さんの番号へかけようと思ったその時、画面が「非通知」という表示になり、着信音が鳴り響いた。
 麻衣か?いや、本当に麻衣なのだろうか?彼女は僕以外の男を好きになって僕から離れて行ったはずではないか。今更何度も電話してくるなんておかしいではないか。僕は自問自答した。詩織さんの顔がちらりと僕の頭によぎったが、結局僕は通話ボタンを押した。
 携帯を通して深呼吸の音が聞こえた。
「もしもし……、麻衣かい?」
「……あ、あの……、あたし、麻衣じゃないの」
「麻衣じゃないって?じゃあ、君は誰?どうして僕の番号を知っているの?」
「……あの……あの、あたし由衣です。ごめんなさい。お姉ちゃんの携帯から薫さんの番号をこっそりメモしてきちゃったの」
「由衣ちゃんかぁ。元気?」
 僕は急に懐かしくなった。麻衣の家にはよく遊びに行ったので、妹の由衣とは何度も顔を合わせている。
「はい」
「でも、由衣ちゃんがどうして僕に電話するの?」
「あの、薫さん、お姉ちゃんと別れたって本当ですか?」
 由衣は僕の質問には答えずに唐突に聞いた。ぼくは小さくため息をついて、一呼吸おいてから口を開いた。
「……ああ、本当だけど」

 麻衣は僕と別れたあとすぐに妹にその話をしたのだろう。仲のよい姉妹だから。しかし、由衣も緊張すると小さな深呼吸をするという麻衣と同じ癖を持っていたとは知らなかった。 
「どうして別れちゃったんですか!?あんなに仲が良かったのに」

・・・よくこんなことを質問出来るもんだ。
由衣はこんなことを僕に聞くためにわざわざ僕の携帯番号を調べて電話してきたのだろうか。
理由を知らないはずがないのに。
「・・・どうしてって。それは由衣ちゃんの知ってるように、麻衣に好きな人が出来たから・・・」

僕が喋っている途中、電話の先に小さな深呼吸の音が聞こえ、そして僕の言葉を遮った。
「嘘です!あれはお姉ちゃんの嘘なんです」

「・・・え」
「だってあたしお姉ちゃんから聞いていたから。お姉ちゃんは薫さんの気持ちを試したかっただけなんです。自分に好きな人が出来たら薫はどうするかな、って試してみただけなんです」
「ええっ、由衣ちゃん、いったい何を言ってるの!?」
「薫さん!あの時、どうして止めてくれなかったんですか!?どうして何か言い返してくれなかったんですか!?」

この子は急に電話をかけて何を言ってるんだろう。
何を言っているかが理解出来ない。
・・・まさか、あれが嘘だっただなんて。

「確かに薫さんを試すような愚かな嘘をついたお姉ちゃんが悪いと思います。でも、でも。やっぱりお姉ちゃんはそんな薫さんの態度に不安になったんだと思います。自分が本当に愛されているかどうか不安になったんだと思います。好きな人が出来たって言われて、何も言言い返さずに別れちゃう薫さんも悪いんだってあたしは思います」

言われればそうかもしれない。
でも、あの時僕はショックで頭が真っ白になって何も言い返すことが出来なかったんだ。

「あれからお姉ちゃんはずっと落ち込んでて部屋に閉じこもっていることが多いんです。でもお姉ちゃんは薫さんも知っての通りの意地っ張りだから、自分から薫さんによりを戻す電話をすることは出来ないと思って、お姉ちゃんには内緒であたしから電話してみたんです。もし薫さんに新しい彼女が出来ていないのなら、あんなお姉ちゃんだけどもう一度やりなおして欲しいんです。あたしの言いたいことはそれだけです、失礼します。急にお電話すみませんでした」

そう言って由衣は電話をきった。

あまりの事に整理が出来ない。
由衣の言ったことは本当だろうか。
あの時の麻衣の言葉が嘘だったとはとても思えない。
麻衣のことについてやっと気持ちの整理が出来るようになったと思ったのに、そんなこと言われても。
また僕の心が乱される。
新しい彼女が出来ていないのなら、って、そんな急に麻衣以外に好きな人が出来るわけないじゃないか。

そう思ったとき、なぜか僕の心の中にあの詩織さんのことが思い浮かんだ。
 僕は木製ベッドの上に静かに腰をかけた。自分以外誰も居ない広い別荘の一室で目をつむり、ベッドに仰向けに寝転がった。外から様々な鳥の鳴き声が聞こえてくる。今まで心地よい音であったものが、突然騒音に聞こえてくることがあることを知った。そっと目を開けると、窓から明るい空が見えた。遠くに浅間山がそびえ立っている。

 この素晴らしい環境で昔の文豪は本を読み、小説を書いたのだろう。愛しい人に手紙を綴ったであろう。携帯電話などという便利なものが無かった時代。
 僕は何をしにここに来たのか?失った恋人を忘れるためではなかったのか。でも、その恋人が嘘をついて自分を試したことが今は信じられなかった。麻衣に電話して、真実を確認するべきだと思ったがすぐにはそういう気分になれなかった。

 その時、僕は重大なことに気がついた。詩織さんが軽井沢に滞在するのが一週間だと言っていたことを思い出したのだ。あれは最初に会った結婚式の日だったからこの前の日曜だ。今日が土曜だから一週間後は明日だ。彼女が明日東京に帰るのなら、今日会わないともうずっと会えないかもしれない。
 そう考えた瞬間、僕は詩織さんに電話をしていた。何度かのコール音のあと、電話は繋がったが、僕が声を出すと同時にプツリと切れた。
 再び電話することを躊躇していると、自分の携帯電話が鳴り出した。着信画面は「詩織さん」だった。
「もしもし」
「あ、薫君、電話切れちゃってごめんね。この辺り電波が少し弱いみたい」
「……あの、詩織さん、明日東京に帰っちゃうんですよね」
「あ、うん。もうちょっと居ようかと思ったんだけど、ほら今、観光シーズンじゃない。ホテルの宿泊の延長ができなくて、予定通り明日帰ることにしたの。薫君にもあとで電話しようと思っていたのよ。あなたのお陰ですっきりした気分でアメリカにも行けそうだし」
「あの、僕……、今度は僕が相談したいことがあるんです。今日会ってもらえませんか?」
「いいわよ。そうね、一緒にお昼でも食べましょう」
「で、薫君はどうしたいの?」
 僕と麻衣の話を一通り聞くと、詩織さんはそう尋ねた。ウエイターがデザートのケーキとコーヒーを運んできて、テーブルの上に置いた。
 僕が言葉を探していると、彼女が再び口を開いた。
「だって、薫君の意志一つでしょ。麻衣さんを許す気持ちがあれば、もう一回やり直せばいいことなんだから。嘘をついたのだって、気持ちを試したかったのだから薫君を愛していることには間違いないし。もしかして薫君の何かに不安を感じたのかもしれないわよ。女って敏感だから」

 詩織さんが泊まっているホテルのカフェテラスはオールウインドウで、明るかった。窓から見える青々とした緑が目にまぶしかった。シーズン中の土曜はかなりの客で賑わっている。

「……そ、そうなんですが、彼女に不安を感じさせるようなことは何もしてないですし、大学が別々になってからあちらのサークル活動が楽しいという話は何度も聞いていたので、麻衣の話を頭から信じちゃったんです」
「まぁ、自分の気持ちを一度も言い出せないまま失恋しちゃった私が偉そうなことは言えないけどね……」
「じゃあ、詩織さんの気持ちは友達も先輩も知らないわけですか?」
「うん、全く知らないわ。だって、そういうことは微塵にも出さなかったもの」
 今日の詩織さんは青いワンピースを着ていた。結婚式の時ほどフォーマルではなく、淡い青で花柄のデザインがかわいらしい。この人はどうしてこんなにも青い色が似合うのだろう。こんなに魅力的なのに、その男はどうして詩織さんのまなざしに気づかなかったのだろう?僕はなんだか切ない気持ちになった。
「私の話はもうおしまい。薫君は自分の気持ちを大切にして。私のように後悔しないようにね」
「え?じゃあ、詩織さんは後悔しているんですか?」
「してるわ。あの日までしてないと自分に言い聞かせていたけど、あの結婚式の日に、どれだけ彼を好きだったかわかったもの。愛は惜しみなく与えるものじゃなく、奪うものだわ。次の恋は直球勝負よ」
 詩織さんはにっこりと笑った。そして、ミルフィーユをあっという間に食べてしまうと、コーヒーを飲み干してテーブルの上の伝票を取った。
「これから軽井沢銀座に行って買い物するの」
「え!?銀座嫌いじゃなかったんですか?」
「うん、この前まではね。じゃあ、また東京で会えるといいわね。グッドラック、薫君!」

 彼女は風のように行ってしまった。あっけにとられた僕は食事のお礼の言葉さえも忘れていた。
 一人取り残され僕は少し考えた。
 僕はどうすればいいのだろうか。
 詩織さんは「薫君は自分の気持ちを大切にして」と笑った。
 僕の気持ち。
 僕の気持ちとは今どこにあるのだろうか?
 
 麻衣に他に好きな人がいるとうち明けられたあの日、僕は何も言い返せないまま、麻衣は僕の前を去っていった。
 今回もそうだ。
 詩織さんは自分の言いたいことだけを言うと僕の返答を聞かずに僕の前を去っていってしまった。

 どうしていつもそうなんだろうか。
 僕の気持ちを聞かないいまま彼女たちは僕の前を去っていく。
 いや違う、僕が自分の気持ちをうち明けないからだ。
 僕が自分の気持ちをうち明けずにうじうじしているから彼女たちは僕の前を去っていってしまうのだ。
 
 詩織さんの「次の恋は直球勝負よ」という言葉がまだ耳元に残っている。

 もう一度会って、ちゃんと僕の気持ちを伝えよう。
 僕は詩織さんを追いかけて軽井沢銀座に向かうことにした。
 とにかく人が多すぎる。旧軽井沢銀座通りは人、人、人で埋め尽くされていた。予想通り若者が多い。着ている服装はてんでバラバラだ。軽井沢とはいえ、八月の午後の気温はかなり上がる。目を凝らしながら人をかき分けるように歩いていると汗が出てきた。時折ハンカチで汗を拭う。

 人酔いしそうな人混みで段々うんざりしてきたが、詩織さんを見つけないことには意味がない。こんな混雑の中で偶然詩織さんと会うことは不可能だろうと思い、胸ポケットから携帯電話を取り出した。携帯とは便利なツールである。

 とはいえ、銀座に殆ど来たことのない僕は、自分が立っている場所さえも把握できなかった。とにかく目印になる場所を見つけないと。立ち並ぶショップの間に見覚えのある表示が見えてきた。それは郵便局だった。あそこだったら大丈夫かもしれないと思い、郵便局の前で電話をかけることにした。

 しかし、いざ電話をする段になると緊張してきた。さっき会ったばかりなのになんと言えばいいのだろう。きっと彼女はどうしてかけてきたのか聞くに違いない。僕はあなたが気になっているんですと言えばいいのだろうか……。とりあえず、ランチのお礼を言わないと。
 コール音が鳴る。一回、二回、三回。三回目で詩織さんが出た。
「あれ?どうしたの、薫君?何か言い忘れたことがあるの?」
 核心を突いたような彼女の言葉に、僕は一瞬戸惑った。
「さっきの食事のお礼を言い忘れたものですから……」
「あら、そんなのいいのに。そのためにわざわざかけて来たの?」
「……あの、僕も今銀座にいるんです」
「へー、薫君こそ銀座嫌いじゃなかったの?」
「ええ、でも、ここにはあなたがいるから」
「え?」
「……僕は詩織さんが気になって仕方がなかったんです。相談したいといった話の内容は本当ですが、それよりもあなたが東京に帰ってしまう前にどうしても会いたかったんです」
 少しの沈黙のあとに詩織さんが答えた。
「それって私に好意を持っているってこと?」
「はい」
「じゃあ、麻衣さんへの気持ちは?この前まで愛していたんでしょ」
「それはそうなんですが……」
「気持ちってそんなに簡単に変わるものなの?」
「え!」
 残酷な言葉だった。
「私に好意を持ってくれるのは嬉しいわ。でもね、まずは麻衣さんとのことをはっきりさせて欲しいわ。同じ女として、彼女の気持ちがよくわかるから」
 僕は素直に「はい」と答えるしかなかった。
 誰かが僕にぶつかってきた。
「こんなところで電話なんてかけるなよ!」
 チャラチャラした感じの茶髪の男女が手を繋ぎながら僕の前を通り過ぎた。
 気が付くと、詩織さんの電話は切れていた。ツーツーという電話の音が虚しく耳に響いた。僕は人混みの中で呆然として立っていた。
「まずは麻衣さんとのことをはっきりさせて欲しいわ」
 詩織さんの言うことはもっともだ。もっとも過ぎて反論の余地はなかった。
 麻衣……。僕は、麻衣のことを考えた。詩織さんが「森」だとすれば、麻衣は「海」だ。麻衣には白いホットパンツとサンダルが似合う。潮騒や水しぶきが似合う。麻衣に電話しよう!僕はやっと決心した。

 僕は人通りの多い軽井沢銀座から離れることにした。ここでは落ち着いて話ができない。

 僕はがむしゃらに歩いた。炎天の午後の軽井沢は暑かった。汗でハンカチがびっしょりと湿ってきた。白樺の木立が見えてきて、頬に涼やかな風を感じた。またここに来てしまった。僕は教会の前で足を止めた。今日は土曜日なので結婚式があるようだ。僕は近くのベンチまで行った。今朝、アメリアと居ておかしな気分になった場所だ。

 ベンチに腰をかけ、携帯を取り出した。過去の着信履歴を辿ってみて驚いた。麻衣の最後の電話から一ヶ月も経っていなかったからだ。「気持ちってそんなに簡単に変わるものなの?」と詩織さんに指摘されても仕方がない。詩織さんは一人の男を何年も思っていたのだから。僕も麻衣を4年間愛していたんじゃなかったのか?この二十日ばかりの期間がまるで一年のように長く感じられた。

 着信履歴から麻衣へ電話をかけると、麻衣はすぐに出た。
「あの…、薫…、あたし……」
「由衣ちゃんから聞いたよ。好きな人って嘘だったって」
「ごめん、薫、怒ってるよね」
「いや、怒ってるって言うよりも……」
「怒ってるって言うよりも?」
「麻衣の気持ちがよくわからない」
 麻衣の癖の息を小さく吸い込む音が聞こえた。
「あたしだって、薫の気持ちがわからない。……ねぇ、薫、会いたいの」
「会いたいって言っても……、今、軽井沢にいるから」
「軽井沢!?どうして軽井沢なんかにいるの?」
 僕は少しむかついた。誰のせいだって言うんだよ!でも、それは口に出さなかった。
「薫がすぐ帰れないのなら、あたしがそっちに行く」
 麻衣が急にそう言い出したので、僕は慌てた。
「おい、おい。こっち来るって行ったって……」
「何か都合が悪いことがあるの?もう、あたしのこと好きじゃないの?」
「そんなことは言ってないよ。ただ……」
「ただ?」
「麻衣の言葉にショックを受けて、振り回された僕の気持ちも少しは考えて欲しいってことさ」
「ごめん。薫を振り回すつもりなんかなかったの、でも、薫から、『じゃあしょうがないね』とあっさり言われたのがショックだったの。あたしたちの4年間って一体何だったのかなって考え込んじゃった」
「軽井沢に来て僕もそれを思ったよ。こんなに簡単に終わっちゃう関係だったのかって。でも、麻衣に好きな人が出来たのなら諦めなくちゃいけないのかなって……」
「そこなの。あたしがわかんなかったのは!あたしを愛しているのなら、どうして『別れたくない』って言ってくれなかったの?」

 僕は黙ってしまった。麻衣のとった行動は滅茶苦茶だが、言っていることは当を得ている。僕はいつも自分の気持ちを押し殺してしまう。優柔不断と思われても仕方がない。妹の碧の方が思ったことははっきりと言う。でも、今は、気持の整理がしたい。
「ごめん、麻衣。あと少ししたら東京に帰るよ。そしたら必ず電話するから」
「わかった。電話待ってるから」
 その声は消え入りそうなぐらい小さかった。

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