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村下孝蔵を暑苦しく語る会コミュの小説「ピアノを弾く女」 (2)

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 階段をあがり切ると、正面はさっき女が外を見ていた窓だ。あのときは冷たい表情に見えたのを、村下はぼんやりと思い返した。あまり美人だと、ちょっと無表情だとたちまち「冷たい」なんて印象を持たれる。あんなにいい人なのに。美人もたいへんだな。村下はわかったようにうなづいた。
 それから右の部屋の大きなドアを見た。ここか。ゆっくりと開ける。
「わあ、広いなあ」
 20畳ほどの洋室に、グランドピアノがある。いつもはアップライトピアノばかり相手にしていて、一般家庭でグランドピアノを見るのは久しぶりだ。
「うひゃあ、スタインウェイだよ」
 高級ピアノの代名詞。調律師の村下も、調律学校で何度か触れた程度だ。カバンとラジカセを下に置くのももどかしく、ピアノの周囲をうろうろと回りながら観察した。
 よく手入れされている。里砂が、どれほどピアノを愛しているかがわかる。見回すと、壁にはショパンの肖像画が飾られており、書棚に並ぶ楽譜もショパンのものがほとんどだ。窓はない。防音室になっているようだ。本格的にピアノを弾く人間のための部屋だ。
 村下はゆっくりと鍵盤の前の椅子に座った。いつも彼女が座っている椅子だ。胸がきゅんとした。調律師になって間もない頃のような気分。最近、この仕事にうんざりしかけていた自分が嘘のようだ。ゆっくりと鍵盤の蓋を開ける。美しい白と黒の縞模様。見慣れたはずの景色が、まるで違って見える。そっと鍵盤をなでた。思わず可笑しくなった。俺も単純だよなあ。
 右の人差し指で、ポーン、と弾いた。素晴らしい響き。
「恥ずかしいわ。最近、弾いてなくて」
 ふいに後ろから声をかけられ、村下は飛び上がった。里砂が銀のトレイに紅茶を乗せて立っていた。足音が全然しなかった。思わず立ち上がったせいで、椅子が大きな音をたてた。
 それにはかまわず、里砂は部屋のすみの寄木細工のテーブルにトレイを置き、ふりむいた。
「砂糖はおいくつ」
「あ、あの、ふたつ、お願いします」
 また鼻をすすり、こする。それに自分でも気がついて、こすった左手を子供のようにおろした。
 品のいいしぐさでカップの中の砂糖をゆっくりと溶かしながら、里砂は村下に微笑み、そして言った。
「ショパンが好きなんです。あの哀しい調べが」
 里砂の声はまるでピアノの音色のようだ。繊細な形のティーカップを持ち、やさしく微笑みながら佇む姿に、村下はあらためて見とれた。
「で、では、ショパンを弾くのに合うように、調律します。そう心がけます」
「嬉しい」
 さらなる笑顔。里砂のさしだすカップを受け取る村下の手は震えた。落ち着け、孝蔵。まるで高校生じゃないか。そのまま熱い紅茶を口に運んだ。
「あっちっ」
 こぼしそうになる。里砂が驚いて近寄った。
「まあ、大丈夫」
 ふわりといい香りがした。何かの花の香りと、そしてシャンプーの香りだろうか。村下は一瞬、目を閉じた。だめだ、ここには仕事に来てるんだぞ。
「大丈夫です。ええと」
 さりげなく里砂から離れ、カップをテーブルの上へ置きに行く。
「弾いていて、なにか問題はありませんか」
 俺は調律師なんだぞ。いい仕事をしてみせなければ。
「真面目な方なのね。嬉しいわ」
 意味ありげに、里砂は村下の目を見た。思わず目をそらす。息苦しくさえある。頼むから仕事をさせてくれ。
「高い音階を強く弾く癖があるんです」
 里砂は高音の鍵盤を弾いてみせた。たしかに少し音が狂っている。
「これはあたしの癖だから、しかたがないんでしょうけど。前の調律師の方にも、言われましたから」
「できるだけやってみます」
 村下はラジカセをどこへ置こうか、と見回した。
「それは」
 里砂は不思議そうにたずねた。
「まさか、音楽を聴きながら調律をするのかしら」
「いや」
 村下は笑いながら鼻をこすった。
「僕の習慣。調律前のピアノの音を録音しておくんです。あとで聴き比べるために。もちろん、正式な方法でチェックをしたあとでね」
 里砂は感心して目を丸くした。
「初めてだわ、そんなやり方。本当に耳のいい方なのね」
「まあ、自己流ですけど」
 ラジカセの録音ボタンを押し、低音部の鍵盤から、順に弾いていく。高音部まで弾いて、いったん録音ボタンを戻す。さて、それじゃあ作業に入るか。そう言おうとした時、里砂が言った。
「聞いてもいいかしら。村下さん、広島の方じゃないみたい。どちらのご出身」
「僕は、水俣です。熊本の。やっぱり、なまってますか」
 鼻をすすって、うつむいた。これでもずいぶん、なまりが抜けた気でいるのだが。親友の西田の顔がまた浮かんだ。いつまでたっても九州言葉なんだなあ。そう言って笑われたっけ。まあ、それがいいところだよ。そうも言われたけれど。
「ごめんなさい、気にしないで。あたし、いろいろな土地の言葉を聴くのが好きなの。なまってるだなんて、そんな言い方はいけないわ。その土地の言葉は、文化のひとつですもの」
 里砂は子供をあやすように、うつむいた村下の顔をのぞきこんだ。思わず、村下は笑った。里砂も笑った。恥ずかしさが消え、村下はあらためて里砂の気持ちのあたたかさに感激した。どうしよう、このひとが好きだ。思わず里砂の名前を呼ぼうとしたとき、ふっとその笑顔が曇っていることに気がついた。
「自己流でも、こだわりがあるのはいいことだわ。自分の仕事に誇りを持ってる。素敵なことよ」
 さっきまでの笑い声がまだそこいらに残っているような気がする。だが、里砂はため息をつき、ゆっくりと顔をしかめて、こめかみをさすりながらピアノにもたれかかった。
「あなたのような人もいるっていうのに」
 なにか言いたげだ。村下はちらっと壁の時計を見た。まだ時間に余裕はある。話を聞いてもいいな。村下は、人の相談を受けることが多かった。まして、このひとの相談なら。
「どうか、したんですか」

 里砂はかすかに微笑んだ。
「聞いてくれるの」
「まだ、時間はありますから」
「やさしいのね」
 こめかみに手を当てたまま、里砂は話し始めた。
 ピアノは小さい頃から習っていること。音楽大学にも行き、ヨーロッパに留学もして、演奏家としてのスタートは順風満帆だったこと。だが、大学時代の同級生とつきあったのが、運の変わり目だった。最初の頃こそ良かったが、次第にたちの悪さが露呈し、仕事の邪魔を行く先々でされたこと…。村下は聞いていて、むかむかした。このひとに、そんなことをする奴がいるなんて。男のしつこさに、さすがに恐ろしくなった里砂は、警察にも届けようとした。だが、演奏家としてスキャンダルになるのは避けたくもあり、いまだに不安を抱えつつも、警察の知るところまではまだ、行っていないこと。
「あんな思いをしてしまうと、もう恋愛なんて二度とできない気がする。そうでしょう」
 里砂は少しなげやりな、寂しい笑顔を見せた。
「そんな」
 そんな悲しいことを言わないでくれ。あなたのような美しいひとが、そんなことを。飲み込んで、こうつぶやくのが精一杯だった。
「そんな、ひどい男ばかりじゃ、ないです」
 だが、里砂の耳には届いていないようだった。
「あの人も、以前はあんなふうじゃなかった。才能もあったし、何より夢があった。自分は素晴らしい恋をしていると、思ったわ」
 一瞬、里砂の目がきらきらと輝いた。思い出の中の恋。だが、そのまなざしはすぐに暗く沈んだ。こめかみをさすりながら、里砂はつぶやいた。
「もうあんな幸せは二度と味わえない」
 村下は、だまって里砂を見つめるしかなかった。その男がうらやましかった。そんなひどい思いをしても、このひとはまだ、その男との恋を忘れられないでいる。一方で、自分は今日、初めて会ったばかりなのに、すっかりこのひとに心を奪われている。だが、今の自分に何ができるだろう。せめて、その細い肩に手を伸ばすことができたら。だが、里砂の表情は硬く、周囲の者すべてを拒否する意思で固められていた。
「ごめんなさい。悪いけれど、村下さん」
 里砂はこめかみに手を当てたまま言った。
「今日は作業を中止して、帰っていただけるかしら。どうにも、頭が痛くて」
 声が出なかった。里砂の心の傷の深さに、そのかたくなな意思に、ただうつむくしかなかった。
 村下は黙ってピアノの鍵盤に蓋をし、カバンを閉め、ラジカセをつかんだ。
「ごめんなさいね。せっかく来ていただいたのに。来週にでも、また来ていただけるかしら」
 本当に悪そうに里砂が謝るので、村下は笑顔を作って答えた。
「いいんですよ。こういうことには、結構慣れてますから。来週また来ます。お大事にして下さい」
 車に戻るまで、里砂は玄関のドアを閉めずにこちらを見ていた。村下は手を振って、里砂の身体を気遣い、ドアを閉めるよう目で合図した。里砂は申し訳なさそうにドアのむこうに消えた。
 ふうっ、と大きくため息が出た。仕事をしていないのに、ひどく疲れた気がする。
 だが、そうぐったりもしていられない。今日はこのあと、またアルバイトがある。しょんぼりはしていられない。
「来週また来られるんだ。それでいいじゃないか」
 村下はわざと大きな声で自分に言い聞かせ、それからまた鼻をすすると、車のエンジンをスタートさせた。

         (つづく)

コメント(2)

お〜〜〜〜〜
感情移入してきましたわハート達(複数ハート)

「別れの曲」エチュード 10-3
Étude Op.10 No.3

バックで流れているような〜〜〜

ん〜〜〜

その先
その先
感情移入できましたか。ありがとうございます。

「別れの曲」…いいですねいいですね…。うふふふ…。

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