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オペラ!コミュの賛否両論!藤原歌劇団「愛の妙薬」読み替え演出について

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盛り上りそうなので立ててみました。

前号までのあらすじは↓こちら

「新国立劇場」コミュ/「チェネレントラ」スレッド
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=43551058&comment_count=14&comm_id=789899

当コミュ/「最近観たオペラ雑談しましょう」スレッド#429〜
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=648467&comment_count=434&comm_id=5384


では私は所用でこれから外出しますので、ご意見のある方は存分にどうぞ。

コメント(75)

「ハリウッド軍隊喜劇」版の「連隊の娘」について、みなさんスルーですね。
あんなに面白かった演出も少ないだろうに……。

現代ニューヨークが舞台の「フィガロの結婚」は僕もLDで見ました。これは妙にハマっていて、これまた面白い演出でした。

こういうものが評価されないとしたら、本当にもったいないと思います。
守りの姿勢が強すぎると、見逃してしまうものも多いと思います。
一応タイトルは「愛の妙薬Nouveau」と公演チラシには印刷されてありました。
(ヌーヴォーの部分がちょっと細い字体wでしたけど)
裏にはモールを舞台にした新演出であることも書いてありました。

藤原でやるからにはオーソドックスに決まっている、との先入観から幕が上がるまで何も知らなかった、しかも新演出が嫌いな方だった場合、「騙された!」と怒ってしまっても無理はないような気はしますが、一応藤原歌劇団としては必要な告知はしていると思います。

あの藤原までが、ということで、つまり新演出が駄目な方には、どこに地雷が埋まっているかわからない、不幸な時代になってしまったということなのでしょうか。

私は歌手と指揮者と劇場で公演を選ぶので、演出はそれほど関係ありません。

・適切な規模と音響を持つ劇場
・イタリアの発声ができている歌手
・作曲家のスタイルを守って演奏できる指揮者とオケ

上記三つが揃ってさえいれば、イタリアオペラが読み替え?新演出ごときに台無しにされることはまずないと思っています。

良い食材でまともな料理人がつくったものは美味しいのが当たり前。
そして店が狭かろうがダサかろうが、美味しいものは美味しいと思えるのが食通……
(というよりただ単に食い意地が張ってる人?)

やれ皿がマイセンじゃないから、シャンデリアがバカラじゃないから駄目だ、と言ってるうちはまだまだ(笑)ではないかと愚考するものですが。

(ええと、けなしてません。「愛の妙薬」モール版の演出は好きです。美味しくて、お店のセンスも気に入れば、言うことはありません)
安達Oさん>

 まぁ、無理強いはしないのですが、個人的には「感じ方の違い」で話を纏めるのは、無難ではあるけれど話が終わってしまうので、あまり好きではないのですが......(え?「終わらせようとしてるんだ、空気読め」? ヤだなぁ、そんな空気読めるようなら、最初からこんな話してる訳ないじゃないですか、あはははははー<大迷惑)
 まぁ、それが下らないこととかであれば別ですが、「"切ないラブストーリー"ってどんなものだろう?」というのは、それほど下らない話ではないと思うので、ちょっと勿体無いかなとも。
 何かと「声無き声」みたいなものを勝手に背景につけて喋りたがる人が世の中多いようですが、所詮ネットの中の個人の意見なんて「私の意見」でしかないんだから、思いっきり「私とあなたの違い」に拘ってみるのも面白いものだと思ったりするのですけどね。

 それはともかく。

 『例えば...... の件は、ここだけ引っ張って読むとそれは分かりにくいでしょうね。私の書き方の問題でもありますが、前後を引くとこうなってます。

> 古典作品というものがあり、それは原典があって、まぁ基本はそれだろう、とあまり深く考えずに考えているのですが。例えば安達さん達(?)にとっては、オペラというのは原典、「オリジナル」、がある、という感覚ではないということなのでしょうか?その辺の距離感みたいなものに興味があるのですが。

 「私はオペラは古典作品で、原典というものがあって、それに忠実、というのが基本のスタンスだろうと思っているのだけど、安達さんはそのようには考えない、ということでしょうか?」ということであります。一応言い添えると、いい悪いではなくてそのへんの感覚の違いがあるのかな、という所に興味があります。

 私はこの演出に関しては平たく言えば「なまぬるい」という感想、というのが一番近いかもしれません。
 私は、大抵のオペラ作品、特に19世紀から20世紀初頭までの作品は、基本的に「古典作品」だと思っていて、舞台設定も含めてオリジナルの設定から変える事にはネガティヴというのが基本スタンスです。「わざわざ変えるからにはそれなりの意味内容が伴っていないとただじゃおかないぞ!」というスタンス。だから、今回の演出は「わざわざ変えるほどの意味ないじゃん!」という感想であり、だから評価しない、となるわけです。
 でも、「基本はオリジナルだろう!」とか、「わざわざ変えるからには.....」なんて風に思っていないんだろうな、安達さんは、と思っていて、その辺がまさに感じ方の違いに繋がるのかな、と思うので、興味があるんですよね。

 「連帯の娘」は残念ながら観ていないのでなんともですねぇ。

 まぁ、この辺のまだるっこしさというのも、ある意味ネットのいい所で、まったりだらだら話を続ける事も、気が向けば可能なので、それはそれでいいんじゃないかという気はします。


Verdiさん:
基本的に、「それって結局、好みの問題じゃん!」というところに行き着く話だと思うので、もう書き尽くした感があります。
「……でなければならない!」とお書きの方に激しい反発を感じたので、ここにあれこれ書いたのですが……。

『私はオペラは古典作品で、原典というものがあって、それに忠実、というのが基本のスタンスだろうと思っているのだけど、安達さんはそのようには考えない、ということでしょうか?』
ということですけど……、これ、もうここに何度も書いているのに、伝わらないんですね。古典的・正統派の演出は基本にある、と思っていますよ。伝わってなかったんですねえ。がっくりしました。
その上で、新演出が存在すると思っております。

以前、N氏と他の方と、今回とは正反対の立場で「新演出の是非」について議論した事があります。その時僕は、「新演出大嫌い派」だったんです。
その時、僕が想定した新演出は、ソレミオさんが大好きなポネルが演出した、なんとも吐き気を催す「蝶々夫人」であり、虫の世界の「蝶々夫人」であり、とにかく、珍奇な発想でオペラをぶち壊してあまりある演出でした。
その意味では、Verdiさんは藤原版「愛の妙薬」もその部類に入るのかもしれませんが、僕はそうではないわけで。
それと、昭和音大の公開講座にずっと参加していて、演出家や歌劇場側の意欲に共感する部分が増してきたせいかもしれません。
昔ながらのスタイルのまま、十年一日の如き上演をしていて、果たしていいのか?
Verdiさんはどうお考えですか?その方がいいのでしょうか?

『私は、大抵のオペラ作品、特に19世紀から20世紀初頭までの作品は、基本的に「古典作品」だと思っていて、舞台設定も含めてオリジナルの設定から変える事にはネガティヴというのが基本スタンスです』
ああ、そうなんですか。そうなんですよね。

『わざわざ変えるからにはそれなりの意味内容が伴っていないとただじゃおかないぞ!」というスタンス。だから、今回の演出は「わざわざ変えるほどの意味ないじゃん!」という感想であり、だから評価しない、となるわけです』
あの〜。それは、見る側の問題、という事はお考えになった事はありませんか?失礼ながら。赤いものを見ているのに、赤く感じなかった、ということは?
僕は、時々、自分の鑑賞力が足りないのかなと自問する事がありますが。たとえば僕は、小津安二郎の映画が徹底的にダメなので、「これは名作なんだから感動しないはずがない」と思って、「東京物語」を何度も見ています。でも、やっぱり感動出来ないので、これは自分に問題があるのかもしれないなあと思ったりするわけです。

とは言え、『わざわざ変えるからには』というポイントについては、アリかもしれない、いや、大いにアリだと思います。ただ、僕は藤原の「愛の妙薬」の演出に関しては、成功していると評価しているので、ここで意見は分かれて、恐らく、交わる事はないでしょうね。

ジェノバ歌劇場版の「連帯の娘」は、クラシカジャパンで時折放送しているので、是非ご覧ください。
その上で、この演出もダメだとしたら、僕と貴殿との間に会話が成立する事は残念ながらないだろうと思います。面白いと感じるポイントが重ならないんじゃないかと思うからです。
ええとですね、私がなぜ「愛の妙薬」を「せつないラブストーリー」だと思ってしまったかというと、理由があるのです。このトピを立てなければおそらく考えることも、気づくこともなかったと思いますが。

私はイタリアオペラが好きなあまり、これをなんとか仕事に結びつけてやろうとよからぬ?ことを考え、私ども名義の仕事で「愛の妙薬」を40枚の官能短篇に仕立てあげたことがあるのです。その時点ではラ・ヴォーチェのオーソドックス演出しか観てはいませんでした。

その時に「人知れぬ涙」を対訳で、何度も何度も読みました。そしてその内容と設定をベースにすると、どうしても「泣ける話」以外のものにはならないのです。

ところが。

「愛の妙薬」において、いやイタリアオペラというジャンル丸ごとにおいても、まさにヒット曲中の大ヒットともいうべきこのアリアは、先日のプレトークで初めて知った次第ですが、「愛の妙薬」のためにつくられたものではない、というのですね。

まずドニゼッティが思いついたメロディーが先にあり、それを台本のロマーノにしつこく要求してこの作品の中に挿入させた、と、そういういきさつがあるのだそうです。

言われてみればこの曲、「愛の妙薬」全体のトーンからは浮いているなあと、以前から思ってはいたのです。パヴァロッティもインタビューで次のように語っているそうです。

<パヴァロッティはこのアリアを、非常に美しく、しかも奇妙な曲だという。「なぜなら、その直前まで、曲の調子はオペラ・ブッファの約束どおり、誰が聞いても元気で、軽く、明るいのですが、それがここで突然、すべてがストップし、ムードががらりと変わります。(中略)これはあまりにも美しく真摯なアリアなのです。(中略)一見、とりわけ難しいところもなく、簡単に歌えそうで(中略)ところが深い感情の動きを引き出すという意味では、これほど難しい曲はないでしょう」>

ヘレナ・マテオプーロス(著) 岡田好恵(訳)
『ブラヴォー/ディーヴァ〜オペラ歌手20人が語るその芸術と人生』
(アルファベータ 2000年)p.120


「愛の妙薬」からこの曲を取り去ったらどうなるか? 
おそらくこれほどの人気演目となり、繰り返し上演されてきたかどうかは、かなり微妙だと思います。

そのほかの部分も非常に良くはできていますが、基本的に台本1週間(!……それも別の作曲家がすでにオペラ化していたもののパクリ……とまではいいませんが、ようするに翻案)、作曲2週間で初日に間に合わせたという早書きの産物です。(今回Wikipediaで調べてこれも初めて知った)

オーベールによる元ネタは<田舎の村で起きた他愛もない恋愛喜劇2幕物>ということで、なるほど、これでは「能天気な御伽噺」以外のものになりようがありません。そこで後世に残るか残らないか、決定的な差がついたのは、やはり「人知れぬ涙」の存在だったのではないでしょうか。

<結局はオベール自身が予言したようにドニゼッティの作品が生きながらえることになる>

ドニゼッティ:歌劇《愛の妙薬》作品解説
http://homepage3.nifty.com/classic-air/database/donizetti/L_Elisir_d'_Amore_exp.html

予言したオベールの心境を考えれば、後世どんな演出をされようが、ロマーノもドニゼッティもとても文句など言えた義理ではあるまい(笑)と思ってしまうのですが、それはさておき、結論です。

見る人の立場により、このモール版演出の評価は変わってくるだろうと、私はこれまでにも書いてきましたが、さらに追加です。この作品を「人知れぬ涙」メインで把握するか、それとも「全体」でとらえるかによっても、評価は違ってくるはずです。

「全体として」みれば、やはりこれは能天気な御伽話であり、舞台も、(実物を誰も見たことがない)18世紀バスクの農村あたりが、やはりピッタリなファンタジーということになりますね。

どうしても「せつないラブストーリー」とは思えないという向きには、「人知れぬ涙」の対訳の精読をオススメする次第です。(ついでに歌ってごらんになればなおよろしいかと・笑)
今回の藤原「愛の妙薬」は観ておりませんが、私もひとこと失礼致します。

特にソレミオさんの
「芸術の先達が心血を注いで創作した創作作品」
「作曲者ドニゼッティと台本作家ロマーニの創造力・想像力が、一心同体化して融合した芸術作品のオペラである「愛の妙薬」」

と言う言葉にぶっ飛んでしまいましたあせあせ
このオペラの作曲の経緯、オペラ作曲家の気質をご存じないようなので。

ドニゼッティは1830年の「アンナ・ボレーナ」の成功から、全欧から新作、再演依頼が殺到し、ドニゼッティはこの時期から憑かれたようにオペラ作曲に取り組みますが、当時は数週間、もしくは数ヶ月で1作を仕上げるのが通例で密度の高い作品を数年かけて完成させることはほとんど皆無です。

ドニゼッティは18世紀の職人オペラ作曲家と同様、台本をもらったら如何に早く作曲して数多くのオペラを作りお金を稼ぐか・・・というタイプの作曲家でした。
ライバルのベッリーニのようないわゆる芸術家タイプではなく職人タイプとして知られています。

又、上のコメントで安達瑶 B/♀さんがおっしゃっていますが
このオペラは、ドニゼッティとロマーニの「創造力・想像力が、一心同体化」して出来たものではなく、原作「媚薬」(Le Philtre)の作曲家オベールと台本作者スクリーブの力を借りて出来たものです。

「媚薬」はの1831年6月に「媚薬」パリ・オペラ座で初演されました。
「愛の妙薬」の初演のわずか11ヶ月前です。

翌年1832年のの4月初めに新作依頼を受けたドニゼッティはロマーニに相談、
ロマーニはそのとき評判の「媚薬」のスコアと台本を入手し、あっという間に台本を書き上げました。(悪いことではありません。当時の慣例です。)

原作がもともとオペラですから、登場人物の名前が変わり、フランス語がイタリア語に翻案されただけと思えるくらい、全幕通して、対比させてもアリアや二重唱、三重唱の位置など、そっくりです。
4月初めに依頼を受けたドニゼッティは4月24日にはほぼ出来上がっていて、5月11日にはゲネプロが出来たということですから、ロマーニが1週間で台本を書いたとして、ドニゼッティは2週間でこの名作を書き上げたことになります。

(だから、ネモリーノの「人知れぬ涙」がベッリーニの「海賊」の第2幕の最後のアリア・フィナーレの前奏とよく似ていた・・・単に旋律だけでなく、伴奏も木管の使い方も・・・としても、少々耳に残っていた他人様のメロディーが混ざってしまったと言うご愛嬌ということexclamation & question

つまりは、
「ドニゼッティとロマーニいうシェフ達の作った創作料理」
→舞台設定、場面設定、物語としては創作料理ではなく、アレンジ料理です。
 ドニゼッティの音楽と言う意味ではいくつか誰それテイストが入ったかもしれませんが創作料理といえるでしょうね。


私自身もあまり奇抜な演出は好きではありませんが、
それで、全てを否定することはありません。

ただ、そのオペラを作曲された時代の背景、当時の慣例、常識、原理、原則が必ずあり、それを調べていないであろう、もしくはまったく無視した独りよがりの演奏、舞台は鑑賞していてつらい時もありますし、
慣例、伝統を無視した一見革新的な演出は、その場限りだなと感じます。

とある論文からの引用です。
「民族間に横たわる身体表現上の違い、感情表現の差、言語的差異を越えて、イタリア・オペラが世界各地に伝播した理由とは、内在する美の諸要素に加え、〈存在とした声〉がオペラに超越した普遍性を与え、魂の根幹を深い感動で満たしたことが、その大きな要因として考えることが出来るでしょう。
 ならば、良い上演の実現は、様々な差異を明確に意識し、演奏の中に正しい様式と手段を備えようとしない限り、真の達成が困難であることを、私たちは今一度、この極東の地にあって、意識する時期に来ているのかもしれません。」
安達Oさん>

 なるほど。

 私は個人的には、意識的に観衆の立場での感じ方として「こうあるべきじゃないの?」と考える、というスタンスを変えないようにしよう、と思っています。(別に観衆全体を代表出来るなんて思っちゃいないですよ。念の為)

 鑑賞する側の力量の問題、というのは確かにあり得ます。でも、演出家や歌劇場側の意欲、というのは結構なのだけれど、上演する側にとって勝負すべきは舞台に載せた物が全てだと思います。上演する側への共感や特定の知識を持つ事で見方が変わってしまうのだとすれば、上演する側はそうした共感や知識を前提としない所で勝負しなければならない、と思います。公に供する、ということは、そういうことである筈です。
 もし、上演する側が、共感や特定の前提理解を客が持つ事を期待してしまうなら、それは「特定の人々」に向けたものである、という意味で、もう公に開かれたものではなく、私的なものである、ということになってしまうのではないでしょうか。ファナティックにそれを主張する気は無いけれど、ある特定の要件を前提にしてしまう発想は、容易に内輪受けに堕す危険性を孕んでいると思います。
 いや、内輪受けとまでは行かずとも、例えば、今は藤原も新国も、プログラムで演出家が演出の意図を語ってしまうのが当たり前になっていますが、そもそもプログラムで説明しなければ意図が受け取られないのであれば、既にその上演はコミュニケーションとしてある程度に於いては失敗しているのではないだろうかと思います。だって、プログラムを(買って)読む事が前提になっているのであれば、もう舞台自体が独立したものとして存在し得ない - プログラムの説明を「読む」ことで完結する - ということではないでしょうか。

 あまり深入りしたくはないのですが、敢えて申さば、私はそもそも自分から進んでやろうと思わなければオペラなんか上演されない日本という国にあっては、基本的にオペラの上演は、明確な意図を以て為されることだと思っています。例えば、そこで選択されたものがもし「切ないラブストーリー」(その内容の定義も曖昧ではあるのでしょうが)というものであるのなら、「何故"愛の妙薬"で"切ないラブストーリー"をやるのか」「何故"切ないラブストーリー"を"愛の妙薬" というオペラでやらなければならないのか」「それをやる際に、何故"現代のショッピングモール" でなければならないのか/何故他の設定ではいけないのか」「それによる得失はなんであるか」ということを意識的に選択し、考えた上の結果であるべきだと思います。それは、実は「オーソドックスな演出」でも同じ事で、ただ、オーソドックスであれば、何も考えてなくても、「ああ、凡庸だね」でスルーしてしまうだけの話です。
 いや、自分で書いていても、随分な事を要求するもんだな、とは思いますけどね。ただ、勿論そんなこと完璧になんて出来るもんじゃないだろうけれど、どの程度考え尽くして、それを観衆に伝えられるか、というのが評価基準だとは思うし、そのレベルに於いて私はまぁ並程度の理解力はあるだろう、と勝手に自惚れているので、絶対ではないけれどある程度の基準にしていいかな、と思っている、ということです。
 (言い換えりゃ「俺がスタンダードだ」って言ってるようなもんでもありますがね(苦笑))

 ただ、誤解して欲しくないのは、「切ないラブストーリーをやるべきではない」「現代を舞台にした演出をやるべきではない」と言っている訳ではないのだ、ということです。考え抜け、そして伝えろ、と。ま、それに対して「いや、十分に考え抜かれ、伝わっているのだ!」と思われる方も居られる。そこで「感じ方の違い」とか「受け取る能力差」とか「立場の違い」みたいにして終わってしまうのも、処世ではあるんですけど、寂しい話ではあるなと思うのではあります。

Verdiさん:
『演出家や歌劇場側の意欲、というのは結構なのだけれど、上演する側にとって勝負すべきは舞台に載せた物が全てだと思います。上演する側への共感や特定の知識を持つ事で見方が変わってしまうのだとすれば、上演する側はそうした共感や知識を前提としない所で勝負しなければならない、と思います』

おっしゃるとおりです。
で、僕は関係者ではまったくないタダの観客なので、見る側の観客がどう受け止めるかは、こちらの自由です。僕が作り手の姿勢に共感しようが拒絶しようが、それは公演する側の『勝負』とは別の事です。
だから、見方が変わる事と、上演する側の姿勢を、どうして混同するんですか?
見る側は、上演する側とはまったく関係なく進歩したり退化したり、興味を失ったり、物凄く興味津々になったりするものでしょう?そんな気紛れな観客側の事情を、上演側がいちいち斟酌することは出来ません。
Verdiさんのこの混同は、故意ですか?僕の意見をわざと曲解しようとしているようにも感じてしまいます。

まあ、「今の世の中の案配」を無視しては、いかなる興行も出来なくなると思いますが、それはまた別の話です。

「俺がスタンダードだ!」というのは、実は、みんなそう考えているんだと思います。だから、自分が感じた不満を公にして、出来れば共感を得たい。「ね、そうだよね〜!」と。
でも、そうではない別のスタンダードを持つ人間も多数いる。
あるオペラが好きか嫌いか、演出が好きか嫌いか。嫌う場合はは、作品自体や演出自体に欠点がある場合もあるでしょう。しかし、好みがあわない場合もある。僕の小津安二郎やブルックナーがそうです。

僕が演出家や歌劇場の事情に詳しくなっても、やっぱり、好みじゃないものを見たら「つまらん」と思うわけです。どんな理屈を並べられても、自分の感性に合わないものはやっぱりダメです。
その例が、ポネルの映像版「蝶々夫人」であり、猿の惑星のような「リゴレット」であり、虫の世界の「蝶々夫人」であり……。どんな理屈があっても、ダメなモノはダメです。しかしそれは僕がそう思うのであって……。

『上演する側にとって勝負すべきは舞台に載せた物が全てだと思います』
『今は藤原も新国も、プログラムで演出家が演出の意図を語ってしまうのが当たり前になっていますが、そもそもプログラムで説明しなければ意図が受け取られないのであれば、既にその上演はコミュニケーションとしてある程度に於いては失敗しているのではないだろうかと思います』
とお書きですが(このご意見には賛同致します)、
『基本的にオペラの上演は、明確な意図を以て為されることだと思っています』
という『意図』は、プログラムにわざわざ書かなくても、舞台を見ただけで観客に伝わるべきものであるというお考えですね?
それはそうだと思います。
僕は、プログラムを買いませんが、今回の藤原の「愛の妙薬」の演出意図は正しく受け取れたと思っています。後から読んだ朝日の劇評で補強されはしましたが。
だから、Verdiさんは受け取れなかったけど、幸い僕は受け取れた。
そういうことです。それ以上、何も言えないと思えますが、Verdiさんはどこまでも、ご自分が納得出来なければダメなのでしょうね。まあそれはそうだと思いますし、誰かの意見に感化されて納得する事でもないと思います。
でも、僕は大いに納得したし、大変面白いと思った。
これで終わりでしょう?僕だってVerdiさんに折伏はされませんよ。

ジェノバ歌劇場版の「連隊の娘」を是非、見てください。まったくスルーされてますけど、僕はこの「ハリウッド軍隊喜劇」的演出を見て、「ああ、新演出もハマれば凄いな」と目から鱗が落ちたのです。
これを見てもVerdiさんが「こんなの、ダメだ。どうしてこういう演出にしたのか、その意図が伝わってこない」とお思いであれば、やっぱり完全にタイプが違う事を確認するだけの事です。
安達Oさん>

 「連隊の娘」は、現実問題として観る手段を今時点で持ってないので、言及の仕様が無いだけですよ。スルーと言われてもね。

 混同と言われてますが、私は前回のコメントの中では、「上演側」に関する話を書くのがいいのかな、と思って書いているだけなので。だから、「故意に混同しているのか?」と言われても、ちょっと言い様が無いですね。敢えて言えば、安達Oさんが上演側の想いとでもいうことに言及された件に反応した、その方向性がずれてた、と、そういうことでしょう。

>でも、僕は大いに納得したし、大変面白いと思った。
>これで終わりでしょう?僕だってVerdiさんに折伏はされませんよ。

 どうも気になるんだけれど、確かに私のコメントはそれなりに長くて理屈っぽいと思うけれど、それを「折伏」って言われちゃうと、どうも、という感じで...
 なんというか、意見が違うんだろうな、というのは分かっていて、それはそのまんまだろうという気はするんですよね。ただ、「感じ方が違いますね」で終わり、というのは、もうコミュニケーションじゃないじゃないか、と思ってしまうんですよね。私は「何故違うのか」に興味があるので、だからこのスレッドにも書き込み始めたのだけれど、そういうのは、やはり流行らないんでしょうかね。
 っていうか、そういうのを「折伏」って言うのか(苦笑)

 ちなみに、私は、オペラを映像で見ても、舞台上演での実相は確実には分からない、と思ってますから、演出の為に映像を見る、というのはあまり拘ってません。ポネルの「イゾルデは来なかった」演出にしても、実際には映像で見ただけですから、それはそれで「すげぇ」と思ったけれど、本当の所、劇場で見た結果どうなのか、は分からないだろうな、と思ってます。「連隊の娘が.....」と言われても、あまり反応しないのは、映像自体見られないから、というのもあるけれど、その辺も理由です。

 ついでにもう一つ、私がいわゆる「現代演出」で実際に見た中で、「演出」として最もパフォーマンスを出していたと思うのは、二期会で宮本亜門が演出した「ドン・ジョヴァンニ」です。あの演出は、非常に色々な立場、見方からボロクソに酷評されていたし(というよりあれは狼狽というべきなのだろうか)、今では殆ど無かった事にされかけているけれど、あれは宮本亜門の勇み足も大いにあるにせよ、オペラというものが事実上失っていた筈の同時代の表現としての生命をうっかり獲得しかけてしまった希有な事例だと思います。あれが高く評価されるべきだ、とは私は言わないけれど、オペラを使ってあんなことだって出来る、という意味で、少なくともハプニングとしては記憶されて欲しい、と思います。共感してくれる人は殆ど居ないでしょうけれど。

 (なんでこの話を出したかというと、「意図」という言葉に言及されていたからで、私が先のコメントで「意図」という言葉で指し示そうとしたのは、「演出のコンセプト」ということではなく、そもそも「なんでオペラをやるのか」という意思・目的意識・理由とでもいうようなことなのです。そのことと、宮本「ドン・ジョヴァンニ」が偶発的に(?)うっかり獲得しかけてしまったらしいものとは、多分関わり合いがある筈なのです。うまく言えないけど。)

あ。

先のコメント下から4行目....

ということではなく、
   ↓
ということ「だけ」ではなく、

でした。

>Verdi様(#46)

宮本亜門氏の「ドン・ジョヴァンニ」、それほど賛否両論(というより「否」ばっかり?)があったのなら観に行けばよかったです。次に氏がオペラを演出することがあれば(あるのか?)行ってみよう。

基本的に私も、すぐれたオペラの演出とは「考え抜かれた」ものであるべきだし、かといって意図のすべてが観客に説明されてはならず、観客が想像(というより各自演出家と脳内で対話)する余地を残したものであるべきだと思っています。

藤原「愛の妙薬」は、あれはあれなりに「戦略的に」よく考えてあったと思いますよ。
つまり、「若くて初めてオペラを観る人たち」をターゲットにしていることが明確でした。何よりも「舞台上の情報量の多さ」という、その一点において。

情報量が少なすぎると退屈してしまう人たち。そういう集団がたしかに存在します。
逆に多すぎて怒る人たちが存在するのと同じように。
そして今の若者のほとんどが前者に属するはずです。

双方向のエンタテインメントであるゲーム。ハリウッド製の非常にテンポが速くて高度の動体視力を要求するアクション映画。ドリカムや小室以降の、複雑で、おいそれとカラオケでは歌えないようなポップス。そういうもので今の若者は育ってきています。

ただ座ってシンプルな情報を一方的にフィードされるだけでは彼らは退屈し、集中力を切らしてしまうでしょう。現在、教育の現場で授業崩壊が問題になっている原因も、まさにそこにあると私は思っています。

ですから若い観客を惹きつけるには、ある程度「双方向」の要素がないとダメなのです。その点、主役が誰なのか、どこで歌っているかさえ、自分で探さなければ見つからない(笑)ウォーリーを探せ!版「愛の妙薬」はなかなかイイ線行ってたと思いますよ。

それにしても終盤近くネモリーノに遺産が入ることが判明、美容部員が噂をするくだりまできたところで、えらく上手で綺麗な声のコーラスが一人いるなあ、と思ったらそれがソリストで、そういえばジャンネッタというキャラがいたっけ、と、ようやくそこで気づいたというのは我ながらあんまりだと反省。(全員同じ制服でも、高橋薫子さんはすぐにわかりましたけどね)


ではこれから片岡仁左衛門一世一代の「女殺油地獄」を観に出かけますので、本日はこのあたりで。

私は別に、どなたかに折伏されるつもりも逆に折伏するつもりもなく、ただここで好きなオペラについて語り倒せればと思っています。長く書いてはいても、基本的には雑談です。

それでも結構新しい知識が増えたり、自分でもそれまで思ってもいなかったことに気づかされたりもしますので、そこが雑談の醍醐味ではないかと思っております。
Verdiさん:

ジェノバ歌劇場の「連隊の娘」は、大枚はたいてオーチャードホールで見ましたが、見終わった後は、あんまり楽しくて、踊りながら東急本店通りを帰りました。
生じゃないと評価の対象にしたくない、とおっしゃっているようなので、まあ、録画は参考程度にはなるかと思いましたが……残念です。
と言いつつ、僕も宮本亜門の「ドン・ジョバンニ」を見ておりませんが。

「混同」の件ですが、了解しました。

『ただ、「感じ方が違いますね」で終わり、というのは、もうコミュニケーションじゃないじゃないか、と思ってしまうんですよね。私は「何故違うのか」に興味があるので、だからこのスレッドにも書き込み始めたのだけれど、そういうのは、やはり流行らないんでしょうかね』

どこかで一致点が見つかるかもしれない、と思えるやり取りなら、大いにコミュにカーションは取りたいのですが、「面白かったか面白くなかったか」については、どうにもならない事だと思うので。
以前は、他人の映画評(いや、映画感想文)に対して反論したりしてやりあったことがありますが、それって、結局は消耗するだけだと判りまして。反論とかやりあうとか、そういう対象ではないのですね、鑑賞した後の感想文というのは。
批評というなら、その論点の是非を議論出来ると思いますけど、僕はこの分野に関しては素人だから、何を書いても感想文の域を出ないと判っておりますから、それについてあれこれやるのは野暮な気もしたりして。
とは言いつつ、Verdiさんの書き込みに対して返しているのは、僕もコミュニケーションを取りたいと思っているからなのでしょうけれど。

で、Verdiさんは亜門の「ドン・ジョヴァンニ」を評価なさってますが、周囲はどうもそういう評価ではないらしい。それと同じような事が藤原の「愛の妙薬」で起きている、と書いたら、叱られそうですね。まるで違うと。
でも、自分がいいと思った部分が周囲に理解されないもどかしさについては同じだと思うのです。
で、僕がこの方面でメシを食っているなら、真剣にかれこれ考えて論じたくなると思いますが、なんせ僕は素人なので、「感想文」程度の事しか書けません。

「意図」について、僕は読み違いをしてVerdiさんにレスをつけたとは思っていないのですが……。
 皆様へ:

 私の主張として書込みしたことが、表現の仕方が悪くて一方的に断定したかたちとなり、皆様のお怒りを招いたことを、反省してお詫び致します。最後の部分に<と、私は思う>という語句を付すべきでした。

 聖者ぼんちリンポチェ様:

 先にご助言戴きながら、同じく不適切な表現をしてしまい、申し訳ありません。アドバイスに感謝申し上げます。

 聖者ぼんちリンポチェさん、少し弁解めいたことを申し述べます。創作者達の音楽と台本が融合して出来たオペラの世界が、舞台に再現されたとき、我々はそこに展開される虚構の真実に感動しますね。舞台で表現されるものは、どんなものであれ虚構であり、我々はその虚構性を大前提として劇場に行くわけです。その場合、創作者達が台本と音楽の一定の基本条件下に創り上げた虚構の真実について、その再現を図る場合には、創作者達が設定した基本条件に、出来る限り従った再現を期待するというのが私の持論であるわけです。聖者ぼんちリンポチェさんの場合には、その基本条件に拘らずに、演出家の自由な理解による再現でよしとするわけですね。そこが二人のオペラ上演に関する、基本的な見解の違いですね。

 その場合、台本のイメージを喚起するために、一種の描写音楽的に作曲された音楽が中心となるオペラは、台本の基本設定を現代なりに変更することにより、確かに異化の効果はあるかもしれないが、台本のイメージと音楽の描写の間に、齟齬・乖離が起こって、創作者達の想定した虚構の真実が、異質化するのではないか、別作品化するのではないか、と思うのです。聖者ぼんちリンポチェさんのいう、<「オーソドックスといえるような型」の成立を始めから拒否したい>ということは、オペラ作品を舞台で再現するつど、その時点時点で、異質化、別作品化させてゆくということでしょうか。異化というものは、時間の経過とともにその効果も、時点単位で変化してゆくものでしょうから。

 創作者達が、台本と音楽の一定の基本条件下で描いている虚構の真実を、出来る限りその基本条件下の状況設定で味わい、感動したいというのが、私の立場であり、そのために演出家には、創作者達の代弁者的役割を期待します。逆に、聖者ぼんちリンポチェさんは、その基本条件を変えても、演出家が自由に理解した再現?表現でよいというお立場ですから、要は観客として、どちらの虚構の真実に感動したいか、となりますね。

 平安初期を前提としたテキストによる新作であれば、どのような題名にしようが、どのような演出であろうが、全く自由だと思います。それを現代のオペラの題名と基本設定がある程度定着した作品の、基本設定を変えて上演する場合には、少なくとも別作品化されたオペラである旨を、しっかりと告知するのが観客に対する最低限の礼儀のように思います。異化の効果で言えば、私には平安時代の設定の方が効果があり、現代の設定ではむしろありきたりに感じるでしょう。このトピのテーマの「愛の妙薬」は、私が日常接している光景そのままの展開なので目新しさ、異化は感じませんでしたが、私が知っている台本の粗筋の内容との齟齬・乖離に、むしろ異化の効果?を感じたというところでしょうか。

 聖者ぼんちリンポチェ様、再度のご親切なご助言、有難うございました。
 
 うーん。個別の演出の話をするのに、付け焼き刃的に映像を見ても、ちょっとやりにくいだろうな、ということなんですよね。それが面白いかどうかは別問題だけど、限られた時間の中で言えば他に聞きたいもの、見たいものが沢山あって消化し切れてないし.........
 映像で演出を語る事の危うさというのは、「映像はそれ自体が演出されたものである」という点なんですよね。劇場で実際に見えているものの一部を切り取って見せるのが映像だし、時には劇場では見えない所まで見せたりもする。だから見ないって訳じゃないけど、映像で見たもの必ずしも劇場で見たものと同じならず。で、我々は「劇場で見る舞台の演出」の話をしていると思うので、まぁいいかな、という訳で。


 ちょっと辛辣な言い方になってしまうかも知れませんが、もし本当に今の若者が「情報量が少な過ぎると退屈してしまう」のであり、今回の「愛の妙薬」の演出がそういう人に向いていたものであるとするなら、そこで言われている情報量というのは、言ってみればバイト数の大きさとしての情報量の問題なのだろうな、と思うのです。
 多分、「情報として容易に受け取れるものが多い」ということがポイントなのだろうと思うのです。個人的には、小室哲哉(等の方じゃないですよね?)とドリカムというのは音楽の造りが結構違っていると思うのだけれど、強いて両者に共通しているだろう点があるとすれば、音楽としてキャッチーなものが沢山ある、という点だろうと思います。(キャッチーな要素だけかそうでないか、というのが違いかな?あと、意識的にキャッチーな要素を出しまくって自己批評しちゃうのが小西康陽か......?)
 「愛の妙薬」の話で言えば、"Drior" なんてのはいい例で、あれを見てディオールを連想することは、理論的にはちょっと知的作業が必要です。でも、それは殆ど子供騙しのレベルで、ディオールというブランドを知る人なら大抵はすぐに連想する。
 実は舞台上の各人の演技もそうであって、確かによく動いていたしそれぞれが如何にもショッピングモールで色々な行動をする誰かを演じていて、それ自体は工夫であったと思うけれど、それらは我々が日常目にする光景(を若干強調したもの)であって、結局「容易に受け取れる情報」なんですよね。つまり、「現実に近い」=「私の日常と同じ」=「だからよくわかる」、なんじゃないかと思うのです、多分。
 まぁ、それが「わかる」ということなんだ、それが楽しいんじゃないか、と言われれば、ヲ崩れのおっさんとしては黙っといた方がいいのかなぁ、それがオペラの市場拡大の為か?なんて思ったりもしなくもないのではありますが。
 一応言うと、あの演技がダメだ、とは思っていません。確かに、舞台上での演技というのは、結構デフォルメして見せないとお客には意外と見えない、伝わらない、という面はあるので、「分かり易い演技」というのは、実は結構大事だと思うし。


 これは本当に余談ですが。
 宮本亜門の「ドン・ジョヴァンニ」は、今更に検索など掛けると、blogなどの記事が出て来て賛否両論に見えますけど、当時は6割反対、3割誤解みたいな感じでしたかね。
 演出としては決して褒められたものではなくて、というのは時事性が強過ぎるから、それこそ普遍性は無いのだけれど、そりゃぁインパクトは強かったですよ。何より、明らかに作り手のコミュニケーションしようとする意思があった。ただ、そもそも受け手の側に、これを自分の問題として受け止める準備(と能力?)が不十分だったし、ある意味難し過ぎた。だから、公演としては成功とは言えなかったろうし、実際演奏水準も決して高くはなかったのだけれど、そりゃ強烈でしたし、舞台としてはよく出来てましたよ。現実にありそうな場面を感じさせる事で創作物としてのリアリティが......なんてもんではない。現実に我々が見たもの、そこでありそうなものを強烈にデフォルメし、濃縮展開する事で、極めて現実に肉薄しつつ「私の現実」を入り込む余地を作らない、というやり方で有無を言わさぬ舞台を作ってました。ただ、立場や思想的にどうしても受け入れられない、という人は居ただろうし、受け入れ能力不足、或いはある種の押し付けがましさから、拒絶する人も少なくなかった、と、そんな舞台だったかな。
 いや、確かに、2004年7月という状況下で、オペラというどちらかといえば保守的な「ファインアート」の場を使って、よくぞこんなもんやったもんだ、ということがあったのでして。今見たら「?」としか思わないかも知れない。まぁ、そういう舞台でした。


Verdiさん:
なんというか、語り合う材料がそろそろなくなってきましたが……。

『「現実に近い」=「私の日常と同じ」=「だからよくわかる」、なんじゃないかと思うのです、多分。
 まぁ、それが「わかる」ということなんだ、それが楽しいんじゃないか、と言われれば、ヲ崩れのおっさんとしては黙っといた方がいいのかなぁ、それがオペラの市場拡大の為か?なんて思ったりもしなくもないのではありますが』

オペラを高尚なものだ、とか、難しいものだ、とか、敷居が高いものだ、とか思い込んでる人に向けては、効果があるんじゃないかと思いますが。
実際、「愛の妙薬」に関しては、「大昔の田舎の現実離れしたお話」が、現実と地続きの物語であったという新発見をしましたし。

「Drio」なんかは、お遊びというかシャレだと思うので、そういう部分に突っ込むのは、やっぱりどうも、この演出を楽しめないからだろうなあと思うわけで、だから、もう、いくら言葉を重ねても、そろそろオシマイかなと思うわけです。
僕はオヤジなので、若い世代(ゲーム世代)の感覚はよく判りませんが、ゲームが好きなら、「非現実」な世界の方がいいのかもしれません。
僕なんかは、どこか共感出来る、「理解のフック」があるほうがいいんですけど……。
たかだかトンデモ演出によって息の根をとめられてしまうほど、それほどオペラはヤワな芸術形態ではないと思っておりますが、「少子高齢化」によっては確実に命脈を断たれることでしょう。

それを考えれば若い年齢層をとりこむことは真剣に考えるべき問題かと思います。

今の日本の若者は、史上これほど音楽漬けになっている世代もないでしょうから、耳はできているはずなので。

演出は「地続き」のほうがいいのか、それとも「ファンタジー」のほうがいいのか。

「等身大地続き」のケータイ小説も、ファンタスティックな設定のライトノベルも、どちらも若者に大量に消費されていますから、それはどちらでも行けるような気がします。

オタク度が高い層にはファンタジー、カップルで劇場に来るようないわゆる「リア充」(リアルが充実)な層には地続き、のような切り分けをするとすれば、今回の「愛の妙薬」は後者だと思います。
(「完全地続き」な、こういうタイプの演出は、初めてだったかも)



「愛の妙薬」の商標"Drior"は、そんな読解に知的作業を必要とするような高度なものではなく、ただ単にまんま使えばディオールから訴えられるw恐れがあるから、だと思っていましたが。

私が感じた「情報量の多さ」とは、舞台上にいる大勢の通行人の着ている服とか、それぞれがどんな芝居をしているかとか、そういう意味です。

「愛の妙薬」のオーケストレーションは非常に美しいですが、「蝶々夫人」や「トゥーランドット」にくらべると(言っちゃ悪いが)スカスカです。そのスカスカ具合が、舞台上の賑やかさと不思議に釣り合いがとれていて、私には何ともいえず心地よかったのでした。

これが「バスクの田舎の村」だった場合、舞台上の空間までがスカスカになり兼ねず、ちょっと見てて萎えちゃうかなあ、とまあ、これも個人の好みの問題でしょうね。
 段々辛辣な言い方をし始める自分がヤバいなとちょっと思いつつ、なのですが.....

 現代のどっかで見たことあるような場所、を持ち出さなければ、地続きと感じられず、地続きと感じられなければ自分との接点を見つけられない、というのであるならば、それは受け取る力がかなり弱っている、ということじゃないかと思います。
 で、そういうお客を取り込みたい、と思うなら、それも結構ではあるのですが、そこまでして君ら(つまり上演する人々)本当にオペラやりたいのかい?何の為にやりたいのかい?と思わなくもないのです。

 勿論、「Drior」の読解に知的作業が必要、なんてのは、一種の皮肉であります。自分が受け取れるレベルの情報が沢山ある事が退屈しない条件、ということであれば、そういうことなんだろうな、というわけで。
 でも、正直、本当にそういうレベルの情報で満たされなければ退屈してしまう類いのお客さんは、高い金払ってオペラ見に来ないんじゃないでしょうか。オペラを見るという行為は、相応に高額のチケット代を支払い、かなりの時間拘束されることを覚悟しなければならない行為です。その敷居を敢えて跨ごうという人達が、果たして「ここでしか見られない訳ではない」レベルのストーリーで、「退屈しない為の受け取り易い情報」をばらまかれる事で、満足するものなのか、どうなのか。わざわざ敷居を越えてまで求めるものはそこではないだろう、という気はするのです。

 多分、オペラに関して、現実に求められているのは、「演出」ではなくて「音楽」なんですよね、やっぱり。まぁ、私はそう思ってます。だから演出なんてどうでもいい、とか、つまらない、とか、そうは思わないけれど、実際問題として、多分「今度の××は演出が分かり易いらしいから行ってみよう」という選択をする人がそう多いとも思えないんですよね。勿論「つまらない演出」を見させられて、「もう、オペラはいいや」と客が逃げて行く可能性はありますけども。

 じゃぁ、どういう演出がいいのか、というのはそれこそ議論百出だと思うのですが、個人的には、小手先の「面白さ」を「演出」しても仕方ないと思います。そんなレベルでリピーターになってくれるほどお客さんというのは甘くないと思います。むしろ、きちんと練り上げること。演出なら演出のコンセプトをきっちり詰めて、それを表現する方策を徹底させて、伝わるようにすること。わざわざ高い金と時間を費やして付き合おうという酔狂な客を繋ぎ止めるには、これが正道だと思うんですけどね。それがきちんと出来ていれば、演出の舞台が現代であるかなんであるかは、少なくともこの観点に関する限り、本質的な問題じゃないと思います。勿論音楽だってそうなんだけれど。
 私はそれほど舞台芸術をよく見ている訳ではないけれど、「集客力がある」という意味で、それなりに売れていて、かつ継続出来ているものは、大抵そういう風に出来てるのかな、という印象を持っているのですが。宝塚然り、劇団四季然り、野田英樹然り。

Verdiさん:
大まかな御主張は、ごもっともだと思うのですが、やっぱり、確固として、「藤原の愛の妙薬憎し!」なお気持ちがにじみ出ているのが……。
いろんな意見があるし、いろんな考え方がある。
それでいいということで決して納得なさらないんですね。

そろそろ降ります。
他にも興味のある事はたくさんありますので。
藤原「愛の妙薬」は演奏水準はクリアしていたので、演出はいわば「おまけ」ですね。
オペラが初めての人にお出しする演目として一番大事なことは、やはり歌手の声であり、オーケストラの練度であり、指揮者の解釈でしょうから。

それを踏まえた上で、モール版が「私には」楽しかったのですから、何を言われてもどうしようもないです。あれが楽しかったとはお前の知的水準を疑う、というようなことを言われたような気も何となくいたしますが、そんなことをほのめかされた程度で腹を立てるには、私も今さらネット擦れしすぎています。

これは若い人にかぎりませんが、いまどきの観客に「18世紀バスクの農村の裕福な農場主の娘」と「ブランドコスメショップの優秀な美容部員」のどちらに感情移入がしやすいか、と聞けば、やはり後者ではないかと思います。

美人……はともかく、実家にお金があるから、それでやたら強気な女の子なんて、少なくとも私は全然好きになれません。一方、これがドリオールでもユニリーク(だったかしら?)でもいいですが、とにかく有名ブランドのカウンターを預かる立場の女の人で、それなりに能力も責任もある、という事情が、その制服とスカーフから一見してわかる、という設定と演出であれば、きっと彼女は就活をして何通も履歴書送って、内定とって、そのあとは商品知識を蓄積して接客技術も磨いて、資格試験受けてここまでになってるんだろうな、というバックグラウンドが瞬時に了解可能です。

ということであれば頼りない、ふわふわした、たかが商品搬入係の男の子には、いかに思いを寄せられようとも(そして内心憎からず思っていようとも)、まわりの見る目もあるし、そうそう簡単にお付き合いには踏み切れないだろうな、ということも自動的にわかるようになっている。

現代のモールという場所には、登場人物の服装を見ただけで、その立場と能力が一瞬にして了解できるという側面がある。そのことがちょっと私には新鮮な発見だったのです。
18世紀バスクの農村で身分の違いがどうの、とか言われても「フーン」としか思えません。でもこの設定なら、ああアディーナもいろいろ大変なんだな、と素直に感情移入ができますからね。

士官学校の制服を見て「自衛隊」しか連想できない、ということもありません。
そこは脳内で勝手に読み替えて、ネモリーノはお金をつくるためにモールをやめて、いわゆるブラック企業、もしくは暴力団がやっているフロント企業に就職しようとした、とでも想像すればいいのですから。そうすればいずれ過労死する運命、もしくは犯罪に手を染めることになりますから、軍隊よりもっと苛酷かもしれません。そういう罠は現在でも都会の至る所に口をあけていて、経験値の少ない若者を呑み込もうとしています。

そこまで想像すればアディーナの「みんなあなたのことが大好きよ。だからここにいて。どこにも行かないで」がより胸に迫って参ります。オペラにかぎらず舞台上に提示されたものを観る行為には、そういう双方向の対話や補完という側面があるはずです。そういう想像力を刺激してくれるものが、私にとっては良い演出ということになるのでしょう。

現実と「完全地続き」であることによって想像力がそこでとまってしまう人もいるでしょうし、私のように(もしかして演出家が苦笑しかねないようなことまで)何かと妄想する客もいるでしょうから、この演出の良し悪しは一概には言えないでしょう。


このトピックを立てたのは、藤原「愛の妙薬」の感想を日記に書きまして、その後ソレミオさんが書かれた批判を読んだことがきっかけになっておりますが、どういうわけか、これまでにはないほど多数の方たちが拙日記を読みに来られた、そのことも理由になっています。

ただ単にmixiの利用者が増えたからなのか、それとも助演で参加された方が多かったため、その関係者が関心を持たれたということなのか、そこはわかりません。それでも願わくは、このプロダクションを御覧になった若い年齢層の方たちの、たとえ数%でもいい、また劇場に戻ってきてほしい、オペラはほんとうに素敵なものだと知ってほしい、と私が思っていることは事実です。
安達遥B/♀さん>

 >あれが楽しかったとはお前の知的水準を疑う

 ......とか言われるかな、と思ったので、書きたくはなかったのですが、そう取られても仕方ないとは思います。主従が逆なんですけどね。「あれが楽しいから受け取る力が低い」とは限らない、それは趣旨ではないということ。

 確かに仰るような状況理解というものは可能かも知れません。だから、この演出には意味がある、という考え方も分からないでもありません。
 さればこそ、私は何故もっと徹底して考えないのか、と思うのです。例えば、既に触れた事ですが、そこまで努力して今の地位に居るアディーナの仕事っぷりはどうですか?それは恋に目が眩んでいるから仕方ない?例えばそういう了解の仕方もあるでしょうが、それはないだろ、と。
 くすぐりを考える前に、その作品に即して人がどのように振る舞うべきか、よく考えられているのか、ということに対して、足りないだろそれは、と一貫して言っているつもりです。
 中には、「現実と地続き」であることに違和感を感じず、さりながら現実にはあり得ない振る舞いをすることを許容してしまう見方を出来る人もいらっしゃるでしょうが、私はそうじゃないだろう、もっと考え抜け、と思うし、もし本当にこういう造りで今までオペラを見ない人がオペラを見に来てくれるだろう、と思うなら、それは考えが甘い、と思うのです。上野まで来ても坂の下の映画館で止まってしまうと思うのです。
 現代でもオーソドックスでもなんでもいいから、オペラという一つの舞台作品としての完成度を高めるべきだ、と思うのです。

 まぁ、そういうと、むしろお前の方が想像力が貧弱だからそういうことになるんじゃないのか、想像力が不足しているから完成度が高くなければ満足しないんじゃないのか、ということになるのかも知れないですけども。
 ただ、創作物を作っている側としてそれを言っちゃぁおしまいだろ、という気はします。それは言い訳だろ、と思うので。

 勿論我々は単なる観客なので、「いやぁ、いろんな意見があっていろんな考え方があっていいですねぇ、あっはっはー♪」と言って済ませればいいし、これを契機にしてお客が増えればいいですねぇ、で構わないとは思います。ただ、それじゃ制作側はいかんだろ、とも思います。
 私がこの演出に関して良し悪しの点で思うのは、制作側としてそれでいいのか、という点です。詰めが甘い、と私は思う。別に、この演出が面白かった、という意見に対して否定する気はないのです。ただ、詰めが甘いでしょ?そうじゃない?とは言うけれど。


ひとことだけ。
詰めが甘いとは思いません。
何度も見れば、そう思う箇所も出てきたかもしれませんが。
そろそろ、見方、感じ方は千差万別だという事を認めましょうよ。それおこそ自分の鑑賞力の問題を「制作者側が言っちゃいけない」と言いつつ棚上げする態度も解せませんし、僕は制作者側ではなくて、タダの観客の一人ですし。
嫌らしい当て擦りはもう止めましょう。
 ....もはや、安達Oさんに向かって何かを書いているつもりは全くないのですけどね。
 ただ、「いやぁ、いろんな意見があっていろんな考え方があっていいですねぇ、あっはっはー♪」という言い方に引っ掛かったというのなら、その点はお侘びしましょう。申し訳無い。

 ただ、詰めが甘い!というのは、あくまで制作者側に対する意見なので、「そうは思いません」と仰るならそれで一向に構いませんよ。それ以上何も言う気はありません。(てか、もう散々書いてるし)

 一つ申さば、鑑賞力の問題について棚上げしてはいますが、先にも書いた通り「まぁ平均的だろ」と思っているし、もっと言えば取り敢えず話を進める上での留保条件としてでもそうしておかなきゃ話が進まないんですけどね。これはそれこそ当てこすりだけど、私はやれオペラを何年見たの、オペラを何本見たのなんて話で鑑賞力なんか分かりっこ無いし、そもそも「鑑賞力」に客観評価なんてホントは無理だろ、と思ってるので、意味の無い話だな、と思ってます。まして、この愛の妙薬をどう受け取るか、ということだけで鑑賞力の有無なんて議論出来ないと思うし。

Verdiさん:
僕がひっかかったのは、ご指摘の部分ではなく、
『中には、「現実と地続き」であることに違和感を感じず、さりながら現実にはあり得ない振る舞いをすることを許容してしまう見方を出来る人もいらっしゃるでしょうが、私はそうじゃないだろう、もっと考え抜け、と思うし』
の部分です。
ま、もう、どうでもいいんですけどね。
鑑賞力の客観的評価は出来ないとは思うけど、「この人、判ってないなあ」と感じる事は出来ますね。
では、もう本当にこれにて失敬。
安達Oさん>

>鑑賞力の客観的評価は出来ないとは思うけど、「この人、判ってないなあ」と感じる事は出来ますね。

 ああ、つまり、それが言いたかったのですね。
 であれば、最初からそのように仰ればよいのに。

M.F.さん>

 まぁ、このスレッド、あくまで藤原歌劇団の「愛の妙薬」に関する話なので、あまり他のものを引用し過ぎてもまずいかとは思うのですが.......

 「ある物語をイメージして舞台を演出する」ということを考えるならば、本来は、それを如何にして出来るだけ多くの人に説得力のあるものだと感じさせる事が出来るか、ということを徹底的に追求するのがよい演出家であり、よい演出を作る条件だ、と思うのですね。

 だから、例えば御指摘のマルターラー演出の「椿姫」みたいなのは、私は見ていないけれど、確かに凝りに凝っているのだろうし、非常に緻密に考えて作られているのだろうけれど、それって言い換えれば、内容の一部はパリのオペラを見続けている人でないと分かりません、という話になってしまうし、勿論それだけではないのだろうけれど、ともすると「分かる人にしか分からないがそれでいい」という話になってしまう。一方では、「何のどの部分がどうだった」という言ってしまえばヲタク的な細部追究型の見方に終始してしまって、だからなんなんだ、ということにもなりかねないかな、と思うのです。って、見てないから本来何とも言えないのですが。

 一方で、シェローの演出は、私は映像でしか見た事はありませんが、確かに良く出来ていると思います。つまり、「分かり易い」(笑)
 分かり易いというのは、この話が一種の権力闘争なんだよ、とか、そういったことを浮き彫りにしつつ、あくまでその為だけに設定を「使って」いる所にあると思います。これはあくまで想像ですが、この演出が出た頃は、この話のドロドロとした泥沼の権力闘争、とかいうような面はまだあまり強く意識されてはいなかったのではないだろうか、と思うので、尚の事インパクトはあったと思います。その割に、今から見れば、「読み替え」はされていない、と感じる訳ですよね。つまり、本来的には物語には手が付けられていない。ただ、元々持っていた物語のある一面をクローズアップしてみせた。とかいうことなのかな、と思うのですが。

 話を無理矢理「愛の妙薬」に戻すと、あくまで私の見た所、この演出、そういた比較で言えば大したことはしていないのです。舞台を現代のショッピングモールに移した、ということ。別にそれが悪い訳じゃない。ただ、それに対し、非常に大きな積極的な意味を見出す方も居られるけれど、私はどちらかというとあまり移した意味は無く、却ってそれが元の設定との乖離というものがノイズとして感じられ、完成度を損なっていると感じた。だから、創作物としての工夫が甘い、中途半端だ、もっと考えろ、となるわけです。
 勿論、いや、あれはあれでいいんだ、あれで十分面白いし、愛の妙薬というオペラが持っている「切ないラブストーリー」という側面が現代に通ずるものとして十二分に感じられるし、大体現代に場面を移したことによる「ノイズ」なんて発生してないんだ、むしろ現代人には違和感無く見られるからいいんだ、という考え方もある、ということだろうと思います。(大雑把な把握で申し訳無いけれど)

 私、正直どっちだっていいんですけどね。ただ、折角考えるのなら、せめてそのコンセプトについては考え抜いてぶつけてこい、とは思うのです。皆が皆シェローのような演出を出来る訳ではないし、そんなのばっかりだったら疲れちゃう。でも、わざわざ無難ならざる道を選ぶ以上は、練りに練って来い、と。
 現実に、オペラの舞台上で我々が出会う演出の多くは、そんなに凄いものばかりではないけれど、だからと言って「これはこれでいいんだ」って言ってしまっては、いつまでたっても「次に期待」で終わってしまいますからね。

一緒に仕事をしている安達Oはともかく、私はここに、相手がどなたであれ喧嘩を売ろうとして書き込んできたわけではありません。まあ共同責任ということで、とばっちりがこちらに及んだとしても仕方ないんでしょうね。

本来ならレスアンカーを打ってきちんとお返事するべきところですが、正直、この状況にはあまりかかわりたくないです。
Je chante pour moi-meme ということで興味のある方はお付き合いのほどを。


藤原「愛の妙薬」の演出は、それなりに手間は掛けていたと思います。助演の一人一人に演技をつける、というようなこともしていたようです。

これも見方によっては、間違った方向に全力で努力(笑)という風にしか取られないかもしれないのですが、少なくとも手抜きではなかったと。

歌っているソリストの前を通行人が平気で横切る、などのタブーに敢えて挑む演出であることは、プレトークで説明されていましたが、関係者の方の日記などを読むと、さらにゲネプロで、演出家の指示によりソリストに助演の人が話しかけたところ、歌がとまってしまった、などのハプニングもあったようです。

個人的なレベルでどんなドラマが繰り広げられていようが、そんなことには一切斟酌せず、周囲の社会は進んでゆく。そういうことを表現したかったのではないかと思います。

私はこの相対化が「リアル」だと思ったし、さらに相対化することによって逆に、たとえ社会や集団からみれば取るに足りない個人の恋愛沙汰でも、当事者にとっては一大事であり、しがないモールの従業員であろうが、片や王侯貴族であろうがその感情の強度は「同じ」であろうと感じることができた、その理由から、この演出が好きなのです。

いまどき若い人たちの、ひたすら空気を読んでスベらないように、まわりから浮かないように、と神経質なほど気をつかうコミュニケーションの様態を見ていると、ステージのど真ん中で、しかも声のかぎりに、私が私が俺が俺がと愛の苦悩をおらび倒す、そういうのはあまり共感を得られないかもしれないなあ、とも。

対立の構図が「個人の恋愛VS絶対的権力(もしくは神)」である、たとえば『アンナ・ボレーナ』のようなオペラなら、「私が私が」でもいいでしょう。しかし『愛の妙薬』で対立する図式はおそらく「恋愛VS社会」なのではないでしょうか。

街で見かけるさまざまな光景。たとえば繁華街のビルの踊り場で若い女の子が泣きながら携帯の画面を見つめている。駅のホームで修羅場っているカップルがいる。メール読んで泣いてる? まさか屋上から飛び降りないよね? 声とかかけなくても大丈夫だよね? もしくはあの二人、何を揉めているんだろう? 立ち止まって聞き耳立てたいけど無理……。

その都度無関心を装って通り過ぎるしかないのですが、きっと当事者にとってはそれぞれが椿姫の第三幕だったり、カルメンの大詰めだったりするんだろうな、などと想像することが私にとっての「もののあはれ」だったりします。

雑踏の中の、とるに足りない、だけど当事者にとっては生きるか死ぬかの大悲劇。

閉店後のモールですでに清掃が入り、掃除機も稼働している。そんな中で歌われる「人知れぬ涙」にも、私がそういう「もののあはれ」を感じてしまった。そういうことなのでしょう。

こういう感じ方が特殊で個人的なものに過ぎない可能性もありますが、まあ、そういう理由もあって、私はこの演出が好きであると。

もちろんソリストが揃っていて、(書き忘れてましたが)合唱も素晴らしく、指揮とオケのノリも良かったと、そういう前提条件あってのことですが、それに加えてお洒落で、きれいで、目新しい演出も楽しめたからには、これ以上何を求めることがあろうか

che piu cercando io vo?

要するにそういうことなのでした。
安達遥B/♀さん>

>本来ならレスアンカーを打ってきちんとお返事するべきところですが、正直、この状況にはあまりかかわりたくないです。

 はい、それは誠に申し訳無いです。不徳の致す所です。とばっちりが及んでいると感じておられるなら、その気は別段無いのではありますが、まぁ、説得力無いですよね(苦笑)

 確かに、元々好意的に見ているか、そうでないか、という差異はあるかも知れないけれど、仰られる所の一端は分かったような気はします。(分かりが遅い?)

 結局、捉え方なんでしょうね。
 私のような人間は、「愛の妙薬」というオペラで、何処にでもあるありふれた、けれどそれはそれで当事者にとっては一つのドラマである、そういう恋愛を捉えて舞台にした、そういう見方が出来ない、ということなのだと思います。それを表現したいなら幾らでもメディアはあるし、敢えて「愛の妙薬」でやる必然性は無い。敢えて「愛の妙薬」というオペラでやるなら、もっとはっきりとした描き方をするべきだろう、そう考える。その観点から演出家の詰めが甘い、と考える。
 けれど、そうではない、そうした「取るに足りない」(勿論この立場からすればこれは反語です)些細な恋愛模様を敢えて繊細に描く事がこの演出の着眼点なんだ、だから、舞台設定だってこれでいいし、各人の動きや流れも、これでこそリアリティがあるのだ、と。

 そうですね、そのような考え方は確かにある。けれど、やはり私のような人間は、それでは、この演出はあまりに優し過ぎるだろう、と思ってしまう。
 ............それはつまり、私には愛が無いってことなんでしょうねぇ(苦笑)
 いや、それは半ば冗談ではあるけれど、やはり私はそれは優し過ぎるだろう、と感じてしまうのです。私が「リアリティが無い」と感じる部分も、そこに多分起因しているのだと思います。或いは、失礼に感じられてしまったら申し訳無いのだけれど、あまりに優し過ぎる受け止め方じゃないだろうか、と思ってしまうのです。否定する訳じゃないし、間違ってるとも言わないし、おかしいとも言わない。ただ、私にはもっと冷たい受け止め方しか出来ないな、と思うのです。それは、実は単に、この演出に対し(或いは「愛の妙薬」というオペラに対し?)共感を抱いていない、ということでしか無いのかも知れませんけども。
 と、こんな風に書くことは失礼なのかも知れないけれど、でも、例えばここで空気を読んで「そうですね、分かりました」と言って共感を示して見せる方が、本当はよほど失礼だと思う。だから私はこんな風に書く。その方がいいんだ。その考え方自体が、或いは、私がこの演出をポジティヴに受け止め得ない理由の一つなのかも知れません。

 いや、ただ単に「分からない」というだけのことなんでしょうけども(笑)


 尚、前にも書きましたが、「その他大勢」の演技については、この演出の文脈にあっては決して悪くはないと思います。


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