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日本企業の動きコミュの91、第1回 浜松在の鍛冶屋に生まれる(上) 本田宗一郎(本田技研工業=ホンダ創業者)

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 私は明治39年(1906年)、浜松市の在、静岡県磐田郡光明村(現在天龍市)で生まれた。父儀平は鍛冶屋(かじや)、私はその長男で、いわばふいごとトンテンカンの槌(つち)の音とともに育ったわけである。おじいさんの代には百姓をしていたが、おやじの代になって鍛冶屋をはじめ、家は貧乏だった。それで、よく妹を背におんぶして学校に行ったり、ふいごを押して父の手伝いをした。物心がつくかつかぬかで、くず鉄を折りまげては何かわけのわからぬものを作って喜んでいた私だけに、トンテントンテンやって農具を作ったり修理する仕事はむしろ好きでもあった。

 学校へ行くようになる前から、私は機械いじりやエンジンには興味をもっていた。私の家から4キロほど離れたところに精米屋があって、そのころとしては珍しい発動機が動いていた。私はおじいさんに背負われてその精米屋によく連れてってもらったが、発動機のドンスカドンスカという音と、石油の一種独特のにおいをもった青い煙がたいへん魅力的だった。そこからさらに1キロほど離れて製材屋があり、そこではノコが勢いよくブーンとうなりを立てて回っていたが、私はそれを見るのがたまらなく好きだった。なにしろ機械の動くのを見てさえいれば、しごくごきげんなのだった。

 だから山東小学校(やまひがし)時代にも、理科は5年までの植物や昆虫は苦手だったが、6年になって電池とか天秤とか試験管、機械などが顔を出すようになってからは好きだった。もっともその理科も、頭ではよくわかり、先生に聞かれれば答えられるのだが、いざ試験となるとさっぱりだった。というのも、習字や読み方がきらいで、字を書くのがめんどうくさかったからである。とにかく手先は器用な方で、物を造らせられればだれにも負けない自信があったが、字ではうまく表現できない。つづり方や書き方がいやでいやで、その時間になると教室を抜け出し、裏山の木の上に登って空でもながめていることの方が多かった。これはいまも同じで本を読んでもスムーズに頭にはいってこないが、テレビだと耳と目の両方からきわめて能率的に頭にはいる。

 私が子供のころ、私どもの村にはじめて電灯がついた。そのとき私はペンチとドライバーを腰にした電気工夫が電柱に上っていろいろワイヤーをひねっている姿を見ていたく感激した。この姿が大げさに言えば英雄の姿にも見え、たいへん魅力的で家に帰っても忘れられなかった。そこで、いろりのソバにすわっているおじさんの肩に上って電気工夫よろしく、ハゲ頭の薄い毛をひねって「オレは電気工夫だ」といって得意になり、はしゃぎ回った。

 小学校の2、3年のころ、ある日学校から家に帰ろうと道を急いでいると、私の村に自動車が来たという話を耳にした。私は何もかも忘れてすっ飛んで行った。例のホロつきのやつで、村のせまい道をノロノロ走っていた。子供の私の足でもすぐ追いついて、自動車のうしろにつかまってしばらく走った。初めて見る自動車。それは感激の一語だった。停車すると油がしたたり落ちる。この油のにおいがなんともいえなかった。私は鼻を地面にくっつけ、クンクンと犬よろしくかいだり、手にその油をこってりとまぶして、オイルのにおいを胸いっぱい吸いこんだ。そして僕もいつかは自動車を作ってみたいな、と子供心にもあこがれた。そういうことがあってから、隣の町にちょいちょい自動車がやって来るようになり、私はそのたびに学校から帰るやいなや、妹を背に子守りをしながらいつもそれを見に行った。

 大正3年(1914年)の秋、私が小学校2年のときだった。約20キロほど離れた浜松の歩兵連隊に飛行機が来て飛んでみせるという話を聞いた。私はそれまで飛行機というものを絵では見ていたが、実物はまだ見たことがなかった。なんとかして見たいものといろいろ考えたすえ、父にせがんだところでどうせ許してもらえないと思った私は、その数日前、家族の目を盗んで「金2銭也」をせしめ、軍資金を準備した。

 いよいよその当日、私は何くわぬ顔で父の自転車を持ち出し、浜松に向かって一気にペダルを踏んだ。もちろん学校はサボったのである。だが小学校2年の私に、おとなの自転車は大きすぎた。しりがサドルに乗らない。そこで片足を三角に突っ込み、いわゆる三角乗りというやつで夢中でペダルを踏みつづけた。やっと連隊が目の前に見えたとき、私は胸のときめきをどうにもしようがなかった。

 だが、その喜びもつかの間だった。練兵場にはへいが張りめぐらされ、たしか10銭ぐらいの入場料をとっていた。2銭しか持たない私は自転車をかかえてしょう然とした。せっかく来たのだ。なんとか見たい。ふと目についた松の木に私はスルスルと登った。下から見つかっておろされたらおしまいだと思って、枝を折って下の方をかくした。

 こうして私は目的を達した。やや遠目ではあったが、私はここで初めて飛行機というものを実際に見、ナイルス・スミス号の飛行ぶりに感激した。帰途の三角乗りペダルは軽かった。スミス号の飛行士がハンチングのツバを後方に回して飛行眼鏡をかけた勇姿を思い出しながら、私はいつのまにか学帽のツバを後ろ向きにしていた。

 家に帰ったらきっとどなられるに違いないと覚悟していたが、初め怒っていた父は、私がこうやって飛行機を見て来たと話すと「お前、ほんとうに飛行機を見て来たのか……」と父自身感激してしまった。その後、私は父に鳥打ち帽をせがんでもらい受け、ボール紙で飛行眼鏡を作り、竹製のプロペラを自転車の前にとりつけた。そして鳥打ち帽を後ろ向きにかぶり、スミス号の飛行士を気取って得意になってその自転車を乗り回した。

http://bizacademy.nikkei.co.jp/leader/resume2/article.aspx?page=3

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「私の履歴書 復刻版」に本田宗一郎氏登場
グローバルカンパニーを興した巨人に学ぶ

 日経Bizアカデミーの人気コラム「私の履歴書 復刻版」では、2月2日から本田宗一郎氏の連載がスタートしました。

 本田氏は言わずと知れた世界的な自動車メーカーであるホンダ(本田技研工業)の創業者。松下幸之助氏らと並ぶ20世紀を代表する日本の経済人です。自動車修理工から身を起こし、オートバイ製造を経て、世界的な自動車メーカーを一代で築き上げた稀代の経営者であり、本田氏およびホンダの影響は日本はもちろん世界中に広がりました。

 1962年に日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」ではその生い立ちから始まり、戦後の復興期、高度成長期を駆け抜けて世界に進出していった「前半生」が生き生きと描かれています。

 ちょうど半世紀前に書かれた文章ではありますが、その内容はいまもなお色あせることはありません。

 モノづくりへの執念やロマン、合理的な経営哲学、国境をものともしない世界観、など現代のビジネスパーソンが学ぶべき点は少なくありません。何より、夢を追いかけ続ける本田氏のパーソナリティーが魅力的です。

 グローバルな舞台で活躍を目指す読者のみなさんに、ぜひ読んでいただきたい連載です。

【連載の主な目次と内容の一部】

▽浜松在の鍛冶屋に生まれる
理科は5年までの植物や昆虫は苦手だったが、6年になって電池とか天秤とか試験管、機械などが顔を出すようになってからは好きだった。もっともその理科も、頭ではよくわかり、先生に聞かれれば答えられるのだが、いざ試験となるとさっぱりだった。というのも、習字や読み方がきらいで、字を書くのがめんどうくさかったからである。
つづり方や書き方がいやでいやで、その時間になると教室を抜け出し、裏山の木の上に登って空でもながめていることの方が多かった。これはいまも同じで本を読んでもスムーズに頭にはいってこないが、テレビだと耳と目の両方からきわめて能率的に頭にはいる。

▽自動車修理工場に見習奉公
デッチ奉公をはじめてから1年半ばかりたった大正12年(1923年)の9月、関東大震災が発生した。そのとき私がまっさきに飛びついたのは、なんと電話だった。電話が非常に高価なものと聞いていたので、ドライバーで電話機を取りはずし持って逃げようとしたのである。

▽東京に進出、初の4サイクル
25年9月に東京の北区上十条に組み立て工場を作り、新しい意気に燃えて仕事に取りかかった。郷に入れば郷に従えで、のんびりしたいなかにいては、製品もやはりいなかっぽい、やぼなものができがちだ。しかしこんどは刺激の強い都会で思う存分の仕事ができると思うと、実にそう快な気持ちになれた。そこでさっそく月産300台のオートバイの組み立て工場をつくると申請したところ通産省に呼びつけられた。

▽不況下、不眠不休で代金回収
私はすぐかねの取れるいいものを作ることに専心し、専務は早く代金を回収できる方法を考えた。全社一丸となってこの不況を乗り切ろうと努力したが、その努力が理論的にもっと資金を早く回転する方法とか、時間を大事にするくせとなって現われた。本田技研の基礎はこのときに固まったといってさしつかえない。

▽国際レースに勝ち世界一へ
レースを初めて見てビックリするやら悲観するやらの私ではあったが、すぐ持ち前の負けぎらいが頭をもたげてきた。外人がやれるのに日本人にできないはずがない、そのためには1にも2にも研究をしなければと考えて、帰国後さっそく研究部を設けた。

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