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千載和歌集コミュの源雅定の歌  その1

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源雅定の歌  その1


毎朝見花といへる心をよみ侍りける
   たづね來て手折るさくらの朝露に
     花のたもとの濡れぬ日ぞなき(春歌上 53 中院右大臣)

「毎朝桜の花を折ろうとくるが、桜にある朝露に袂が濡れない日はないことだ」(イベリコ)

 歌としては平凡なものだろう。ただし、上の句の語調はよい。袖が濡れるとすると涙を連想するが、袂とすると桜の朝露に濡れることが何の妨げもなく受け入れられる。幾分の工夫もあるのだろう。また、「たづね」、「手折る」、「たもと」と語調を整える効果もある。

この歌、次の古今和歌集の歌に似る。毎朝ということで、「朝ごとに」ではなく、「日ぞなき」が連想され、「朝露」という言葉と合わせて、歌題に沿わすことができたのだろう。

   山たかみくもゐに見ゆる桜花
     心の行きて折らぬ日ぞなき  (賀歌 358 素性法師)


(再説) 入道右大臣は平安後期の公卿、歌人、源雅定のこと。1150年に正二位右大臣まで昇進した。雅定の妻は顕季の娘である。中院邸は六条北、烏丸西にあって顕季が住んでいた場所でもある。今の東本願寺あたりであろうか。 雅定は顕季から和歌の指導を受けたとのことである。

源雅定:
「素直でよく気が付き、堅苦しい所もなく魅力的な性格であった。また、学才もあり、朝廷の儀式にも通じていたとされる。幼時より舞楽に長じ、康和3年(1101年)3月9日の白河院五十歳の賀の試楽における童舞で、9歳にして『胡飲酒』を舞い、賞賛された。父雅実は雅定の舞の技能に自信を持っていたためか、嘉承元年(1106年)に開催された石清水臨時祭における一の舞に雅定が選ばれなかったことに腹を立て、雅実が祭りの途中で帰京してしまったとの逸話がある。また、『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が山村政連に殺害された際、『胡飲酒』を伝受していた雅実が多忠方(資忠の子)に伝えた逸話があるが、雅実が死去してからは、多忠方は雅定を師としていたとされる。豊原時元から伝授を受けた笙にも秀で、嘉応2年(1170年)迄に開催された御遊において、各種記録に記された笙の演奏回数が、2位の藤原宗忠を大きく引き離して最多となっている。また、歌人としては藤原顕輔・源俊頼らと交渉があり『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。」(ウイキ)

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